29、間に合わなかった想い
「ど、どうした? ほら、これを……」
「え……?」
戸惑った声と一緒に、目の前に差し出されたのは一枚のハンカチだった。
白くてきれいに畳まれたそれを、反射的に受け取る。
けれど──どうして?
首をかしげていると、サイラス様がぎこちない顔で眉間に皺を寄せた。
そして、自分の頬をとん、とん、と指差す。
どこか必死で不器用な仕草に、つられて自分の頬に触れた。
……濡れている。
「あ……」
そこで、ようやく気づいた。
私、泣いてる。
いつからだろう。
指先についた涙がやけに熱くて、胸の奥がじわっと苦しくなる。
そのとき、二人の表情が目に入った。
心配そうで、優しくて、壊れ物を見るみたいに、そっと私を見つめていて。
──ああ、ダメだ。こんな顔、されたら。
堪えていたものが、一気に溢れた。
喉が詰まってうまく息ができない。
「……っ、ふ……っく……お兄様にも……サイラス様にも……ずっと……会いたかったん、です……っ」
声は震えて、ぽろぽろと涙が落ちる。
止めようとしても、止まらない。
子供みたいだと思うのに、どうしようもなかった。
「……ああ。俺たちも、ずっとエリザベスに会いたいって話をしていたんだ」
お兄様は低くてやさしい声で穏やかに微笑む。
「……特にサイラスが、本当にうるさくてな」
「おい、余計なこと言うな」
焦ったように遮るサイラス様。
でも、その耳がほんのり赤い。
そのやりとりが、あまりにもあたたかくて。
胸が、ぎゅっと締めつけられる。
(……ああ、私──ひとりじゃなかった)
そう思った瞬間、また涙が溢れた。
ひとしきり涙を流して、ようやく落ち着いた頃。
私は深く息を吸って、気持ちを切り替えた。
余命宣告のことは──まだ言わない。
今はただ、これまでの話を聞いてほしかった。
「離宮では……あまり外に出なくて」
ぽつりぽつりと、言葉を選びながら話し始める。
「だから、関心を持ってほしくて……ドレスや宝石を買っていました」
自分でも、子供みたいな考えに少し恥ずかしくなる。
「ほとんど一人で過ごしてました。庭を散歩するくらいで……そんなときに、ミリアが迷い込んできたんです」
「迷い込んだ?」
「はい。庭でお茶をしてたら、いきなり。そこから、時々遊びに来てくれるようになって……」
思い出すと、自然と笑みがこぼれた。
「それで、養子入りしてからは舞踏会に出ることになって。『一緒に出てほしい』って頼まれて……それで私も参加するようになったんです」
そこまで話して、少しだけ躊躇う。
けれど、どうしても気になって。
「……ちなみに、お兄様はミリアのこと……?」
「一度だけ会った。ウェルシの街の孤児院でな」
(……やっぱり)
胸が小さく跳ねる。
ウェルシ。
小説で、お兄様とミリアが出会った街。
留学先との国境沿いの街。
(同じ流れになってる……)
運命みたいに、筋書き通りで。
このまま二人は、惹かれ合っていくのだろうか。
胸の奥が、ちくりと痛んだ。
うまく言葉にできない、不安。
──そのとき、お兄様が静かに口を開いた。
「……サイラスから話は聞いた。正直、会った感じだと、ただのいい子としか思わなかったが……もう今後、会うつもりはない」
「……え?」
思わず顔を上げる。
あまりに迷いのない声音だったから。
小説では、あんなに好意的だったのに。
初対面から、お互い惹かれ合っていたはずなのに。
「……本当に、それでいいんですか?」
気づけば、そう聞いていた。
思わず俯いて、確認してしまう。
小説での2人は力をあわせて国を立て直し、公私共に最高のパートナーとして描写されていた。
「……サイラスから、前回の話を聞いたときに、ミリアのことも聞いた」
お兄様は静かに続けた。
「……正直、恐ろしいと思ったよ」
「……え?」
「自分の、人を見る目のなさが」
低い声だった。
責めるでも怒るでもなく、ただ悔しそうで。
(一体、何を……?)
処刑の話までは、まだしていないはずだ。
困惑していると、今度はサイラス様が口を開いた。
「……あの女は」
吐き捨てるみたいな声音。
「エリーの悪評を、これでもかってくらい流してた」
「……!」
「会うたびに、俺やジークにも吹き込んできた。もちろん、いい話なんか一つもない」
拳が、ぎゅっと握られている。
「最初は相手にしてなかった。くだらない噂だと思ってたからな。でも……」
言葉が途切れる。
その沈黙が、やけに重かった。
耐えきれず、私はそっと口を挟む。
「……私の悪評なら、知っています。国の財政も考えずに、ドレスや宝石を買っていましたし……」
あれは事実だ。
言い訳できない。
「いや、それは違う」
けれど、即座に否定された。
「舞踏会に出るなら必要経費もあるだろう。あれは当然だ」
「そうじゃなくて……」
サイラス様が言葉を探すように視線を落とし、声を絞り出した。
「……魅了魔法を使ってる、って話だった」
「……え?」
一瞬、意味が理解できなかった。
「魅了……魔法?」
「ああ」
「俺も、ジークの様子がおかしいとは思ってた。でも原因がわからなかった」
悔しそうに歯を噛み締めている。
静かに俯く横顔が、痛々しい。
「気づくのが遅れた。そのせいで……いろいろ後手に回った」
──魅了魔法。
ありえないはずの言葉が、頭の中で反響する。
(……だから?)
少しずつ、線が繋がっていく。
今まで噛み合わなかった出来事が、ゆっくり形を持ち始めて──
背筋が、ぞくりと冷えた。
「魅了の魔法は……洗脳みたいなものだ」
サイラス様の悔しさを押し殺した声は低かった。
「ジークは、もう何を言っても聞かなかった。俺たちの言葉なんて、最初から届いてなかったみたいに……エリーを救おうとした。処刑する理由がないと、証拠をかき集めて……必死で戻った」
拳が震えている。
「……戻ったときには、もう……刑が執行される直前だった」
「……っ」
息が詰まった。
──間に合わなかった。
その事実が、静かに胸を締めつけた。
「……あの女が、早めるようにジークに進言したらしい」
サイラス様の目に、暗い光が宿る。静かな声なのに、怒りが滲んでいた。
ぞくり、と背筋が冷える。
もう何も思わない。
そう思っていたはずなのに。
……そんなことまで、していたなんて。
──言葉が、出なかった。
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