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Prologue:花弁

彼女との出会いは、桜木町の駅前の人混みの中だった。


それを俯瞰的な話にすると、恋物語によくあるありふれた話の始まりかもしれないが。


駅を出た広場で動物の保護活動の募金を募るおじさんを目の前に、行きたくもないサークルの打ち上げで付き合わされたカラオケで誰が歌ってたかは覚えてないが、この場所、いきものがかりのMVに出てきたな、なんて事を思いながら、特に欲しいものも無いが、授業までの暇つぶしのつもりでコレットマーレの方へ向かってた。


肌寒くもなく、汗ばむこともなく、空は雨も降らなそうな大したことない曇り空で。


一目惚れだったんだ。


彼女は"動く歩道"への長いエスカレーターから、駅の方へ降りてきていて、

俺はランドマークタワーの方へと向かう途中だった。


必然とその”運命”を惹き起こしたエスカレーターを見上げる側だった。


ーーーそれは、「目」だけでなく、五感の全てを彼女に奪われたような感覚だった。


とりわけ美人でもない。エスカレーターを降りている時の人なんて「楽しい」だとか「おもしろい」だとかそんな感情が生じる事など純朴な子供でない限り無に等しいだろうから、当然愛嬌の良さを感じる要素もない。


ファッションセンスが良かったのか?否、誰にどうかと問えば、ユニクロやGUなどのファストファッション店でマネキンが着ているようなコーディネートをそのままを着ている、という感想が出るような、至って普遍的な雰囲気を纏っている。


でも、可愛かったんだ。


刹那に、彼女から僅かにも感じた影響が、俺には全てが愛おしかった。


だけど、俺はそのエスカレーターを素通りした。


……初めて会った人間に声をかけるなど、友人と話すのにも気を使いすぎてしまうコミュ障で隠キャな俺では、女性に話しかけるなんてただでさえハードルが高いのに、軽薄なナンパ師やら詐欺師やらとでも思われて終わりだの考えていれば、その日は結局、彼女は駅前の人混みに吸い込まれ紛れてしまった。


追おうにも、追うための口実が見つからなかった。


俺は、彼女を見逃した。


ーーー


それから俺は、狂ったようにインターネットを巡りに巡った。


【一目惚れ】【運命】【条件】【心理】【引き寄せ】………。


そんなワードを思い付く限り片っ端から検索した。


自分の運命の相手は、一目で見れば解る、とか、遺伝子レベルで惹かれている、だの、自分と似てると惹かれる、とか逆に自分と全く似てないと惹かれる、とか、あからさまに仮説が矛盾してるのに、今までの自分であれば、絶対信じないような胡散臭いスピリチュアルさえも信じかけてしまうほどだった。


或いは、ただ過去に会った事のある知り合いを忘れていただけで、顔を見て記憶が蘇った感覚を運命と勘違いしたという線を調べるために、幼稚園からの卒アルなどを見返してみたりもしたが、彼女に該当する顔は居なかった。


そんな事を調べていくうちに、自身が理解できたことは一つだけで、


『あの時、彼女に声をかけなかったので、何も始まらなかった』


という足掻きようもない現実に、ひたすら俺は打ちひしがれて居たということだけだった。





しばらくして、そんな苦しみから解放された瞬間が訪れてからは呆気なくスピーディだった。


芸術に勤しむ人間であれば共感してもらえるだろうか。精神的に悩み苦しんでいる時ほど、不思議と己の感性は生き生きとし、表現がどんどんと湧き上がる感覚がある。特に、それが恋愛とあらばさらにブーストする。


美大に通う俺は、アトリエに篭り切り、彼女との出会いの瞬間ばかりを脳内でループ再生しながら悲哀に酔い飲まれていた。その湧き出た感情を絵の具に置き換え、キャンバスに乗せる事に夢中で勤しんでいた。


今見返してしまえば、その作業はどうにも自惚れが全面に現れていて、小っ恥ずかしくなるような作品なのだが……。


それまでの俺は、廃墟や街並みの褐色で暗い絵ばかり描いていた。


床には黒、白、茶の油彩絵の具の、巻かれ潰されて絞りきったチューブが何個も転がっていた。


けれど彼女を一目見てからの俺は、目が滑るほど赤や青の原色の絵の具が、派手に塗りたくられた彩りの溢れた”花”を描いていた。買ってから出番のなかったはずの絵の具たちを、チューブの銀色の封をわざわざ開けて。


あの時、一瞬ですれ違っただけの彼女に、もう一度会えるのか。もしも奇跡が起こって会えたとしても、仲良くなれるかどうかもわからない。彼女を探そうにも素性も名前も知らない。広い砂漠に落とした一粒のビーズを見つけるような"不可能ではないけど不可能"。


行動しようにも何もできない現実に打ちのめされるから、彼女の事を考えると苦しい。けれど、彼女の事を考える事は楽しい。忘れたいのに、想っていたい。常に相対した感情に苛まれていた。だが、その"喜怒哀楽"の感情こそが筆に乗り、絵に、色に現れた。


そんなふうにキャンバスに向かい続けて、半年は経っただろうか。


”花”の絵はまだ未完成だった。


色を加えては、重ね潰したり、悩みながら眺めたり、絵の具も思考も繰り返すように彼女を想っては、無気力で、孤独で、焦燥感に苛まれて、渇望して、絶望する……。


動かした筆の結果に納得する日が一向に来なかったのだ。


もう最初に描いた下書き(プラン)がどうだったかももう思い出せない。


それでも美大生というのは残酷なもので、締切は背後まで追いかけてくるものだ。無理やりにでも絵を描き進めようとして、心から腕を伝って筆先へ出力されるよは、目の前の"絵の具と名前のついているだけの混ぜられた油の液体"のようにごちゃごちゃになった感情だけだった。




ところが、唐突に、ふと、その絵が生まれ変わる日が来るーー



「寒色のスイレンには、花言葉が無いんですよね」


俺の背中にいるものは、『コンクールの締切日』だけだと思っていた。「あと一週間もないぞ」「先生に延長の温情でも懇願でもする気か」「今納得できないのならこれから先何作ってもお前には無理だ」ーーーなんて、そんな背後からの鬱屈とした声。


だけど、その時に背後から鼓膜へ沿うようにぞくぞくと伝わったのは、凛とした艶やかな声だった。


まるで豊富に水を与えられ、潤いを纏った可憐な花が似合うような。


その女性は、同じ学生であろう、キャンバスに向かって苦慮する俺の姿も気にせずも、俺の絵だけを見て、声を掛けてきたようだった。


「あぁ、突然すみません、私、”もね”って名前なんです」


「ーーへっ?」


情けない。他人とのコミュニケーションよりもアトリエに篭って鬱々と作品作りに勤しむ方が楽しいと思う人間が、突然人に話しかけられたので、喉の筋肉が全く働いていないだらしのない”音”が、声帯から掠れ出てしまった。


「それ、”モネ”が愛した花だから、気になっちゃって」


固まって返事の言葉も出せない俺を待たずに、彼女は言葉を続けた。



「スイレン」



今まで、俺の絵を見て微笑む人間なんていなかった。


ましてや、眉間にシワを寄せて睨むように眺めてはそれを楽しむような人間ばかりだったし、自身の作品制作の根底の拘りとして、そもそもそのようになるよう仕組んでいたものばかりだったから。


むず痒くて、とても妙な感覚だったのをハッキリと覚えてる。


俺の絵が、誰かの笑顔を生み出す、なんて。


彼女の唇は、美大生の筆遣いさながら丁寧に塗られた艶めいたミルキーなピンク色で、その膨らんだ唇の広角をあげて、じーっと、それが"半年もの間、俺が彼女を想いながら描いた絵"だなんて露知らず、無垢で真っ直ぐな笑顔で優しく見つめていた。


その表情も所作も、紛れもなく、幻を追うかのように想い続けた桜木町で巡り逢った”あの時の”彼女だったんだ。

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