前日の朝
雨が降っている。
またこの夢だ。
夢の中でだけ、私は私に戻る事が出来る。しかし目覚めた私はこの夢を見た事さえ知りはしないというのに……。
雨が降っている。
私の名はガルデン・シュトラウス。かつて帝国で一軍を率い、少し前までは軍事顧問を務めていた者だ。
私の中に残る最後の記憶。それを私は、何度もこの夢の中で見せられている。
雨……違う、これは血飛沫……。
弟ガイウスに私が斬りつけた大剣は深々と彼の肉体を裂き、その傷口からは鮮血が飛び散って、まるで雨のように私の頭上に降り注いでいる。
どういう訳かこの夢の中ではその勢いは衰える事がなく、みるみる床に血だまりが出来て、私はそうして溜まっていく血の海の中に既に膝まで浸かっていた。
雨が……止まない……。
……その者はいつの間にか、しかし当たり前のようにそこに居た。
「これはこれは、何と惨たらしい事か。ひっひっひ」
ぴくりとも動かない弟の血塗れの頭を撫でながら、怒りや自責そして激しい憎悪と破壊衝動のさなかにいた私の前に、平然として現れたのは身の丈よりも長い木の杖をついて黒いローブを着た老婆であった。
しかし今の私には他人など、全ては来るべき復讐と破壊の贄にしか映らない。気にも止めずにいると老婆はさらに話し続ける。
「ほう、血の涙……その者はそれほど大切であったのか?……ふむ、ワシならば生き返らせる事が出来るやもしれんがなぁ……ひっひっひ」
生き返る。普通に考えればあり得ない話だ。確かに古い伝承には生命復活の話もあるが、そんなものは所詮おとぎ話。現実には聞いた事もない。
しかしついさっきまで弟の通常では考えられない再生能力を目の当たりにしていた私は、その言葉に反応せずにはいられなかった。
「生き返る……だと……。貴様は何者だ?」
「ひっひっひ、やっと応えおったか。ワシか?ワシの名はクロノス。そち達貴族には『時音のおばば』の方がようわかるじゃろう」
「ああ……誰かと思えば流行りの占い師か。その占い師風情が、我に何用だ?」
「ひっひっひ、既にワシに用があるのはそちのほうであろう?生き返らせたいのじゃろ、そちが殺した弟を!」
老婆とは思えぬ鋭い眼差しが私を射抜く。確かに相手が誰であるかは、この際関係はなかった。今は、愛しい弟が生き返るかも知れない可能性があり、そして目の前の者がそれを行えるかも知れないというその事実。それのみが重要だった。
「確かにそうだ。……クロノスとやら、我が弟を生き返らせてもらえないだろうか。その為ならば私は、貴殿に全てを差し出そう!」
「ひぃーっひっひっひ、いい答えじゃ!ではアンタの全てで、大切な弟君を復活させよう!ひっひっひ……」
クロノスがそう言うと部屋の中にはさらに四人の黒いローブ姿の者がどこからともなく現れ、私と弟が乗るベッドを取り囲む。彼等が口々に何かを唱え始めると、私の記憶はそこで途絶えてしまった……。
雨が降っている。
私の流す血の涙も加わり、さらに満ちていく血の海は私の胸元に迫っていた。顔が血に覆われるのも時間の問題。いつも通りなら、もうすぐこの夢の終わりが近い……。
雨が降っている。
やがて私の身体も意識も、血の海に全てどっぷりと浸かり、その中に深く深く沈み込んで溶けるように消えていった……。
コンコンコン!
「入れ!」
扉をノックして入ってきたのは緑色の軽鎧を纏った兵士。それを緑の仮面を付けた男が豪奢な椅子に腰かけたまま横柄な態度で招き入れた。
「報告します!青光将軍の暗殺に成功。残る二将軍は目論見通り明日には関所に到着。帝都は最早裸同然です!」
「そうか……。では手筈通り、本日深夜に行動を開始するよう伝えろ!例の者達には夜明けと共に動くようにと」
「了解しました!……して、二将軍にはどのように対処されますか?」
「ふん、連絡が届いたところで帝都に戻る頃には全て終わっておるわ!それに戻る事は叶わぬ……彼奴等は我が直々に滅ぼしてくれよう!」
そう言うと仮面の男はその巨体を起こして立ち上がった。目の前の伝令の兵士には彼の動かぬはずの仮面がニヤリと笑っているように見えたという。兵士が去った部屋で仮面の男が大声で笑う。
『ふはははは!我こそは狂王ガルデウス!帝国にいや、この世界全てに滅びをもたらす者よ!わははははは……』
「ジャンヌ様、将軍閣下はいったいどちらに?」
「交代の兵士が忽然と消えました!」
「現場の指揮官が行方不明。部下数人と共に姿が見えません!」
夜明け前、まだ朝日も昇らないジャンヌの屋敷は今まさに混乱状態であった。各持ち場から夜の内に将官や兵士の一部が失踪する事態が連続して起こり、その報告と対応の指示を求めて多くの者が押しかけているのだ。しかしそれらに指示を出すべきエドワード将軍の姿は屋敷のどこにも見当たらない。
「くっ、誰か父を見た者は居ないのかっ?」
殺到する兵士の中心で苦悩するジャンヌ。突然の事態に彼女は焦りと苛立ちを募らせていく。
「何が起こっているんだ!くそっ!」
バァンッ!
そんな苛立ちが限界を超えた彼女は悪態をついてテーブルを叩きつけた。
「情けない。それでもギルシュテイン家の娘かっ!」
突然の声に場の誰もが振り返ると、そこには彼等全員の待ち人、エドワード将軍の姿があった。
「えっ……お、お父様……今までどちらに?」
「時間が惜しい……ジャンヌ来なさい!」
彼は場に集まった兵士達には目もくれず、ジャンヌの腕を掴むと引き摺るようにして中庭に出た。呆気に取られた兵士達も何事かとそれに続く。
中庭に出たエドワードは愛剣を抜き放ち、対峙するジャンヌに対して構えをとった。
「日頃の成果、見せてもらおう!」
「なっ……!」
何を馬鹿な事を、そんなジャンヌの言葉は父エドワード・ギルシュテインの鬼気迫る気迫によって押し潰された。よく見れば顔色は青く明らかに万全の状態には程遠い。しかし彼から発せられるのは一流の武人のそれであり、そこに一切の異論を許しはしない。
その気迫はジャンヌの剣士としての本質を刺激し、彼女に二本の愛剣を構えさせた。
「参るぞっ!」
ジャンヌが構えたのと同時にエドワードが動いた。一気に間合いを詰めて放つのは、一切の小細工無し、渾身の上段からの振り下ろし。
振り下ろされた剣がジャンヌに迫った瞬間、場の誰もが我が目を疑い驚愕する。二本であった筈の彼女の剣、それを持つ腕さえもが突然六本に増え、六本のレイピアがエドワードの剣を弾き飛ばしたのだ。
「これが今の私の全力!ロゼット咲きの青薔薇!」
父の強い想いはその殺気さえ含んだ全身全霊の一撃にて確かに彼女に伝わった。その想いに応えようと彼女はシンリ達との修行で新たに身に付けた技を躊躇う事なく繰り出している。この技自体は完成に近づいているのだが、はっきり視認出来るほどの残像を作り出す超高速の動きは負荷が大きく、現時点の彼女では長く使えば自身の肉体にもダメージを負う。それを承知の上で彼女は自らの成長を父の脳裏に焼きつけようと全力で技を出し続けた。
彼女の胸を中心にして放射線状に広がる六本の腕がそれぞれ高速の刺突でエドワードに迫り、当たる直前で全て止まる。寸止めしているとはいえ、その剣速が生み出す突風は容赦なくエドワードの身体を襲い、髪やマントをなびかせた。
迫り来る幾多の連撃を一切瞬きする事なく見届けていたエドワードが、ふいに体制を崩して片膝を着くと、彼女の連撃も止まり残像で作られた六本の腕とレイピアが消えた。
「お父様!……はっ!こ、これはっ!」
レイピアを投げ捨て高速の動きで瞬時に近寄り、倒れそうだった父を抱きかかえたジャンヌは、この時はじめて彼の纏うマントに隠された背中が赤く染まっている事に気が付いた。その出血は今さっきまで彼が立っていた事さえ疑うほどに酷いものだ。
「時間が惜しい。よく聞くのだ娘よ……」
「お父様もう喋らないでっ!誰か医師を!いや師匠、師匠を起こしてきてくれ!早くっ!」
狼狽える彼女の手を握りしめ、その顔を見つめるエドワード。優しく武骨で大きな父の手。その見る影もないか弱い力に彼女の目からは大粒の涙が零れはじめた。
「皆も聞け!非常事態の特例措置として我、青光将軍エドワード・ギルシュテインは、以後事態が終息する迄の間、ジャンヌ・ギルシュテインに我が全権を委譲する!」
「……な、何を仰るのですお父様!お父様が……お父様でなければ……私など」
「先ほどの剣技、見事であった。お前は既に私を超えておる……私から、S級冒険者ジャンヌへの最初で最後の依頼だ。帝国に害成す賊共をその剣技にて討伐して……がはっ……」
「お父様あぁぁっ!わかりました!わかりましたから、これ以上は……もう」
弱々しく持ち上げられたエドワードの掌がジャンヌの頬にそっとふれる。
「お前は……母さんによく似ている。頼むぞ……その手で帝国を…………私の……自慢の……娘………」
その言葉の途切れた瞬間、シンリが目の前に転移して現れた。連絡を受け、すぐに行動してくれたのだろう、寝間着のままで足も裸足である。
「ジャンヌ!」
「し、師匠っ!父を……お父様を助けてください!お願いします師匠おぉーっ……」
悲痛な声を上げるジャンヌに抱きかかえられたエドワード。彼女の頬に触れていた手は既にだらりと地に着いている。
そんな彼に急いで『神丸』を飲ませようとシンリが伸ばした手を、同行していたガブリエラが横から掴んで遮った。治療ならばとシンリが呼び寄せ一緒に転移して来ていたのだ。
ガブリエラは真っ直ぐシンリの目を見ながら、何も言わずただ首を二回横に振る。それを見たシンリは状況をすぐに理解してやや顔を伏せながらジャンヌに伝えた。
「ジャンヌ……すまない。エドワード殿はもう……」
「……………………ッ!」
それを聞いた彼女は声にならない叫びを上げると覆いかぶさるように、冷たくなっていく父に強く抱きつき、ひたすら泣き続ける。
そんな二人の後ろでは、いつの間にか昇った朝日の光を反射して、三本の剣がキラキラと輝いていた。




