15、優しさと違和感
その日、溜まりに溜まっていた雑務を、ようやくすべて片付けることができた。
朝から休む間もなく動き回っていたけれど、不思議と疲労より達成感のほうが勝っていた。
──けれど、その分だけ、気づいていない疲れがどこかに溜まっている気もした。
これで、明日からは治療方法を考える時間が取れそうだ。
医師見習いたちの顔色も、少しずつ良くなってきていた。
「今日はもう帰っていいよ」と気を遣ってくれて、いつもより早く帰らせてもらう。
ゆっくりと湯に浸かり、身体の芯まで温まる。
あとはもう寝るだけ──そう思った、そのとき。
(……あ、今日は日記を書いておこうかな)
私は、気が向いたときだけ日記をつけている。
回帰する前からの、癖みたいなものだ。
前世の記憶を思い出してからは慌ただしい日々が続き、机の引き出しの隠し棚にしまっていた昔の日記は、そのまま置いてきてしまった。
だから、ここへ来る途中で新しいものを買ったのだ。心機一転、最初から書き直そうと思って。
机に向かい、日記を開く。
インクを含ませたペンが、さらりと紙の上を滑った。
『今日は、薬師見習いのラルフさんが、パルマという花をくれた。鮮やかな赤色で、とても甘く、いい香りがする。ラルフさんはとても優しい人で──』
そこで、ふとペンを持つ手が止まった。
脳裏に浮かんだのは、あの花の鮮やかな赤だった。
思い返せば、あれはラルフさんの瞳の色によく似ていた。
赤くて、やわらかくて、どこか吸い込まれそうな色。
……出身地の話をしていたときの、あの穏やかな声まで、なぜか一緒に思い出してしまう。
ほんの一瞬の沈黙と、あの曖昧な返事。
それだけで、胸がざわついた。
患者さんのために花を持ってくる、あんなに優しい人なのに。
疑うなんて、失礼だ。
そう言い聞かせても──
胸の奥に刺さった小さな棘だけが、理由もわからないまま、どうしても抜けない。
その引っかかりについて考えているうちに、なぜか、別の顔が浮かんだ。
ヴォル。
……よく考えたら、彼だって腑に落ちない。
『俺は仕事以外は手は出さない』
以前、そう言っていたはずだ。
(あんなこと言ってた人が、どうして……)
今はもう、ほとんど保護者みたいなものだ。
私のわがままに付き合って、危ない場所にまで黙ってついてきてくれる。
小説の中の彼は、もっと冷たくて、合理的で、仕事しか見ていない人だったはずだ。
こんなに面倒見がいい人じゃ、なかったはずなのに。
考えても答えは出ず、もやもやとした思考がぐるぐると空回りする。
(……でも、疑うなんて、失礼よね)
自分を戒めるように、そっと首を振る。
助けてもらってばかりなのに、感謝こそすれ勘ぐるなんて最低だ。
私は気持ちを切り替えて、続きを書こうと視線を落とした。
「あれ……?」
思わず声が漏れる。
さっきまで机の上に開いていたはずの日記帳が──ない。
(……え?)
状況を理解するのに、少し時間がかかった。
机の上のさっきまで開いていたはずの場所を、ただじっと見つめる。
ペンもインクもあるのに、日記帳だけが見当たらない。
胸の奥が、ひやりと冷える。
そのとき──
「『優しい人』、ね……」
「っ!?」
聞こえるはずのない声が、部屋の奥から落ちてきた。
勢いよく振り返ると、いつの間に入ったのか、ソファーに足を組んでくつろぐヴォルがいる。
そして──私の日記帳を、勝手に読んでいた。
「な、何で勝手に人の日記読んでるの!?」
「暇だから?」
「理由になってない……」
面倒くさそうに顔をしかめながら、ヴォルはあくびを一つし、ひらりと日記を放ってよこす。
慌てて受け取ると、ページの端がくしゃりと折れていた。
「それでも日記はダメだから……!」
「はいはい」
軽く手を振るその軽薄さに、思わずむっとする。
けれどヴォルは気だるげな顔のまま、口元だけで笑っていた。
目は、まったく笑っていない。
「本気で思ってるの?」
「……え?」
「あれが『親切』だって」
心臓が、どくりと跳ねた。
「どういう意味……?」
「ふーん……」
呆れたみたいな、値踏みするみたいな目。
その視線が、じわりと冷たい。
いつものヴォルなのに、目の奥だけが笑っていなかった。
無意識に、一歩後ずさった。
「……なんで離れるの?」
「な、なんでって……なんか、嫌な予感がして……」
「ふーん……まあ、その勘は当たってるかも」
「え?」
ヴォルは背もたれに体を預けたまま、さらっと言った。
「あのラルフって男のこと、探ってきて」
「……え?ラルフさん?」
「そう」
視線だけが、鋭く細められる。
「俺だと男だから警戒される。ああいうタイプは女のほうが油断する」
空気が、すっと冷えた気がした。
「だからサラ。あんたが近づいて」
軽い口調なのに、拒否を許さない命令みたいに重く響いた。
あまりにも唐突な話の流れに、理解が追いつかなかった。
ラルフさんが、そこまで警戒されるようなことをしたのだろうか。
ヴォルに「探ってきて」なんて言われるほど──?
「……どうして、私が?」
「んー、なんとなく?」
軽すぎる返事に、思わず脱力する。
「会話をそのまま教えてくれればいいから。それだけ」
あまりに雑な理由で、本気なのかどうかもわからない。
……けれど。
私自身、あのとき一瞬でも「胡散臭い」と感じてしまったのも事実だった。
あの曖昧な返答に、妙に引っかかる笑顔。
(もし、その違和感の正体がわかるなら……)
そう思ってしまった時点で、納得したくないのに、もう半分は納得してしまっている。
「……わかったわ。でも、帰り道で言ってくれてもよかったでしょう。こんな時間に来て、人の日記を勝手に読んで……」
「帰り道は、誰が聞いてるかわからないから」
即答だった。
「……日記は……日記だと思わなかったんだよ」
ほんの一瞬、視線が逸れる。
珍しい反応に、少しだけ溜飲が下がった。
「次は、ないからね?」
「……はいはい」
軽く返されつつも、反論はない。
「それはそれとして……ラルフさんに、どうやって近づけばいいの?」
「うーん……まずは普通に話すしかないんじゃない?」
本当に他人事みたいな口調だ。
「何でもいいよ。家族の話とか」
「……そんなのでいいの?」
「いいよ。ただし──」
少しだけ、声音が低くなる。
「疑ってるって悟られないように。あくまで“世間話”」
言いたいことだけ言い切って、ヴォルは立ち上がる。
「じゃ、おやすみ」
「ちょっと──」
呼び止める間もなくドアが閉まる音だけがやけに大きく響いて、部屋に静けさが戻った。
(……まぁ、いつも助けてもらってるし)
それを“お返し”だと思えばいい。
そう自分に言い聞かせた途端、どっと疲れが押し寄せてきた。
日記を適当に締めくくり、ランプを消す。
考えるのは、明日でいい。
今日はもう、眠ろう。
◇◇◇
そして次の日。
私は朝いちばんに、薬の調合室へ向かった。
ラルフさんの様子を見るため──というのもあるけれど、そもそも治療法を考えるなら、薬の現場を知っておく必要がある。
……そう自分に言い訳しながら、そっと扉の隙間から中を覗いた。
(あ、いた……)
室内には、ラルフさんがひとりいた。
すり鉢を抱え、一定のリズムで薬草を丁寧にすり潰している。
真剣な横顔と無駄のない手つきは、どう見ても誠実な薬師見習いそのものだった。
──そのはずなのに、なぜか視線を向けるのを一瞬ためらってしまう。
(……胡散臭い、なんて。どうしてあんなふうに思っちゃったんだろう)
昨日の自分を思い出して、胸がちくりと痛む。
疑っているみたいで、少し申し訳ない。
壁際で邪魔にならないよう待つ。
ラルフさんの手がふっと止まった瞬間、声が震えないよう息を整えて、そっと呼びかけた。
「お疲れ様です。今は何のお薬を作っているんですか?」
ラルフさんが顔を上げ、一瞬驚いたあとすぐに柔らかな笑みが浮かんだ。
「サラさん。誰もいないと思っていたので、びっくりしました」
「ごめんなさい、驚かせてしまって」
「いえいえ。これは頭痛に効く薬ですよ。最近、訴える方が多くて」
「頭痛……なんていう薬草なんですか?」
「これはドクダミで、こっちはオオバコですね。炎症を抑えて──」
丁寧に、ひとつひとつ説明してくれる。
薬草の名前も、効能も、配合の比率まで。
どれも淀みなくて、いかにも真面目な薬師見習いそのものだった。
親切で、誠実で、隠し事なんて何もなさそうで。
……なのに。
(さて……どう切り込もう)
私の頭の中は、それどころじゃない。
ヴォルの言葉が、何度も何度もよぎっていた。
──情報、引き出して。
あからさまな詮索は怪しまれる。
まずは自然に、世間話みたいに。
(距離を縮めるところから、よね)
深呼吸をひとつする。
探るなんて性に合わない。
それでも──やると決めたのは、私だ。
「あの……もしよければ、お手伝いさせてもらえませんか?」
そう切り出すと、ラルフさんは一瞬だけ手を止めた。
「構いませんが……薬草を扱うので、手が汚れますよ?」
「それくらい平気です。少しでも早く、皆さんに薬を届けたいですし」
そう答えると、ラルフさんはほんのわずか目を細めた。
「……あなたは、心まで美しいんですね……羨ましいくらいに」
「え?」
思わず聞き返すも、彼はすぐに話題を切り替えるように咳払いをした。
「いえ……失礼。では、お願いします」
了承の言葉に、内心ほっと胸を撫で下ろす。
(よかった……)
こうして一緒に作業を始めると、不思議と空気が柔らいだ。
すり鉢を挟んで並び、黙々と手を動かしながらときどき言葉を交わす。
作業があるからこそ、沈黙も不自然じゃない。
自然と会話が生まれて、距離が少しずつ縮まっていくのがわかった。
(……この雰囲気なら)
無理に探る必要はない。
まずは、普通に話すところから。
そう思いながら、私は薬草の香りに紛れてそっと次の言葉を探した。
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