6、これで思い残すことはなくなった
(……先ほどのお医者様のものかしら?)
拾ったハンカチを見つめながら、先ほどの診察を思い返す。
話している最中、医師は時折、額の汗を拭っていた。
そこまで暑い日ではなかったけれど、余命宣告という重い話をする緊張からだろうか。
魔石の実験に夢中になっているうちに、かなり時間が経っていた。
今から追っても、もう帰っているだろう。
それでも、ひとまずエレナに伝えようと思い、ベルを鳴らした。
──けれど、反応がない。
いつもならすぐに駆けつけてくれるのに。
まだ医師を送りに行っているのかもしれないと思い、裏口へ向かう。
(こっそり連れてきてくれたんだもの。裏口のはず……)
裏口に近づくと、扉がわずかに開いていた。
誰かいるのだろうかと、足音を立てないように近づくと、ひそひそと話す声が聞こえてきた。
「本当、エレナも大変よね。あんなわがまま姫に付き合わされて」
「王族のくせに何もしてないのに、何様のつもりなのかしら。……あ、姫様か」
聞き覚えのない声だった。
そっと覗くと、料理を運んでいたメイドの一人が立っていた。
胸の奥が、ひやりと冷える。
──もう、こんなふうに言われているの?
脳裏に、ミリアの言葉がよみがえる。
『あんたのあることないこと悪い噂を広めたのは私』
まだミリアと出会っていないこの時点では、そこまで噂は広まっていないと思っていた。
でも……。
そのとき、聞き慣れた声が重なった。
「本当に。あの方……サイラス様の婚約者のくせに、何もしないで我儘ばかり。本当に釣り合わないわ。やってられない。……早く死んでくれればいいのに」
──エレナの声だった。
あまりに冷たく、感情のこもらない声音。
今まで一度も聞いたことがない声だった。
『エリザベス様……ショックなのはよくわかります……』
つい先ほどまで、泣きそうな顔で私を気遣ってくれていたのに。
——理解したくなかった。
耳を塞ぎたかった。
聞き間違いだと、思いたかった。
でも。
あれは間違いなく、エレナの声だった。
「サイラス様が戻られたら、あの女との婚約は解消して、私と婚約してくださる予定なの」
「え!?そんな話、初めて聞いたわ!」
「まだ内緒よ。……手紙もたくさんいただいているもの」
「手紙まで!?」
「ええ。少なくとも月に一度は」
それ以上、耳に入ってこなかった。
私は音を立てないようにその場を離れ、自室に戻って扉を閉めた瞬間、足から力が抜ける。
そのまま床に崩れ落ち、膝を抱え込んだ。
『あんたに味方なんているわけないでしょ?
どこまでいっても、あんたは一人ぼっちよ』
──本当に、その通りだった。
まさか、エレナまで。
時間が戻って、「この人だけは大切にしよう」と決めた、唯一の存在だった。
……それなのに。
今までの優しさも、心配も、演技だったのだろうか。
……私は、何を信じていたんだろう。
「……っ……」
声にならない嗚咽が漏れる。
婚約者に裏切られていたことも、頭ではわかっていたつもりだった。
手紙が来ないのは忙しいからだと、必死に自分を納得させていた。
でも、こんなに早く、しかも裏で別の相手とやり取りをしていたなんて。
涙は、拭っても拭っても止まらなかった。
思い返せば──
両親は私を見てくれなかった。
親友だと思っていたミリアには裏切られ、婚約者のサイラス様には存在を消され、お兄様には処刑され。
そして、最後の拠り所だと思ったエレナにまで、「早く死ねばいい」と思われていた。
積み重なっていた何かが、音を立てて崩れた。
「……ふっ……滑稽ね……」
(私には、誰もいない)
家族も、婚約者も、友人だと思っていた人も。
最初から、何も持っていなかった。
(私を見てくれていた人なんて——最初から、誰もいなかった)
期待していないつもりだったのに。
まだ、どこかで期待していた自分が、惨めだった。
しばらく、何も考えられなかった。
ただ、空っぽのまま時間だけが過ぎていく。
——どれくらい、そうしていただろう。
しばらくして、涙が枯れるころ。
頭はぼんやりしていたけれど、心は不思議と静かだった。
(……でも)
冷静になった今なら、これからの計画を立てやすい。
これで、もう迷う理由はなくなった。
特に──エレナをどうするか。
それだけが、決めきれずにいたから。
逆に考えよう。
これで、心置きなく動ける。
人を信じれば傷つく。
それがわかっただけでも、無駄じゃない。
「……よし」
(私の人生は、私のものだ)
頬をぱちんと叩き、立ち上がる。
机に向かい、先ほど魔力を注いだ魔石を、エレナに見つかる前に片付けなければ。
魔石を袋に集めようとしたとき、机の上の鏡に、自分の顔が映った。
泣き腫らした目。赤く充血した瞳。
(まあ……泣いたら、こうなるわよね)
この顔のままでは、まずい。
エレナは、まだ戻ってきそうにない。
余命宣告を聞いたことすら、彼女にとっては喜ばしいのだろう。
治癒魔法で治せるだろうか。
怪我じゃないけれど……。
そう考えながら、無意識に魔石を手に取り、目元へ近づけた瞬間。
──魔力を帯びていた魔石の一つが、ひときわ強く、光を放った。
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