嗤う悪魔
「クフフフ。まさかこんな手段を使ってくるとは、完全にしてやられましたよ」
「その姿も久しぶりに見るな。確か……ヨハンと名乗っていたんだったか」
黒……ただ黒い色のみが自分の周囲を包む不思議な空間。手を伸ばせばそれに触れそうでもあり、果てなく続いているようでもある。
光源などは全くないのだが、暗闇というわけではないのだろう。視界にははっきりと俺と『ソイツ』の姿が鮮明に見えていた。
「よく覚えておいでだ。クフフ、この姿に性的な興味でもあったので?」
「はあ……俺はノーマルだ。そんなことより、してやられたと言うわりには随分と余裕じゃないか?」
目の前の、かつて冒険者ヨハンと名乗っていた者の姿をしているのは、俺の魔眼から外に出ていた『怠惰』の半身。
姉さんの話に確信を得た俺は、俺とヤツの存在が何らかの方法で繋がっているのなら、姉さんの『暗黒消滅空間』に俺自身が封じられれば、必ずこいつも吸い寄せられ、同様に閉じ込めることが出来ると考えたのだ。
「クフフフフ。悪あがきは無駄なのでしょう?私は諦めがいいのですよ。なにせ……」
「怠惰……だからだろ。だが、なぜかな? 俺には諦めているようには見えない」
「…………クフフ」
この空間に囚われた時点で、ヤツには俺を倒してこの身体を奪う以外の選択肢は残されていない。しかも暴走や明らかに異質な存在と化したことが外の姉さんに伝われば空間ごと全て消されてしまう。
圧倒的不利な状況下でありながら、ヤツが呑気に会話に興じているのは、何らかの奥の手があるからと考えられるのだが……。
「クフ、いいでしょう。我が理念には反しますが、ここはひとつ悪足掻きをしてみましょうか」
そう言うとヨハンの姿だったものはドロドロと黒い粘液のようになって溶け、ヌラヌラとそれらが収縮を繰り返しながら徐々に違う者の姿へと変化していく。
「くっ、その姿は……」
「クフフフ、おっといけない。あーあー……久しぶりだね、会いたかったよシンリ」
さっきまで黒い塊だったヤツの姿は、一人の美しい女性の姿へと変化した。
その凜とした佇まいと優しげな表情……それを俺が見間違うはずもない。
「師匠……アストレイア」
「おや、シンリの記憶通りに作れたはずなんだが、いまいち反応が鈍いね。ここは涙のひとつも流していい場面だろうに」
「まあ、黒いスライムみたいなのから変化する過程を見せないでくれたら、少しは喜べたかもな。だが、中身がアレって知っているだけにどん引きだよ」
師匠の姿をしたヤツは、腰に差した細剣を鞘から抜き構える。本来なら白銀であったはずのそれは、形状は同じだが全てが黒い物質で形作られたものだ。
「頭ではそう理解していても、案外体というやつは本能や感覚に影響されやすいものだ。なにせ君は優しいからね!」
一瞬わずかに沈み込むような動きを見せたヤツが次の瞬間には目の前に現れ、黒剣の突きが俺の眉間に迫る。
「瞬歩か……まだまだだな80点」
俺はそう言ってヤツの動きより速く抜刀した村雨丸で逆袈裟に斬りつけた。半身になって躱したヤツの突きがスローモーションのように顔の前五センチほどの場所を過ぎる中でのカウンターの一撃。
「クフフ、これは手厳しい。ポテンシャルはオリジナルより上なのですが、再現度がまだ低いですかね」
しかし次の瞬間には、目の前の黒剣どころか、下段から逆袈裟に斬りつけたはずのヤツの身体までがフッと霞のように搔き消え、踏み込んで来る前の位置に剣を構えた状態のままのヤツが現れた。
「幻撃ね、こっちはなかなか……と言いたいところだけど」
「ぐっ! こ、これは……」
「残念、減点だよ」
ヤツは右の脇腹の辺りから黒い血を吹き出して顔を歪めている。
コロニーを守ってもらうために神聖国に残してきたミスティ。彼女の助力のない今の村雨丸は制御の効かない凶刃と化していて、その水刃による間合いは俺自身予想がつかない。
「なんて無茶苦茶な武器……それにこの姿の私に躊躇うことなく攻撃してくるとは……」
「何も感じない訳じゃないさ。今もそう……師匠なら傷を負ったくらいで、そんなにみっともなく顔を歪めたりしない。見ていて本当に……不快だよ」
師匠は真に剣に全てを捧げた人だった。打ち合いのなかで仮にいい一撃が入っても、痛がるどころかそこを好機とみて数手の反撃に結び付けてしまう。終わってみれば、こちらの会心の一撃こそが逆転に繋がる悪手であったように思わされてしまうほどだ。
「クフフフ、仕方ありませんね。お遊びはここまでにしましょうか」
そう言ってヤツはニヤリと口角を吊り上げた。そして緑だった瞳がみるみる紅くなり、白目の部分は逆に黒くなっていく。
同時にこれまでとは比較にならないほど魔力が高まっていくのを感じる……。
「さあ、絶望を知りなさい……『悪辣な黒』!」
ヤツが身に付けているのは今俺が着ている物と同じ黒のコート。これは元々は師匠が愛用していたものだ。
師匠の姿をしたヤツの、その黒いコートのフードがひとりでに被さり、全体の黒さは深みを増して、まるで深淵なる穴の闇のようになっていく。
「何のつもりか知らないが、師匠の顔でそんな歪な笑みは見たくないんだよ!」
あの黒衣にいったいどんな能力があるのかわからない。とりあえず接近戦を避け、俺は黒炎弾を三つほどヤツ目がけて投げつけた。見た目はバレーボールほどの大きさだが、威力はあの屈強な帝都の城壁でさえも容易く貫通するだろう。
(回避……しないだと……)
次の瞬間、轟音とともに黒炎弾は全てヤツに命中し、爆発と同時に巻き起こった黒い炎が体全体を焼き尽くさんと燃え広がる。
「クフフフ、無駄ですよ。この『悪辣な黒』の前にはいかなる魔法も効きませんから。クフフフ」
そう言ってヤツがサッと右手を横薙ぎに振っただけで、黒炎はヤツに焦げ跡一つ残すことなく全てが消え去った。
「それがお前、怠惰の能力ってことかっ!」
言い終わる前に俺は地を蹴りヤツの眼前に肉迫する。そうして超至近距離からの村雨丸による神速の抜刀……だが。
「ちぃ……っ!」
キンっという甲高い金属音が一瞬の中で三度ほどその場に鳴り響き、次の瞬間にはまるでさっきの逆の立場になったように、俺は攻撃を仕掛ける前の位置に戻っていた。
いや、戻らざるを得なかったのだ。
「クフフ、もちろん物理攻撃に対する自動防御付きですが何か? クフフフ」
そう言って楽しそうに笑うヤツの周囲では、黒衣の闇から飛び出した三本の黒剣がゆっくりとその中へと戻っていく。
「そうそう、これは反射のようなもの。いくら攻撃の速度を上げようが、それでは突破は不可能と考えてくださいね。クフフフ」
「…………くっ」
次は今よりもっと早く……自動防御の反応速度を上回る攻撃を、と考えていたのだが、それを見透かしたようにヤツが言う。なかなかに厄介だな。
「そうだ、さっきの質問に答えましょう。私の通常能力は貴方の記憶でいえば……うん、念動力。さいこきねしすとか言うんですかね。まあ本人は動かずに離れたものを動かす能力ですよ。なかなかに有用で……怠惰でしょ。クフフ」
「通常は……だと?」
「クフフフ。貴方は……おっと、シンリは魔眼を積極的に使おうとはしなかったからねえ、知らないのも無理はない」
「どういうことだ? それに師匠の演技はもう、気持ち悪いからしなくていいぞ」
「おやおや手厳しい。まあいいでしょう。この『悪辣な黒』こそが私【怠惰】のユニーク……いわゆる『大罪スキル』というものですよ!」




