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天魔の子・藤堂高虎  作者: 宇井崎定一
第七章 兎大友皇子
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明智光秀、敵は本能寺にありと叫ぶ

「………………」








 四月三日。初夏だと言うのにいやに涼しい丹波で、その城は一段と涼しかった。







 山陽への派遣要請を反故にされ、そして山陰への援軍を命じられ、さらに柴田勝家に対する糾弾を行うように申し付けられた城主の男――――—明智光秀は、何もかも終わったような顔をして座っていた。








「殿……」

「秀満、利三…………」

「しっかりなさってください!」

「……私はどこまで無力なのだろうか……」



 秀満が気付けのつもりで光秀の頬を張り飛ばそうとすると、光秀は右腕を素早く上げて秀満の腕を受け止めた。



「そのようなことをおっしゃらずとも!」

「柴田殿……まったく何と言う……」

「柴田殿も悪気があったわけではないのでしょう、ほんの戯れの一環として」

「それにどうせ一色殿は浅井の配下であり、しかも新参です。その意見がどこまで浅井家を左右できると」

「うるさい……」




 光秀の深いため息が部屋の中にこもり、そして溶けて消えて行く。

 秀満も利三も、この主君を何とかして立ち直らせたくて仕方がなかった。




「所詮柴田軍は八千、こちらは一万です。その一万で柴田殿より大きな戦果を挙げればよろしいではありませんか」

「所詮は援軍だ、援軍とはあくまでも援軍でしかない……その本文を侵せば白眼視されるのは目に、見えて、いる…………」




 利三の励ましに対し光秀は虚ろに言い返したが、すぐさまゆっくりとその目が輝き出し、やがて口元が歪み出した。その上で笑い声を絞り出し、またため息を吐いた。




「もし殿のお言葉を聞き入れてくれたとしたらどうなさるおつもりでしたか」

「言うまでもない、長宗我部殿と手を組み北から敵を圧するまで」

「ですね」

「所詮は、この程度だと言う事か……」











 この程度と言う単語にある種の傲慢さを感じられるような人間は、この場には一人もいなかった。


「大体の問題としてこの丹波をこんなにもたやすく落とせた事の意味を理解している人間など、ひとりもいない。この険しい山地を誇る丹波は天然の要害、ゆえにこれまで討伐を阻んできた、伊賀のように」

「ですが伊賀はあっけなく潰れました」

「だから丹波も同じだと思ったのだろうな!」




 そう叫びながら未だにい草の匂い漂う畳を殴り付けると同時に、二人の重心の首も縦に動いた。













「丹波最大の豪族波多野がなぜ簡単に服属したのか、その事をわかっておらんような低俗で浅慮な人間だったと言う事だ、織田信長とは!!」



















 光秀は可能な限り小さな声で、可能な限り太い声を腹の底から絞り出した。













「もしお気付きになっていたら」

「その場合はとっくにこの首が落ちているだろう。そうでないのが程度が知れると言う事なのだ」

「では……」

「ああ、秀満、利三。結局はこうなるのだろうな。不埒者たちから書状の一枚や二枚流れていると言うのに誰も気づく様子がない。それが、公方様を踏みにじり主上様に歯向かう人間の程度なのだろう。

 ああ、嘆かわしや!!」










 嘆かわしやと言う文字に、光秀はすべての感情を込めていた。


 その嘆きを受け止め続けてきた二人に背中をさすられながら、光秀は泣いた。誰よりも真剣に、本気で悲しみの涙を流し続けた。







「しかし浅井と徳川はどうなるでしょうか」

「徳川は武田殿と北条殿が抑え込む、浅井は山陰から毛利に押されてここまで来る暇はない。だいたいがだ、信長と言う絶対的独裁者によって統べられている織田に付き従っている時点で両家の評判など知れている」

「ですが」

「織田のやり方では一時は良いかもしれない、だがあれはこの国の芯を奪い確実に衰亡に向かわせる。一時の快楽に浸っている人間たちに対する、愛の鞭だ」



 泣き止んだ光秀はいつの間にか真顔になっていた。頬を伝った涙は簡単に乾き、それと共にその跡は消えて行く。残ったのは、熱だけだった。



「正しき政治、正しき秩序、正しき信仰。それを求めたればこそ辞を低くしていたと言うのに……もうこれ以上裏切りと暴走を見過ごせるほど私は無神経ではない」

「やはり本音の所では」

「ああその通りだ、佐々木導誉になってくれる事を少しでも期待していた私がやはり馬鹿だったのだ!」



 佐々木導誉も相当破天荒な挿話の多い人物だが、それでも足利家に対する忠義だけは変わらなかった。光秀にとって信長は現代の佐々木導誉であり、幕府を破壊する人間ではなかったはずだった。




「と言うか武田信玄も案外使えない、いざとなれば徳川でも浅井でも虎の牙で食いついて血肉を食いちぎってくれれば良かったのに、虎も老いては猫にも劣ったと言う事か……」

「結局は歴戦の雄らしい罠にはまってしまったと思われます」

「そうか、そうだよな……主君にすら平気で刃を振るうような外道を相手にしているなどと思わんだろうからな……!」


 武田信玄さえも、光秀たちに言わせればこの有様である。


 信玄からすれば敵は自分が考えうる最も賢い策を取る物だと思っており、あのような兵の逐次投入にも等しい愚策を取るなど考えもしていなかったのだろう。

 普通の将ならばしない策略にはまった故にああして命を落とした事について秀満がそう表向きだけ同情すると、利三はさらに勢い込んで高虎を落とした。


「必死に訴えかけて来たつもりだった、どうにかして道を踏み外さぬように努めて来たつもりだった!だと言うのにあれではもはや蛮族の集まりだ」

「その上に二年前の嘆願も通らなかったようで、まったく兵法とは万人の真理のはずなのに……!」

「殿自ら出向いても駄目だった以上もはや付ける薬もございませんな、あの主君殺しの男には!」


 この三人の息は普段からよく合っているが、一番うまく合うのがこうして藤堂高虎の悪口を言う時である。


 実際に高虎が殺したのは武田信虎であって久政を殺したのは織田信忠だとか、その信虎を焚き付けて小谷城に送り付けたのは自分たちだとか、そんなことを一切わかった上で忘れることなく叫んでいる。


「最後に今一度、かの男を追放するように越前に申してみては」

「鼻紙をくれてやる必要もあるまい」

「だな、もはや浅井の運命も尽きよう。ああ、残念だ。実に残念だ」



 秀満がもっともらしい事を言い、利三が過激なことを言い、光秀が大仰に体を動かす。これが家内の共通認識になっているのをいい事に、三人は好きなだけ好きな事を言い合った。

 それと共に光秀の顔からこわばりが取れ、そして笑みがこぼれ出す。


 三人とも、幸せの中にあった。















 それから七日後、四月十日。光秀は居城に自らの重臣や丹波の豪族たちをかき集めた。




「波多野殿、その時が来たのです」

「では、いよいよ」

「ああ、あの無学な連中に教えてやらねばなりません」


 波多野秀治の手を取りながら、光秀は深く頭を下げる。織田に反感を抱いていた丹波の豪族を光秀が簡単に従えたのは、自分の野望をひけらかしたからに過ぎない。それが露見して謀叛人と言われて成敗されなかった時点で光秀は信長を完全に見限り、この道を進むことに何のためらいも抱かなくなった。



「決行は言うまでもなく、兎大友皇子の日」

「いかにも、明日ですね」

「そう、明日こそ天下静謐の第一歩が刻まれる日になるのです」

「しかし上杉については探知されている可能性が」

「どうせ我々が動けば織田領内は大混乱に陥る。そこにちょうど不識庵殿と毛利殿が動けば織田は挟み撃ちの上に内部に敵を抱える事になる、もはやひと月も持つまい」







 兎大友皇子。


 兎とは卯月、つまり四月。


 そして大友皇子の妻は十市皇女。十市、つまり十・一。







 光秀はその五文字を記した文章を流浪の際に知り合った寺の住職の名前を使い、織田と対立する可能性のある家にばらまいた。中でも織田と絶対的に馴れ合わないだろう上杉と本願寺には、はっきりと四月十一日と言う期日である旨を記し挙兵を促した。


 上杉の動きが探知されているのはいささか予想外であったが、だとしても本気であることが証明された上に織田の目がそっちに行っているのは悪くはない。



「ですが、本当に無警戒なのでしょうか」

「悪右衛門殿、丹羽軍が播磨へ向かったのはひと月前ですぞ。羽柴と丹羽は播磨平定に懸命で当分戻って来れませぬ。ましてや備前はあの宇喜多直家です」

「なるほど、だとしても事前に岐阜中納言に家督を譲っております。もはや今の信長はただの隠居人です」

「それが主上様を脅かす存在だとしてもですか?」



 赤井悪右衛門は渋ったような顔をしていたが、それでも秀満から主上様の名が出るや身を震わせた。丹波一の猛将のこの挙動は一斉に丹波の国人たちを動かし、その目を輝かせた。



「公卿から連絡を受けている。信長は誰も思いつかぬような計画を立てている、軍事ではなく政として。

 それが一体何を意味するか。寺を焼き、幕府さえ破壊した信長だ、次にはもっと恐ろしい物を壊す。それが一天万乗の皇位でないと言う保証はどこにもない。でないとしても、平氏らしく公卿を次々に島流しにするのは目に見えている」


 平清盛だけではなく、北条泰時だって二人の上皇を島流しにした男だ。公卿ごときその気になれば何でもないと言う事を身に染みてわかっている。


「より好き放題に振る舞うために主上様を脅かし、皇位をもほしいままにする。主上様の葬儀すらまともに行われなかった時代に戻りたいのであれば、今すぐこの行いを信長に伝えて来い」



 現在の天皇はまだともかくその前の天皇の扱いはまったくひどい物であり、三代前の後土御門天皇は死後四十日ほど葬儀費用がないと言う理由で遺体を放置され、二代前の後柏原帝は即位式を延々二十二年待たねばならず、先代の後奈良天皇は宸筆を乱発して金を稼がざるを得なくなった。

 それらの事を山城にほど近い丹波の住民は知っており、その上に光秀から言い聞かせられて来たからなおさら強く感じていた。



「考えてみよ。かつての謀叛人で同盟相手にもケンカを売る柴田勝家、百姓上がりで信長の草履取りまでしていた羽柴秀吉、伊勢長島にてためらうことなくその残虐ぶりを発揮した滝川一益、秀吉の援軍としてのこのこ出かけている丹羽長秀、そして遠い尾張に置かれている佐久間信盛。これが織田の宿老だ。それで後は全部秀吉に頭の上がらん奴ばかり。これでも勝てないと言うのか?」

「わかりました、これで安心いたしました」



 悪右衛門が全てを飲み込んだと言う顔になったのを確認した光秀は満足そうに微笑み、それと共に他の将すべてが光秀にひざまずいた。




「信長を討ち、京を開放する。そして鳥取まで逃げ込まれた公方様を毛利と共に取り戻し、正しき世を取り戻すのだ!」

「おお!」

「すべては主上様のために!」



 天皇のため、幕府のため、世の中のため。すべてはそこにたどり着く。そのように光秀は家臣を仕込んで来たし、丹波の国人もそうして来た。







 と言ってもまだ雑兵までもが同じように考えているわけではない。


 戦争の常識として、一般兵までに出兵の目的は伝えない。雑兵ほど間者として紛れ込みやすく、それゆえにそこから秘密が漏れる事態を避けるためである。


「柴田様の軍勢は気が荒いらしいからな」

「と言うか毛利って強いんだろ、お偉方は自信満々だけどな」

「黙って歩けば良い!」


 こういう事を言い出す兵士たちもいた。もちろん組頭に叱責されたが、それでもこの軍勢が柴田への救援だと信じている兵はいたし、そしてその上で方向に違和感を覚える兵もいた。



 そしてそんな人間など無視して、光秀は京の町へと歩を進めた。


 秋の日は釣瓶落としなら、春の日はしぶとく粘る物である。その春の日が落ちた中、ゆっくりと休み休み進んでいた明智軍一万に、疲労の色はなかった。


「今は何時だ」

「亥の刻(午後十時頃)です」



 秀満が時を告げると共に、光秀は口元を歪めた。そして大きく振り返り、宵闇の中で顔も満足に見えない将兵たちに向かって叫んだ。







「敵は本能寺にあり!」







 ありったけの音量とともに、光秀自ら全軍の先鋒となって京の町へと飛び込んで行った。

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