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さまよい刑事  作者: 永橋 渉
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第2話 大切な記憶


 しばらく幅の広い住宅街の道を走ると、窓から善願寺(ぜんがんじ)の鳥居が見えてきた。

薮中は鳥居に気づくと、急に「ちょっと止めてくれ」と堤に言ってきた。

堤は言われるまま覆面パトカーを路肩に静かに寄せて止めた。

すると薮中は覆面パトカーから降りて、鳥居の先に続く参道を眺めた。

堤もまた薮中が眺める参道を見ようと覆面パトカーから降りると参道を眺めた。

参道ではニ、三歳くらいに見える幼い男の子が母親と向き合って遊んでいる。

薮中はその参道を無言のまま眺め続けた。

「薮中さん、どうしたんですか?」

「んっ、ここは私が警察官になることを決めた、大切な場所なんだよ」

「そうなんですか」

「忙しさにかまけて、随分長いこと、稲荷住職にも会っていないなぁ……」

薮中は二十九年前、参道の先にある善願寺で起きた人生の中で一番大切な出来事を思い出していた――



 それは薮中が十一歳の秋、まだ境内(けいだい)のいちょう並木が黄金(おうごん)色の葉を()(しげ)らせ、

黄色く(じゅく)し肉質化した外皮をまとった銀杏を(あた)りにまき散らし、

酪酸(らくさん)とヘプタン酸の放つ異臭を辺り一帯にばらまいている十一月の頃だった。

薮中少年は辺りに漂う異臭とお金が無い生活に苛立(いらだ)ち、児童公園の砂場で拾った磁石を

自分が着ているセーターの(すそ)をほぐして作った毛糸に(くく)()け、

賽銭箱の中に磁石を垂らして賽銭を取ろうと(くわだ)て、今まさに実行しはじめていた。

「ちぇ、うまく取れないなぁ〜」

薮中少年はこの頃、食料品の加工工場で働く母、雪絵(ゆきえ)と四畳半一間という

工場の独身寮を間借(まが)りして、貧しいながらも笑顔の()えない暮らしをしていた。

だが、そんなささやかで幸せな家庭を悲劇がある日唐突に襲った。

日頃、病気などしたことのない母親が、夕方、青ざめた顔でふらつきながら部屋へと帰って来ると、

薮中少年の前で突然倒れた。慌て泣き叫ぶ薮中少年の声を聞き付けた母親の同僚(どうりょう)たちが集まり、

母親は救急車で病院に運ばれ、大事に(いた)らないですんだかに見えた。

だが、医師からの宣告は十一歳の薮中少年にとってあまりにも残酷なものだった。

母親の病名は末期の肺ガンで、ガン化した組織は肺全体に広がり、切除のしようがない状態で、

既にリンパ節にも転移が見つかり、外科的処置(げかてきしょち)は絶望的なほど進行している状況だった。


 それからというもの、薮中少年は学校が終るとすぐに病院に駆け付け、母親の側から離れることはなかった。

入院後、二週間ほど()った土曜日、主治医の許可をもらい久々に親子水入らずで、

一晩、母親の病室で泊まることとなった。

薮中少年は嬉しかった。

それまで母親と寮で暮らしていた時は、布団を寄り添うように並べ、時には母親の布団に潜り込み、

母親の温もりを感じながら眠る日もあったが、母親が入院してからというもの、

一人寂しく母親と暮らしていた寮の四畳半に布団を敷き、目をまっかに()らして、

毎日のように涙でまくらを濡らしながら眠りについていた。

独りで眠る薮中少年にとって四畳半の部屋は、体育館のまん中で独り寂しく眠るようなもので、

病室であっても母親の側で眠れることは何にも()えがたい喜びであった。

土曜日の夕食は病院の(はか)らいで薮中少年にも母親と同じ食事が振る舞われていた。

ささやかな病院食ではあったが、久々に味わう親子二人の晩餐(ばんさん)を楽しんだ。

久しぶりの安堵感(あんどかん)だったのか薮中少年は寄り添うように置かれたベットの上で、

母親に頭を()でられながら幸せな眠りについた。


 翌日の日曜日も朝から親子二人、ベットの上で食卓を囲み笑顔の絶えない薮中少年であった。

午前十時を少し回った時、母親が「ネクターが飲みたい」と突然言い出した。

薮中少年は小銭を受け取ると、それを握りしめ病院の売店に急いで向かった。

だがそこにネクターは1本も無かった。薮中少年はしばらくその場で考えると、

病院の前に大きな酒屋があったことを思い出し、すぐさま走り出した。

病院の正門から飛び出し、信号の前で足踏みしながら青信号を待つ数十秒が一時間にも思える感覚だった。

信号が青になり横断歩道を全力疾走で駆け抜け、息を切らせながら酒屋に飛び込むと

「おじさん、ネクター1本ください!」と叫んだ。

薮中少年はとびきり冷えたネクターを買い、ビニール袋に入れてもらうと

「ありがとうございます!」

と店主に告げ、再び全力疾走で病院へと戻った。

階段を駆け上がり、息切れに耐えながらも母の待つ病室へと急いで向かった。

病室に入ると早速ビニール袋からネクターを取り出し、蓋を開けて母親に差し出した。

「お母さん、一番冷えたネクター買ってきたよ!」

だが母親が言葉を発することは二度と無かった。

微笑むように目を閉じ、眠るように事切れた母親を目の当たりにした薮中少年は、

持っていたネクターの缶を床に落としてしまった。

薮中少年の身寄りが無くなった瞬間だった。


 その後、しばらくして薮中少年は児童養護施設に預けられ、物事が自分の思いどおりに運ばなくなると、

暴れることも少なくなかった。

母親と二人で貧乏(びんぼう)な暮らしをしていたせいか、辺りにある物を器用に加工しては生活用品を造り出すという

手先の器用さと、奇抜(きばつ)な発想を()(そな)えてはいたので、賽銭箱から磁石を使いお金をせしめる発想など

すぐに思い付いた。だが、昭和中期に作られた五十円硬貨は、多量のニッケルを含んでいたため

磁石に付くのだが、磁石に引き付けられる金属の単体は、鉄、コバルト、ニッケルの三種類だけであり、

それらを含んでいない現在の国内硬貨が磁石に付かないという事実を薮中少年は()(よし)もなく、

必死な思いで体勢を変えながら、磁石で釣ることなど叶わない硬貨釣りに没頭し続けていた。


 時を同じくして、この寺の住職で一ケ月後に還暦(かんれき)(むか)えようとしている

稲荷 修道(いなり しゅうどう)住職が、境内の掃除をしようとほうきを持ち社務所(しゃむしょ)玄関(げんかん)から出てきた。

薮中少年の怪しい振る舞いに不審(ふしん)を抱いた稲荷住職は、薮中少年の背後から足音を忍ばせながら

そっと歩み寄って声をかけた。

「何をしておるのじゃ」

薮中少年は心臓が止まるくらい驚き、目を見開いて声を上げた

「うぁ〜!」

とっさに逃げようとする薮中少年に稲荷住職は

「こら待たんか!」

と地鳴りのように叫んだと同時に、電光石火の早業で薮中少年の襟首(えりくび)を掴んだ。

「捕まえたぞ!」

その言葉に力無くうつむき逃走を断念した薮中少年は襟首を掴まれ、何の抵抗もできないまま

本堂に連れて行かれた。本堂に連れてこられると畳の上で内陣(ないじん)を向き正座をさせられた。

稲荷住職はうつむいて正座をする薮中少年の前に静かに正座をし、じっと薮中少年を見つめた。

「何故、賽銭箱から金を取ろうとした」

うつむいたまま何も言わない薮中少年に稲荷住職は(かつ)を入れようと怒鳴(どな)った。

「答えんか!」

薮中少年はためらう表情を見せながら、つぶやくように答えた。

「お小遣いが…欲しかったんだ」

(おろ)(もの)!」

そう怒鳴る稲荷住職の声が本堂に響き渡った。

うつむき(おび)える薮中少年に稲荷住職は(いまし)めをひも解きはじめた。

「よいかよく聞け。お金はあれば良いというものではないぞ。そのお金が持つ(とうと)い価値を知ってこそ

意義があるのじゃ」

薮中は稲荷住職の目を見据(みす)えて反論した。

「お金がなきゃ、何にもできないじゃないか!」

「世の中の人は、みんな汗水垂らして必死になって働き、その報酬として得た尊いお金で生活しておるのじゃ」

「じゃあ賽銭箱のお金は生活に(あま)ったお金じゃないかぁ」

「どういう事じゃ?」

「余ったから入れるんだろ。だったら貧乏な奴が貰ってもいいじゃないか!」

「まったくお前は説教だけじゃ通じんようじゃなぁ」

稲荷住職は薮中少年の耳を(つま)み上げた。

「いっ、痛いよ!」

と何度も叫ぶ声に耳を(かたむ)けず、本堂から庭へ薮中少年を連れ出した。


 稲荷住職は竹ほうきとちり取りを薮中少年に突き付け、境内に溜まった落ち葉をはき集めるよう命じた。

辺りに散らばったいちょうの葉の中には、異臭を放ち続ける銀杏も存在する。

薮中少年は異臭に耐えながら、落ち葉を竹ほうきではき集めつつ逃げるチャンスを窺っていた。

だが薮中少年の脇には常に腕を胸元で組んで仁王立(におうだ)ちで監視する稲荷住職が居るので、逃走はままならない。

時折、稲荷住職の隙を探るような素振りを見せる薮中少年ではあったが、

(さと)りの(いき)に達した百戦錬磨(ひゃくせんれんま)の稲荷住職にとって、薮中少年の考える逃走手段など

手に取るようにお見通しであった。

薮中少年は掃除が終るまで決して帰ることなどできないと思ったのか、小さなため息をついて(ささや)いた。

「何で俺がこんな事をしなくちゃいけないんだよ……」 

稲荷住職はその聞き捨てならない囁きに対して大声で()えた。

(たわ)けた事を!しっかりやらんか!」


 その後、薮中少年は、社務所の玄関、社務所から本堂へ続く廊下や縁側(えんがわ)の雑巾掛けなどを

延々と二時間以上も続けさせられた。最後に本堂の外周を囲む縁側の雑巾掛けをし、

雑巾を冷たいバケツの水で洗い終えた薮中少年に稲荷住職は優しく

「ご苦労様、こっちへ来なさい」と社務所へ導いた。

薮中少年は少し戸惑(とまど)いながらも社務所へ行き、座卓(ざたく)の前で正座をした。

「お腹が減っただろ、少しそのまま待っていなさい」

そう告げると稲荷住職は、薮中少年を一人残して去って行った。

もはや掃除も終り逃げ出す要素も無くなっていた薮中少年は、ぽかぽかと暖かい社務所の中で

突然訪れた睡魔(すいま)と戦うように体を前後に揺らせ、船を()ぐような素振りを見せながら座布団(ざぶとん)の上に座っていた。

何処(どこ)からか電子レンジの「チン!」という電子音が聞こえてきた。

薮中少年はその音に反応して目を見開いた。

廊下を歩いて近づいてくる足音が部屋の前で止まると引き戸が開いた。

そこにはお(ぜん)を抱えた稲荷住職が立っていた。

お膳の上には、山盛りのどんぶり飯と冷凍食品なのであろうかソースの(から)まった大きなハンバーグ、

豆腐と油あげの入った味噌汁が美味しそうな湯気をたたえて載っていた。

稲荷住職はそのお膳を薮中少年の目の前にそっと置いた。

薮中少年は唾液(だえき)を飲み込んで質問をした。

「これ、食べてもいいの?」

「食べなさい」

「いっ、頂きます」

薮中少年は夢中になってお膳に盛られた暖かい食事を食べはじめた。

その姿は、二、三日ぶりの食事にありつけたのでは、と思える程の勢いで、むさぼるように食べていた。

稲荷住職その光景を優しい微笑(ほほえ)みを浮かべながら見つめていた。

「労働した後の食事は美味しいか?」

薮中少年は口いっぱいに頬張った飯を辺りに飛ばしながら「美味しい!」と素直に答えた。

稲荷住職は必死になって食事を続ける薮中少年がこっけいに見えたのか、微笑んだ後、優しく声をかけた。

「お腹が減ったら、またここにおいで」

薮中は飯を頬張りながらうなずいた。そして稲荷住職は一言付け加えた。

(ただ)し、掃除はしてもらうぞ」

その言葉を聞いた途端(とたん)、薮中少年は食べていたご飯を(のど)に詰まらせて、胸を叩きながら味噌汁をすすった。


 この日から、薮中少年と稲荷住職の心が打ち解けたあった付き合いがはじまっていった。

薮中少年は不定期ではあったが、善願寺を訪れると社務所脇に置かれた倉庫から掃除用具を持ち出しては、

境内のはき掃除を進んでこなした後、社務所にいる稲荷住職のもとを訪れ、日々小学校で起きた事や

悩みごとなどを語り、稲荷住職の教えをもらっていた。

やがて薮中少年は小学校を卒業して中学生になり、善願寺を訪れる間隔(かんかく)次第(しだい)に長くなり、

いつしか途絶(とだ)えてしまった。

稲荷住職は自分から巣立って行った薮中少年におおいに喜びは感じていたが、

心許せる小さな親友を失ったようで心寂しく思う日々が続いた。


 薮中少年が十五歳になった二月のある日の夕方、薮中少年が黒い詰め襟の学生服を着て

本堂で独り目を閉じたまま正座をしていた。そこへ本堂の戸締まりをしに稲荷住職が現れた。

稲荷住職は内陣を向いて座る学生服の少年を見るなり静かに微笑んだ。

稲荷住職はこの上なくうれしかった。

それは、善願寺を小さな親友が再び訪れてくれたからだ。

稲荷住職は(みずか)らの思いを押し殺し、薮中少年の元へ歩み寄って静かに声をかけた。

「こんな時間に珍しいな、どうした?」

薮中少年もまた稲荷住職の声が聞けたことがとてもうれしかったが、振り向くこともなく

目を閉じたまま昨日も会ったかのように、

「明日、高校の入試があるので心を落ち着けにきました」

そう答えた。

稲荷住職もまた昨日も会ったかのような口調で答えた。

「そうか、ゆっくりして行け」

「ありがとうございます」

久しぶりの再会なのに、あまりにも短い会話ではあったが、二人の間では多くを語らずとも、

お互いが変わらぬ関係であることが確認しあえていた。

稲荷住職は本堂の戸締まりはせずにその場を静かに去って行った。


 その日から四年の年月が経ってからのことだ。

善願寺の本堂で稲荷住職が御経(おきょう)(とな)えている時、稲荷住職の後ろで微かに畳を踏み締めて

近づいてくる音がすると、誰かが稲荷住職の後ろで正座をした。

稲荷住職はその気配に懐かしさを感じながら、御経を唱え続けた。

そして御経を唱え終えると、背中に感じる気配が薮中であることを確信し

「薮中くんだな」と振り向いた。

そこには真新しい警官の制服をまとった薮中がいたのだ。

薮中は早く報告したい思いを(おさ)え、礼節(れいせつ)を持って挨拶をした。

「お久しぶりです。住職」

薮中は正座をしたまま深々と頭を下げた。

薮中の制服姿はとても(まぶ)しく正義感が()き出ているように見えた稲荷住職は、心の底からうれしかった。

そしてその思いを言葉に込めた。

「立派になったな」

「住職が私を正しい道に導いてくれたからです」

「わしは何もしていない。君が(おのれ)の道を切り開いたのだ。これからも君が正しいと思う道を進めばよい」

「はい」

「己を見失いそうになったら、いつでもここに来なさい。待っているよ」

「ありがとうございます」

短い会話ではあったが、二人にとって再会までの間を()めるには十分な会話であった。


 その後、薮中は第一線の警察官となり、曙警察署の地域課に配属され、交番勤務をはじめた。

警察官になってからすぐは戸惑うことも多かった。

それは守るべき市民からいわれのない警察に対する言い掛かりや暴言を吐かれ、

悔しい思いも少なくなかったからだ。

しかし、それを跳ね除ける程、嬉しい出来事もあった。

警察官になって五年目、日々の業績(ぎょうせき)と上司の推薦(すいせん)もあって、(ひそ)かに目指していた

捜査課の刑事となることができたのだ。



 薮中は善願寺の参道の先をみつめながら自分が刑事になったいきさつを堤に話して聞かせた。

「いい話じゃないですか、正義を育てた恩師ってところですか」

薮中は警察手帳を見つめて応えた。

「そうだ。…会ってないなぁ稲荷住職。今も元気にしているといいんだが……」

そうつぶやくように答えると、二人は覆面パトカーに乗り込んだ。


 ちょうど時を同じくした善願寺の本堂では、稲荷住職が御経を唱えていた。

薮中の思いが届いたのか、稲荷住職は、突然、大きなくしゃみを二回した。

「ハクション!ヘクション!」

御経の途中であまりにも唐突で激しいくしゃみの風圧が、口内に留まりきれなかった総入れ歯を

勢いよく口外(こうがい)へと押し出すと、目の前の(りん)に当たり荘厳(そうごん)な音を発てた。

「ちりーん……」

稲荷住職は辺りを見渡すと、鈴の下に敷いてある座布団に噛み付いた形でとどまる総入れ歯を

拾い上げると口内(こうない)に装着し、何事も無かったように御経を唱え続けた。



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