受験勉強
少女は、今日も少年のマンションに来ていた。大学入試の勉強をする為である。
「生美の実力なら、わざわざ根を詰めて勉強しなくても、大概の大学に入学できるんじゃないか?」
少年は、このところ少女が勉強ばかりしているので、ちょっとつまらなくって、そう言った。
「そんなの分かんないよ。ちゃんと準備をしておかないと、受かるものも受からなくなっちゃうかもでしょ。そ、それに、受験勉強という口実があれば、堂々と博くんの部屋に来れるし……」
最後の方は少し小声になったが、少女はそう応えた。
「そ、そっか。そ、それならいいんだけど。まぁ、ここなら、参考書も、俺の作った入試の過去問もあるしな」
思いもしなかった少女の言葉に、少年も少し赤くなって、そう応えた。
確かに少女は、勉強を教えてもらうお礼と称して、少年の食事を作ったりお掃除などの家事を引き受けていた。毎週末や連休には、泊まり込むことも多かった。そのことに関しては、少年も悪い気はしていなかったが、まさかこのような魂胆があったとは……。
「あ、博くん、この化学式って、どう考えればいいのかな?」
少女が少年に質問をした。すぐ側で英文の学会誌を読んでいた少年は、少女の傍らに近づくと、
「これは、アルコールとアルデヒドの互換反応があって、こうなるんだよ」
と、ノートの余白に化学式を書きながら説明した。
ふと振り返ると、目の前に少女の顔があった。
「あ、あ、ありがと。良く分かったよ」
「そ、そ、そうか。な、なら良かった」
二人共、赤くなって照れていた。今更ながら、微妙な仲の二人であった。
「ご、ごめんね博くん。博くんもお仕事あるのに」
「いいよ、俺は別に大した仕事無いし。……あ、くそう、先越されたか。俺もおんなじ事考えてたのに」
彼は、今朝郵送されてきたばかりの学会誌のページを捲りながらそう呟いた。
「やっぱり、お邪魔なのかな? 論文の執筆とか、遅れてるんじゃないのかなぁ?」
「別にいいよ。世界中に頭の良い奴はいっぱいいるけれど、誰だって脳みそは一個しかないんだ。いつかは誰かが同じ事を考えつくさ。早いか遅いかの違いだよ」
「博くんみたいに頭の良い人に言われても、現実味がないよぉ」
「そうかぁ」
「そうだよ」
と、少女は少年の顔を見ながら笑った。
「やっと笑ったな。最近、勉強ばっかりで、あんまり笑ったところを見なかったからな」
「そう? ゴメンねぇ」
「生美は、やっぱり笑った方が美人だな」
「あ、そかな。ありがと」
少女は照れくさくなって、俯いた。
そんなおままごとのようなやり取りの後、少し時間が経ってから、少年がこう提案した。
「なぁ、生美。入試とかが終わって落ち着いたらさぁ、海外旅行でもしないかぁ。えーっとぉ、……た、例えばマレーシア……とかさぁ」
「え? マレーシアって、確か博くんのご両親が住んでるんだよねぇ。そんなとこ、わたしと一緒になんか行っても、いのかなぁ」
少年の発言に、少女は少し驚いていた。
「いやぁね、俺も長い間、親に会ってないし、生美の顔もちゃんと見せておきたいからさ」
「そ、そだね。う、うん、考えとく」
「あっ、いや。い、生美が嫌だったら、別にいいけど……」
「えっ。嫌じゃないよ。わたしも、博くんのご両親に会って、ちゃんとお話したいから」
「そ、そうか。そういや、生美はパスポートとか、ちゃんと持ってるか?」
「え、パスポート? まだ持ってないけど」
「あのさぁ、パスポートって、二十歳前に取っとくとさぁ、少し割安になるんだ。だからさぁ、マレーシアかどうかは別として、海外旅行に行こうぜ」
「そ、そなんだ」
少年の提案を話し合っていたものの、内容が唐突すぎた。それで、とうとう会話が続かなくなってしまったのだ。
(あーと、折角、旅行で盛り上がってたのに、話すことが無くなっちゃった。どうしよう)
少年はちょっと気不味くなって、言葉が出なくなっていた。だが、それは少女も同じだった。
(ウ~、どしよう。折角博くんが海外旅行の話とかしてくれたのに、もう話す事がないや。どしよう、どうしよう。気不味いな)
二人共に黙り込んでしまった所に、ちょうど<ピロリロリ>と、電子音が鳴った。少年のスマホにメールが届いたようだ。
彼は、さも面倒臭そうに端末を取り上げた。画面に指を走らせてメールを開くと、目を通す。ところが、五秒もしないうちに、険悪な顔つきになった。
「博くん、どしたの。何のメール?」
「うちの親父からだよ! ちきしょう、何だよ! 『シンガポールのカジノですったから米ドルで100万くらい送金してくれ』だとう。ふざけんなよ。何考えてんだ、あんの馬鹿野郎は!」
少年は、かなり怒っていた。
「博くん、100万ドルって、相当な金額だよね」
「当たり前だよ。日本円で1億円以上だよ。しかも、マレーシアなのに米ドルだぞ。普通は宝くじとかで当てないと手に入らないぞ。狂ってるよ。クレイジーだっ! 一体どうやったら、そんだけ借金出来るんだよ」
「博くん、ちょっと落ち着いて」
「これが落ち着いてられるか。ただでさえ、生活費に毎月5万ドルを送金してやってるんだぞ。マレーシアで月収5万米ドルっていったら、超大富豪だぞ。その他にも、俺が起業した会社の株だって持ってんだぞ。それが100万ドルよこせだぞ。どうやったら、そんな湯水のように金が無くなるんだ! ドブにでも棄ててんのか⁉ むしろ教えてもらいたいくらいだよ。決めたっ。もう、絶対、会いになんか行ってやらない!」
普段は冷静な少年が、これでもかというくらいに怒りの感情を露わにしていた。
「は、はは。そだけどさ。博くんも、冷静になって」
「分かってるよ。分かったよ。くそう、100万でいいんだな、100万ドルで。ふぅ……、これで送金。くっそう、あんの糞親父。一回預金口座を凍結してやろうか」
少年はブツクサ言いながらも、父親に送金する手続きを済ませた。
「でも、100万ドルもの大金を右から左に簡単に動かせるなんて、博くんも凄いお金持ちだよねぇ」
「え? そうかぁ」
「そだよ」
少女に言われて、少年は少し落ち着きを取り戻した。
「やっぱり、博くんはちゃんと確保しておかなけりゃ。玉の輿だもんねぇ」
「やっぱり、生美も贅沢したいのか?」
「そういう訳じゃないけど。お金って、あって困るわけじゃないでしょ。お金で幸せは購えないけど、幸せのお手伝いはできるんだよ」
「まぁ、そうだけど……」
そして、少女はちょっと考える仕草をすると、少年にこう言った。
「だからさぁ、いつか、わたしをマレーシアへ連れてってよ」
笑顔を浮かべた少女に、少年は飲み込まれそうになっていた。
「う〜ん、生美がそうまで言うなら……。仕方ないなぁ。今回だけだ。今回だけだぞ。今回だけは、生美に免じて許してやることにしよう」
少年は、口ではさも鬱陶しそうに言ったものの、内心では躍り上がっていた。
(やっぱ、そうだよなぁ。生美と海外旅行かぁ。楽しみだなぁ)
そうして、今日も無事に日は暮れ、少年の両親の首はつながったのだ。同様に、人類もその滅亡へのタイムリミットを、一日だけ延ばすことが出来たのだった。




