間話⑥ 気づかないあの子
神殿の石床を、雑巾で何度も磨く。
磨いて、磨いて、磨いて。
指先が赤くなるまで擦っても、胸の奥の黒いものは消えなかった。
「ミリア、もう十分よ」
「……まだ、汚れが残っていますから」
床はもう、とっくに綺麗だ。
それでも、手を止められない。
止まったら──考えてしまう。
──もし、私が役に立たなくなったら。
あの人は、私を捨てる?
ぎゅっと、喉が締まる。
路地裏で凍えていた私に、手を差し伸べてくれたのは彼だった。
あの人だけが、私を拾ってくれた。
隣に立てるなら、何だってする。
泥でも、血でも、喜んで被る。
……なのに。
(最近……手紙が全く来ない)
以前は、必要なときだけ届く手紙のような指示書があった。
短い命令と、次の役目。
でもそれだけで十分だった。
けれど、ここしばらくは──それすら来ない。
必要とされていないみたいで、胸がざわつく。
だから奉仕をする。
人を救って、神殿で名を上げて、役に立つと証明する。
“使える駒”だと思ってもらうために。
……全部、あの人のため。
それだけが、私の理由だった。
その時、入口の方から小さな泣き声がした。
目を向けると、転んだ子どもが膝を擦りむき、血をにじませている。
「……じっとして」
そっと膝に触れ、魔力を流す。
淡い光が傷を包むが、完全には塞がらない。
それでも血は止まり、子どもは泣き止んだ。
「すごい……ありがとう、お姉ちゃん」
「……大したことじゃないわ」
神官が目元をやわらげて言った。
「その治癒魔法、もう安定してきましたね」
「……ここまで使えるとはな。よく努力している」
ひそひそと視線が集まる。
──あの伯爵家の養子の子だろ。
──最近ずっと奉仕に出てる。
──地味だけど、真面目だよな。
──民衆の間じゃ、もう“聖女様”なんて呼ばれてるらしい。
勝手に広がる噂なんて、どうでもいい。
聖女の名も、感謝の声もいらない。
欲しいのは──彼の「よくやった」、その一言だけ。
そんなふうに、胸のざわめきを誤魔化すような日々が、ここしばらく続いていた。
噂が耳に入ったのは、そんなときだった。
「最近、王都の空気が妙だ」
「裏で誰かが動いてるらしい。騎士団が急に人事整理してるとか……」
「……ジークハルト殿下が関わってるって噂もあるが」
その名を聞いた瞬間、理由もないのに胸の奥がひやりと冷え、言いようのない不安がじわりと広がった。
まるで、居場所を奪われる未来を本能だけが先に知っているみたいで。
そして浮かんだのは、エリザベス。
会ったこともない女なのに、喉の奥が焼ける。
どうして、あの人の視線の先にはいつもあの女がいるのか。
胸の奥でどす黒い感情が煮え立ち、理屈もなく、ただ消えてほしいと願っていた。
ぎり、と歯が鳴り、爪が手のひらに深く食い込む。
(……違う。いつかきっと、私が選ばれる。私の方が彼に相応しくなってみせる)
選ばれなければ意味がない。
選ばれなければ、生きている価値すらない。
だから──そのためなら、誰が消えてもいい。
そう思った。
その翌日から、露骨な変化が現れた。
外出許可は下りず、届け出は何度も差し戻され、面会は「後日」と曖昧に濁される。
まるで、どこへも行かせないと閉じ込められているみたいだ。
気づけば、神官たちも目を合わせなくなっていた。
「……何かありましたか?」
思い切って尋ねると、親しくしてくれている神官は一瞬だけ言葉を詰まらせた。
「いえ、ただ……上からの指示で」
そこで、はっとしたように口を閉ざす。
「……すみません。気にしないでください」
困ったように笑って、視線を逸らされた。
その反応だけで、答えは分かってしまう。
──王太子、ジークハルト。
……孤児院で一度だけ会った、あの穏やかな人が?
……そういえば。
あの人と会ったあと、彼から短い指示が届いた。
『あの青年とは関係を保て』
それだけで、理由は教えてもらえなかった。
だから──あの青年が、この国の王太子だと知ったのは、ずっと後になってからだった。
その名が脳裏に浮かんだ瞬間、胸の奥がひやりと冷えた。
何もしていない。
ただ帰ってきただけのはずなのに。
それだけで、世界が少しずつ自分を締めつけてくる気がした。
世界が、私を拒絶し始めている。
それでも──
あの人さえいれば、それでよかった。
◇◇◇
「例の伯爵家の養女は?」
「現在、神殿で奉仕活動を。目立った動きはありません」
ジークハルトはその報告を聞きながら書類を閉じた。
紙の擦れる音だけが、やけに大きく響く。
「監視を継続。不審があれば即拘束。最優先だ」
「……理由を、聞いてもいいですか?」
「私の判断だ。必要な措置だと思ってくれ」
ただそれだけで、部屋は沈黙した。
誰一人、次の言葉を口にしようとはしなかった。




