お桂、征夷大将軍の軽さを知る
丹羽長秀が本能寺を出立した日、大倉見城ではお桂が包丁で菜っ葉を切りながら四葩と並んで舌を動かしていた。
「戦と言うのは終わらない物ですね」
「それはそうでしょう。織田様と徳川様と我が浅井の領国を合わせてもまだ二十ヶ国ほどしかありません。日本の三分の一以下です」
年下の上官と言うべき四葩の言葉は、高虎すらひるませるほどに鋭いことをお桂はよく知っている。
藤堂高虎の側室となり、若菜を産んでから一年経つ。まだ四葩も自分も第二子をはらんでいる様子はなく、そのためか自由気ままに育児や家事に勤しんでいる。
そう、四葩さえもだ。
武家の側室などと言う立場は、お桂の思っている以上に重たかった。ただ家に張り付き家事育児に勤しんでいればそれでいいなどと言うものではない。
いやそれが本業のはずなのだが、四葩と言う人間があまりにも高い程度でそれをこなす物だから、自分も同じぐらいにやらねばならないように思えてくる。
「愛王様は最近、妹君様に甘えておいでのようですがよろしいのでしょうか」
「構いません、あの子はずっと甘えることなどできなかったのですから。その上うちの人があちこちに駆り出されるので父親同然の義兄に甘える事もできないのです」
貧窮する小作農や水呑百姓を見てきたからそれよりは豊かなのは自覚していたが、それでも武士と言うのは支配層だから富んでいるなどと言うずいぶんと都合のいい想像を抱いて側室を集めると言う話に乗っかり、そして見事側室になってみせたお桂は、確かに実家を豊かにする事はできた。
だがその自分を選び取った四葩と言う年下の女性が、あまりにも想像の範囲外だった。
「大名の妻と言うのはいざとなれば覚悟が必要です」
「にしても馬術はともかく、なぎなたを持てとは」
「金ヶ崎城まで逃げられぬとわかった時には覚悟を負うべきです」
まだ若菜を孕む前に、高虎が太刀をふるうのと同じようにお桂や四葩もせよと言う訳でか、いきなりなぎなたを持つ訓練をさせられた。
一応鋤や鍬をふるう程度の膂力は持っていたつもりだったが、四葩の腕さばきは非常に素早く、その上まるで息が上がらない。
自分が武家の姫様に向かって農民の意地とやらを見せつける前に、腕が限界を訴え出してしまった。
「この調子では駄目でしょうかね……。あああなたが言っていたように、いずれは馬術の訓練も必要かもしれません。無論子ができればそれが最優先ですが、それまではいろいろと万が一について備えておかねばなりません」
とんでもない言質を取られてしまったことに気付きながら側室の権限で侍女を呼び腕を揉んでもらったが、この時武家の女性とはこんなすごい人間なのかと完全に負けを認めてしまった。
のちにお市の方に相談して自分はしていませんけどと言われてやはり四葩が特別な人間だと言うのはわかったが、それが四葩と自分との力関係を変えるそれではない事をお桂はすでに刻み込まれていた。
結果的に馬術の訓練は妊娠が発覚してうやむやになったものの、それでももう少し孕まない時期が続こう物なら本当にやるかもしれない。別に馬が好きとか嫌いとかではなく、ただ単にあんな速度で走る生き物に乗れる自信がないだけだった。
「千福丸、父がわかるか?おお若菜、元気そうだな」
「お父上は立派な男です、甘えるだけ甘えなさい。いついなくなるかわからないのですから」
「あまりおどかすな」
千福丸と若菜と言う二人の子を抱きかかえる姿は実に良き父親のそれであり、大名級の家臣でもなければ天魔の子と言われるような猛将でもない。
その上で厳しいことを突然に言う四葩に対してはあまり強く物も言えないような、その点では実に可愛らしい二十歳の男である。
そのような姿から他人の恨みを想像するのはこの上なく難しい。何百人の単位で人を斬り、その数倍の人間を悲しませて来た上に生きているのが長政であり高虎である。
「奥方様、それはいささか」
「お桂、はいわかりました参りますで始まる戦などめったにないのです。畳の上で死ぬこと自体武士にとっては相当なぜいたくであり勝者の特権なのです」
「そうだな、せいぜい殺した人間の分だけ生きねばならない」
「ならばこそ、無為な戦はなくさなければならないのですよね」
「織田様はそれを目指しておいでだ、もちろん浅井もそれに付き従うつもりだ」
犠牲は少ないに越したことはないと言うのは理想論だ。だがその理想論を叶えるために織田も浅井も徳川も戦っている。
「戦に勝つために政はある。だが本来は戦をなくすために政はあるはずだったのではないか」
「ええ、本来ならばそうでしょう。ですがそれをすべきだったお方は今どこで何をしていらっしゃるのやら」
「なればこそ、と言う事だ」
自分はこの国の頂点が誰なのかなど考えたこともなかった。小さな村の中で田畑を耕すのが全てであり、浅井長政はおろかその付近の領国を持っていた磯野員昌ですら雲の上の人物だった。
足利義昭と言う名前など聞いたこともなかったし、政権の長だとは知らなかった。
「幕府を幕府として支えていたのは、結局幕府のために死んでくれる人間だったと言う事だ。今更幕府にどれほどの価値があるのかわからん。もし織田様が幕府を認めているのであれば、今でも将軍を表に出しながら自分が政権を取っていたか、それこそ自分が将軍になったかもしれない」
「征夷大将軍は源氏の末裔のみの特権であり、織田様は平氏だったと伺っておりますが」
「そんなのあれだ、確か次男の尾張守(信雄)殿が源氏の末裔の家に婿入りしていたはずだったが、その尾張守殿を征夷大将軍に立てれば済むのではないか」
「あなたも言うようになりましたね」
「征夷大将軍の価値などその程度だと言う事だ」
「とてもよそ様には聞かせられない言葉ですね、まあお互い様ですが」
千福丸と若菜の寝物語のようにそんな話を聞かされても、お桂の心が動くことはない。
だが一部の人間からしてみれば、このような暴言を唱える人間が政権にそれなりに近い存在であり、主人の意見とそう相違ないと言う事が何よりも憎たらしいのだろう。
「すると今度の戦の相手は」
「ええ、おそらくは征夷大将軍様のためならば命も要らぬと言う集団です」
「ではその集団は幕府を取り戻したとして、その後どうする気なのでしょう」
「そういう事です。この若狭でさえ何も起きないと言うのが全てのはずなのに」
単に幕府を作り、足利義昭をその長に戻した所で何ができるのか。その答えを民たち、取り分け織田浅井徳川の三家の領国の民に伝えなければ、結局すぐさま離れて行く。
浅井家の本国の越前や故郷の北近江のみならず加賀も若狭も、能登さえも大した問題は起こっていない。強いて言えば丹後では一色義道が不安にさいなまれているが、それゆえに浅井に寄りかかっているのでむしろ安定しそうである。
織田領だって、本拠地の尾張・美濃は無論伊勢だって一揆の自滅で織田家に住民の心は傾いており、何か起きるとすれば占領したばっかりの但馬・播磨と言う本拠地から遠く離れた場所ぐらいしかない。徳川だって三河は故郷、遠江は本拠であり統治はうまく行っているらしい。
「幕府幕府と熱心なのもいいですけど、皆々様を泣かせるのが幕府だとしても守るのが正しいとか言う発想はごめんですね」
「それは確かに……」
「それでお桂、本日の夜伽は頼みますよ」
「奥様!」
「さっき述べたでしょう、いつ何時戦に呼ばれ、いつ何時死ぬかわからないのですから。無論私でも構いませんが、とにかく千福丸の弟、いや妹でもいいから更なる子が必要なのです」
四葩がこうして、唐突に夜伽を頼むのはあまり珍しくない。とは言えいきなり言われても心の用意がと言うのもまた事実であり、それこそ一晩単位でやってくれと言われるのもしばしばである。
「あなた、どうかこの後はごゆるりと」
「しかしその……」
「ご当主らしいお仕事をここ数日で一気に片づけたのはどなたでしたか」
「はっきり言う、お前を抱くつもりだった」
「あらそうでしたかこれは失礼、なれば本日は共に……」
いくら二十歳だとしてもその気になっている二人の女を相手にどこまで戦えるのか、少しだけ不安になりながらへんてこな笑い声を上げた高虎に向かってにじり寄り、しなを作って見せもした。
「まったく、この事は農民も武士も、主上様も同じなのだろうな」
「そういう事です」
「いずれはこの子たちもか」
子どもたちがまた少し目を細め、それに呼応するように高虎と四葩も笑った。
何も憂いがないかのように、笑っていた。




