藤堂高虎、決断する
「丹羽様、此度は何と申し上げるべきか」
「いや良い、あの一揆衆と言うべき敵はこれまで対峙したどの敵よりも難儀だ。死をも恐れずただまっすぐに向かってくる。武士であれば家のためとか、功績のためとか余計な事を考えるがそれがない。どこまでも仏敵を倒す事しか頭にない。
いやそれどころか、命さえも惜しまない。大将が退けと言わない限りどこまでも追って来る。まさに狂犬だ」
「卜全の犠牲によりかろうじて生き延びたものの、それでも払った命は大きい。いずれこの一乗谷城にも彼らは迫って来よう。とりあえず貴殿らが間に合った事は幸運だがな」
一乗谷城の大広間の、上座に座る長秀の顔は暗い。
五人の出席者の内安藤守就も盟友の氏家卜全を亡くして沈んでおり、景鏡にいたってはまるで人形である。
員昌も目付きに光は乏しく、高虎は立場的な意味で落ち着けずに長秀の顔ばかり見ている。
まだ兵数そのものは残っているが、かと言ってその数を矛にして斬りかかって行くには何もかもが足りない。数が多いとか言ってもしょせんは敵軍の三分の一以下であり、これまで三人の将を失った上に三連敗中と来ている。
「戦のいきさつを聞くと、一応相当な数の兵を討ち取ったのは間違いないのですよね」
「ああそうだ、良民をな。その戦以外にもいろいろな事ができる良民が、悪鬼羅刹のようになって襲い掛かって来る。まったく、こんな兵法もそうそうない」
高虎が聞こえのいい事を言って長秀を元気付けようとするが、長秀の愚痴は止まらない。命さえも惜しまないほどの精鋭の上に元をただせば彼らは農工商の民であり、殺せば殺すだけ確実に相手の国がやせ細っていく。
無論このやり方はある種の自滅とも言えるが、それでもその分だけ領国に魅力がなくなって行くと言う点では逆説的な防衛にもなる。まったく厄介なやり方だ。
「それにだ、彼らは我々がどうにもならず引いたのを見るや、足羽川北部の村や寺社を一気に襲い始めた」
「寺社までですか」
「ああ、一向宗でない寺は彼らに取り略奪対象でしかない。他宗の坊主や侍童も殺されたり奪われたりしているらしい」
「本願寺のやり方はわかっていたつもりですが、こうして直にお話をうかがうと織田様が苦悩なさっていた訳が改めて理解できました」
「正直な所、欲の皮が突っ張ってしまった面がないとは言わない。お館様は最初事前の約定通り金ヶ崎までの十万石ほどを浅井の取り分とする予定だったが、何せ織田はこの多方面作戦状態だからな。その上に徳川殿へのお礼も相当かかったしな」
「この前の遠江のですか?」
「違うわ、義景にとどめを刺した足羽川の戦の話だ。そしてその後の遠江への出兵は事実上無償だ。田中殿もまた相当に活躍なされたそうだからな、相当な賞をもらったのであろう」
「具体的にいかほどかは存じ上げておりませんが、まあそうなるでしょう」
赤尾清綱と田中吉政は遠江での戦いの戦後処理を終えて小谷城に向かっていたが、まだ越前には来られていない。彼らの軍勢が戻って来ればとりあえず近江は安全だろうが、それがまた次の戦に出られるのはいつの事かわかった物ではない。
「この越前はあるいは見捨てられたのかもしれません」
「そのような!」
「お館様は既にそれがしに南近江の土地を用意しております」
「えっ」
員昌にしても高虎にしても、まったく予想外の言葉だった。
織田ではなく浅井の軍勢を求めると言う時点で、織田の面子は潰れる。
五十万石もの大領を得ておきながら、わずか数ヶ月で持て余して見捨てるなど失態どころの騒ぎではない。その最大の責任者と言うべき丹羽長秀に平然と新たなる土地を与える、それも織田領として根付きつつある南近江を与えるなどあまりにも寛容すぎるのではないか。
「しかしそれでは越前は一向宗の」
「それをしのぐのであれば織田でも浅井でも良いのでしょう」
「越前全土となるとそれこそ尾張一国にも匹敵する領国ではないかと」
員昌とて、貞征ほどではないがこの前の戦で石高を増やされた。新たな領国を得る事により、その上で与えてくれた存在に忠義を誓って行くのが世の流れだ。それをあまりにもあっさりあきらめる信長のやり方は、まるで別次元のそれにしか思えなかった。
その証拠に織田に染まっていた守就は平然としていたが、景鏡は意味不明そうに口を大きく開けていた。自分も多分同じ顔をしていただろうし、あるいは高虎のように斜め上を向いていたかもしれない。
「何らかの理由がおありとお見受けいたしますが」
そのせいで員昌は長秀の顔がより深刻そうになるのに気づかなかったし、高虎もこんなごもっともな科白しか吐けなかった。
「これは、できれば浅井方の代表である方だけにお伝えしたい事なのですが」
「ではそれがしは一旦」
「ああ磯野殿、言葉を誤ってしまいました。藤堂殿もまた浅井方の代表ですから、どうか落ち着いて聞いていただけたら」
「では朝倉殿、共に卜全のために勝利を祈りに向かいますかな」
長秀からしてみれば相当な重大発言をする予定だっただろう中、自分の立場を見極めてまったくためらう事なく広間から出ようとする高虎の姿は、実に絵になっていた。
その所作がわずかに空気を明るくし、さらに守就が愛想笑いをしながら景鏡ともども広間を立ち去って行く事により、今日初めて長秀の顔に赤みが戻った。
「さて越前の先は加賀です。加賀の先はどちらでしょうか」
「能登と越中ですが」
「そうです、能登と越中です。それで藤堂殿、能登の先はいったいどちらでしたか」
「海に決まっているでしょう、そうですよね磯野様」
「待て高虎、能登は加賀だけでなく越中にも接しておるぞ、それから……」
守就と景鏡が去り三人だけになってより一層閑散とした大広間で、長秀が小さく口を開く。最初員昌はそのどうでも良い言葉に不可解そうに首をひねったが、そこから長秀と高虎にうまい具合に誘導されてようやく員昌も気が付いた。
越中のその先は、越後だ。越後には上杉謙信と言う、越後の龍だの軍神の生まれ変わりだの言われている人間がいる。それと接敵すれば、それこそ大変な戦いになる。
「上杉から守れと言うのですか、とは言えだとしてもずいぶんと気前のよろしいお話かと」
「お館様にしてみれば、越前はさほど良い土地ではありません。尾張に住んでいると雪の意味など分からぬ物です、近江ではお市様もご苦労なさっておいでなのでしょう」
「ええ、そのようで」
「雪のない尾張では冬場でもかなり身軽に動けます。越前や越後ではそれこそ動く事自体自殺行為だと言うのにです。加賀も能登も越中も、お館様にとっては大した土地ではないのでしょう」
「大した土地ではない……」
大した土地ではないと言う長秀の言葉は、員昌の心を強くえぐった。
幾たびも浅井の使者として一乗谷を訪れ、その肥沃で豊かな土地を見て来た員昌からしてみれば一乗谷はきらびやかな都会であり、いつか近江にもそのような町を持ちたいと思わせる場所だった。今は義景死亡後の混乱も相まって多くの職人や商人が脱走し従前の輝きにはほど遠い状態だが、それでも単純な城砦としての機能はまだ十分に残っている。
文人としてはそれなりの才能を持ち、京を追われた貴族を抱え込んで越前の町を豊かにしていた義景だったが、それも信長から言わせれば田舎侍だったと言うのか。その田舎侍を主として、いやその文化をも先進的だとして仰いで来たのが浅井である。
「すると織田様は」
「ええ、越前の領主が自分である必要はまるでなく、ただ自分に害を加えぬ存在であればそれでよろしいとお考えなのです。そんな存在など、浅井殿以外いないのです」
「そのために一国全てを渡すと」
「ええそうです」
ただでさえ何も言えなくなっている所にさらに畳みかけられ、員昌は先ほどの景鏡以上に動けなくなってしまった。相槌めいた言葉すら高虎に任せきりで、ただ信長の発想に驚嘆するように首を縦に振るのが精一杯だった。
一向宗と戦わなくて良さそうだと言うおまけ付きだったとは言え十万石でも大盤振る舞いだと言うのに、越前一国を渡すなどそれこそ気前が良すぎる。
「しかしさすがに、この地をまず守らない事には越前一国など無理な相談です」
「わかっております。とにかくこの目前の危機をしのがねばなりません。それでは私は安藤殿と景鏡殿と共に一旦詰めてまいりますので、どうかしばしお休みください」
信長により重たくなった肉体を何とか引きずりながら、員昌は織田の者と足取りの軽い高虎の後に付いて行く。
一乗谷の隅の浅井家に割り当てられた区画の中央で、員昌はそんな高虎と二人っきりになっていた。
「磯野様、大丈夫ですか」
「磯野殿で良い。わしは大丈夫だ。それにしても、織田殿と言うお方は……」
「我々とは少し世界が違うのかもしれません」
「お前がそれを言うのか」
「私とて土地は欲しいですから」
磯野員昌にしてみれば、信長と同じぐらい高虎と言う存在は実に不可思議だった。
主君である浅井長政一筋の男であるのは間違いなさそうだが、だとしても勇猛さは度を越している。粗暴でも無謀でもなく、あくまでも勇猛。
その上で同時に織田信長と言う存在にも執着し、その歓心を買っている。今やお市やその子女たち以上に、浅井と織田をつなぐ存在になっているかもしれない。
「ではなぜあそこまで言われて平然としていた」
「織田様は尾張から越前まで来たのです。北近江の小さな世界しか知らない私よりずっと多くのことを知っていらっしゃる。それに丹羽殿はまだともかく木下殿のような元々百姓であるお方を厚く扱ってくれると言う事自体私には驚きでした。そして私自身、闇討ちを狙う者と思われてもおかしくないのに認めてくれました」
員昌とて、それほど大きな世界の中にいる人間ではない。お市を通じてでしか織田の事は知らず、ずっとただの同盟相手としか考えていなかった。
だが考えてみれば家督を相続してからしばらく同族との戦いに明け暮れ、桶狭間で十倍以上の今川軍と対峙せねばならなくなり、その後美濃の斎藤義龍・龍興と言う存在、やはり親族である人間と戦う事になった。それだけの事を、浅井に嫁いで来てから数ヶ月経つまでの間に員昌は聞かされていた。
同じ結論にたどり着けたはずなのに、なぜできなかったのか。
「そう言えばそなた、妻はいるのか」
「おりませぬ、まだ十五ですから」
今高虎は長政から二百石の身分を名目的に与えられている。おそらくは、父親のそれを軽く上回るだろう知行だ。それゆえに腰が軽いのかもしれない。もし高虎にその時万石単位の知行があったならばどうしたか、それが負け惜しみに過ぎないのはわかっていたがそう思わざるを得なかった。
「一向一揆の対策の前に聞きたい事があるのだが、どうしてあの時織田殿を選んだ?」
「死にたくなかったからです」
だからついそんな事を聞いてしまったし、その結果拍子抜けするような回答が帰って来たが、落胆は感じなかった。
浅井家を崖から突き落としたも同然の行いが自己保身のためとは――と書くと情けないとしか言いようがないが、それでもそこから迷いを感じる事は出来なかった。
「これから戦うのは一揆の軍勢だ。生死を顧みぬ軍勢だぞ」
「わかっております。なればこちらも同じようにするしかないでしょう」
員昌の率いている軍勢は三千に過ぎない。城内に残る織田軍を集めても一万まで行くかどうかである。
幸いにも義景がとっとと諦めて自害した事もあり一乗谷はほとんど破壊されておらず籠城するのに問題は少ないが、そうすれば一揆軍が数を頼みに他の場所を攻めるのは目に見えている。あるいはせっかく一定以上の防備が残っているはずの一乗谷を数に任せて強引に攻め落としに来るかもしれない。
「織田様はかつてより伊勢を手中に収めようとしておりました。その伊勢にも一向一揆が蜂起しているようです」
「そしてはるか東の三河でもあったそうだからな」
「織田様はこの越前の一揆を静めるにあたりどうしたか、それを考えていたのです。すると磯野様には申し訳ございませんが」
「だから磯野殿で良い。それでどうせよと言うのだ」
「あぶく銭の吐き出し時です。具体的には……」
自分との二人きりの軍議であるのをいい事にしてか、高虎の口が滑らかになり出した。
そしてその舌の先から吐き出された言葉が耳に入るにつれ、員昌の顔色は紫色に変化して行った。
「お主……」
「先にも申し述べた通り、こんな地位はあぶく銭です。ここで使ってしまっても」
いつまでもあの無謀な突貫のまぐれ当たりが続く物ではない。もう一度、もう一度大きな賭けに挑んで勝たなければ、すぐさまその名前を忘れられてしまう。これまた、自分にはとても取れない判断だ。
「丹羽殿とも打ち合わせをする」
「どうかご同行させてください。それがし自ら、丹羽殿を説き伏せさせて下さいませ!」
「確かにそなたの力は必要だろう、言い出した手前な。おい誰か、話がまとまった故軍議の続きを行いたいと丹羽殿に伝令を頼む。ああそなたは行かなくてもいいぞ、二百石取りの副将なのだからな」
自分がこの城にいるほぼ最年少の存在なのだからとばかりに大将面などせずにまめまめしく動こうとし、その上で動くなと言えばおとなしくなる。だが忠犬と呼ぶにはまだどこか飼い慣らされていない。
そして始められた二度目の軍議。今度は高虎が取り仕切る立場となり、次々に員昌にぶちまけた提案を三人にぶつけていく。それに長秀が織田方を代表して意見し、それに決して若くないはずの守就でさえ次々と意見を出して行き、その都度長秀と高虎が話を引き取って行く。
員昌と景鏡はほぼ置物だった。それでもこれまでよりほんの少し生身っぽくなった置物たちは三人の舌戦に飲み込まれまいと必死にしがみつきながら、必死に耳を傾けている。
「では、そういう事でよろしいでしょうか」
「藤堂殿、お頼み申し上げますぞ」
やがて軍議はまとまり、織田の宿老が浅井の若造に頭を下げながら右手を出した時にはもう驚く気も失せていた。一乗谷の民にも同じ事をやっていたと聞かされた時にまともな言葉が出なかったのも、高虎とお前の主のせいだなと心の中で突っ込むのが精一杯だった。
(これでは景鏡殿が潰れそうになるのももっともだな……やはり織田は次元が違う……)
高虎だからついて行けるのか、単に若ければどうにでもなるのか。
員昌はかつての主家の現当主であり、この舌戦にまったくついていけなかった景鏡に向かって、長秀の真似をするように右手を差し出した。その右手に密着した景鏡の手は冷たくはなかったが湿っていて、まるで泣いているようだった。
そして翌朝、高虎は員昌たちに見送られながら一乗谷城から姿を消した。




