12、夜明けの合鍵
──あのベランダ(庭?)での出来事のあと。
疲れているはずなのに、まったく眠れなかった。
二階の寝室を出て、一階の居間へ降りる。毛布にくるまり、ソファに身を沈めた。
そこまで寒いわけではない。
けれど、背筋が凍るような思いをしたせいか──
身体の芯まで冷えきっていた。
小さく魔法を使い、暖炉に火を灯す。
ぱちぱちと薪が弾け、ようやく指先に温もりが戻ってきた。
じんわりと体が温まり、緊張がほどける。
うとうとと、眠気が落ちてきた──そのとき。
「おはよ」
「うぇっ!? お、お……? ……おはよう、ヴォル」
すぐ隣から声がして、心臓が跳ね上がった。
……気配、まったく感じなかったんだけど。
さすがというべきか、なんというか。
バクバクとうるさい鼓動を落ち着かせるため、深く息を吐く。
その様子を見ていたのか、横から「くくっ」と小さな笑い声が聞こえた。
再びヴォルを見ると、意地の悪い顔で笑いを堪えているのがわかった。
……絶対、面白がってる。
ついさっき、あんな素っ気ない態度を取られたばかりなのに。
なんで普通にここにいるのよ。
「何が……いや、なんでここに……?」
「ん? 合鍵」
「……は?」
ひらひらと、指に引っかけた鍵を見せられる。
さらっと言われすぎて、理解が追いつかない。
「そんな驚かないでよ。サラのサポートしてるんだから、ないと不便でしょ」
「でも、プライバシーってものが……」
「……何それ。まぁ必要なとき以外は使わないから安心して」
にっこり。
今度はお手本みたいな爽やかな笑顔。
……この男、信用していいのか本当に。
そう思った瞬間、じっと視線を感じた。
「何……? どうしたの……?」
「いや……さっきのことがあったのに、態度変わらないなって」
「まぁ、それは……仕事っていうのも、いろいろあるのかなとは思うし。私はいろいろお世話になってる身だし……」
「ふーん……?」
納得したのかしてないのか。
ヴォルは遠慮なく、じっと私を観察してくる。
……その視線、地味に落ち着かないんだけど。
よく考えてみれば、ヴォルの話し方も、どこか今までと違っていた。
たぶん──これが素なのだろう。
取り繕うのをやめたせいか、遠慮がなくなった気がする。
「ま、俺としては楽だからいいけど。本当はバレないで済めば一番よかったんだけどね」
「まぁ、そうでしょうね……」
移動中、私はほとんど寝ていた。
だから、あの時間に起きているとは思っていなかったのだろう。
ヴォルの視線が、値踏みするみたいにこちらを覗き込む。
……ちゃんと伝えておいたほうがいい気がした。
「私は……ヴォルが無事なら、それでいい」
「──は?」
間の抜けた声が返ってくる。
少しだけ考えてから、私は笑ってそう言った。
確かに驚きはした。
でも、私は知っている。
ヴォルが無闇に人を殺すような人間じゃないことも、仕事上危険に巻き込まれただけかもしれないことも。
だから──
細かい理由なんて、どうでもよかった。
ただ、無事ならいい。
それだけだ。
なのにヴォルは、信じられないものを見るみたいに、目を見開いたまま固まっている。
……そんなに変なこと、言ったかしら。
「うーん……なんて言うか……ヴォルの“何でも屋さん”って仕事の範囲を、私はよく知らないの。
それに私は、そんなヴォルに仕事をお願いして、お世話してもらってる立場なわけで……えっと……」
小説から得た知識に触れずに説明しようとすると、どうしても言葉が詰まってしまう。
視線が泳いで、だんだん何を言いたいのかわからなくなってきた。
……もう、ここは開き直ったほうがいい気がする。
「うん、とにかく! 私が言いたいのは、これからもよろしくってことよ! わかった?」
しどろもどろになってしまったのが恥ずかしくて、腕を組み、そっぽを向いてそう言った。
すると、少しの間のあと──
「ぶはっ」
という声が聞こえた。
驚いてヴォルのほうを見ると、彼は背を向けて丸まっている。
肩が小刻みに震え、くくっと声が漏れているところを見ると、どうやら笑っているらしい。
「サラって変わってるね。くく……っ。普通の女の子なら、あんなところ見たら失神しそうなもんなのに」
「……残念だけど、私はきっと普通じゃないのよ。言ったでしょ、家から一度も出たことなかったって。それに……なんでそんなに笑うのよ」
「箱入りなら、なおさらだけどね。……まあ、それはいいや」
少し間を置いて、ヴォルがぼそりと呟く。
「……さすが、あの兄にしてこの妹あり、って感じ」
「え? なに?」
「いや、何でもないよ」
後半の言葉は小さすぎて聞き取れなかったけれど、
ヴォルがやけに楽しそうなのだけは、はっきりとわかった。
「それより……はい、朝食。昨日、何も食べないで寝たでしょ?」
「ありがとう。助かるわ」
話は終わりと言わんばかりに、ヴォルはバスケットをテーブルに置いた。
正直、あまり食欲はない。
けれど食べなければ動けない。
義務みたいな気持ちでパンを口に運ぶ。
……でも、一口かじった瞬間、少しだけ目を見開いた。
おいしい。
さすが国一番の小麦の生産地。
香りも甘みも、王都で食べていたものよりずっと濃い。
「……で? 今日からどうするの?」
「まずは町を散策して……治療院とかがあれば、行ってみようかと思ってるの」
「治療院? ……なんで」
「……えーっと……」
言葉が止まった。
──私がマイザーに来た、本当の理由。
それは、伝染病を拡散させないため。
前回の記憶が、ふっと蘇る。
この街で伝染病が発生したこと。
そして、小麦にまで風評被害が広がったこと。
領主の子爵はすぐに街を封鎖して、被害はマイザーだけで食い止められた。
その判断力を賞賛され、英雄みたいに扱われていたのを覚えている。
でも──
(それでも、値段は上がった)
小麦の価格はじわじわ高騰した。
国内流通の半分を担う土地が止まれば、当然だ。
食料の不足。
不満の増加。
そして、クーデター。
全部が、どこかで繋がっている気がしてならなかった。
しかも、被害を受けた小麦は結局、隣国に流されたという記事も見た覚えがある。
確証なんてない。
ただの推測だ。
それでも──もう兆候くらい出ていても、おかしくない。
だから、早めに来た。
……来たけれど。
(これ、どう説明すればいいのよ……)
“未来でそうだったから”なんて言えるわけがない。
口を開きかけては閉じて、結局何も言えなくなる。
黙り込んだ私を見て、ヴォルは小さくため息をついた。
「ま、いいや。ひとまず俺も一緒にいくから」
「え? どうして?」
「……本気で言ってる? こんな世間知らずを一人で放り出したら、大変なことになるのが目に見えてるでしょ」
「うっ……」
ぐうの音も出ない。
「馬車の旅だけでも十分わかったからね」
ヴォルは遠い目をした。
……思い当たる節しかない。
宿の案内人だと思って、まったく関係ない男について行きかけたり。
お金の払い方がわからず固まったり。
チップの習慣も、物価の感覚も、何ひとつ知らなかった。
ヴォルがいなかったら、たぶん今頃どこかで泣いていた気がする。
全部世話になりっぱなしだ。
情けないし、恥ずかしい。
いい年して、何もできないなんて。
これ以上掘り返されたくなくて、私は慌てて話を進めた。
「わ、わかったわ! じゃあ一緒に行きましょう!」
「……そ。わかればいい」
ため息混じりに言いながら、ヴォルはどこか満足そうにニヤリと笑った。
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