パンドラ
この広大な『冥府の森』の丁度中央部に小さな山がある。
小さいと言ってもその高さは五百m以上あり、周囲にある異常な大きさの大木が無ければかなり目立った事だろう。その山こそ通称『死の山』。『冥府の森』に於いて最も『冥界』に近いとされる『混沌竜』の眠る地だ。
その近くに行った人間は俺以外殆ど居ないが、近付くと更なる驚きに襲われる事となる。その『死の山』は実は『山』では無く、横になった『混沌竜』の身体に長い年月の中で土が積り植物が生い茂っただけなのだ。近付くとその植物の間から、あまりに巨大な爪や鱗、電車程もあろうかと言う尻尾、そして中心部分にやや腐食の進んだ巨大な頭部が見える。
俺はその巨大な頭部の口の前まで近付くとそこで彼女の名を呼んだ。
「おーいパンドラ!挨拶に来たんだ!」
暫くの静寂の後、地響きを立てながらその巨大な口がゆっくりと開き始める。その様を見て、ここを初めて訪れる者は皆不安の色を隠せない。この巨竜が動き出した事で眠って無いと言った俺の言葉が現実になったのだから仕方無いだろう。いつも余裕のエレノアがあそこまで表情を強張らせるのは珍しい事だ。固唾を飲んで彼女等が見据える先。
まるで大きな鍾乳洞の様に開いた口には一本一本が人程もある大きな牙が並んでいる。その奥は真っ暗で飲み込まれれば闇そのものに吸収されるのでは無いかとさえ思わせた。
「我が君よ。いきなり食べられたりはせんであろうのう?」
「ははは、そんな事……」
エレノアの問いへの答えは、俺の右の肩をトントンと叩く者によって遮られる。
「バレバレだよ、『姉さん』」
そう言って俺が左から後ろを振り返ると……。
ぷにっ!
俺の左頬に、何者かの指先が押し付けられた。
「うふふふ。まだまだ甘いわねシンリちゃん」
その見知らぬ声に全員が慌てて声のした方を向くとそこには、白い肌に腰まで伸びた黒髪を持ち、その均整の取れた美しい身体をピッタリとした黒いドレスで包んだ美女が立っていた。
「ダンナ様、知り合い……なの?」
「この森に人間がいるなんて驚きじゃんよ」
「ナーサさん、それは違いますわ」
ここに来て、誰よりこの反応を楽しみにしていたであろうシズカが邪悪な笑みを浮かべて前に出る。
「この方こそ『混沌竜』の本体、パンドラ姉様ですわ!」
そう言いながらシズカがパンドラを手で指し示すと、彼女はスカートの下で尻尾を振り、畳んでいた黒い翼を開いて見せた。それによってシズカの目論見通り『開いた口が塞がらない』を体現した者が三人出来上がっている。
「尻尾踏んだり喉にある逆鱗を触ら無ければ、とっても優しい姉さんだからそんなに怖がる事は無いよ」
「そうだぞシンリちゃんの優しいお姉さんだぞ!……ところで」
突然、目に見える程濃い瘴気と『負』のオーラがパンドラの身体から滲み出る。
「シンリちゃんこいつ等、誰?」
そう言ってどす黒いオーラで包まれたパンドラが、エレノア達初見の者達を睨みながら指差した。その金色の瞳は爬虫類のそれ同様で、威嚇する様な眼光は実戦経験豊富なエレノアを以てしても後ずさりしてしまう程だ。
「ひゃうっ!」
その威圧はあまりに情けない声によって終わりを告げた。
「そこまでにしといてよ姉さん。皆俺の家族みたいな者達なんだ」
「だから!耳は弱いから息かけちゃダメって言ったでしょシンリちゃん」
「あははは、ごめん姉さん。紹介するよエレノア、ツバキ、ナーサ。それに上空に居るのがガブリエラ。皆俺の仲間であり家族みたいな者だよ。よろしくね」
「え、エレノアと申します。宜しゅう御頼み申します」
「ツバキです。姉上様」
「ナーサ……なの」
「とダスラって言うじゃんよ。お願いしますパンドラ様」
挨拶が始まると警戒を解いたガブリエラも降りて来て、パンドラの前に膝を付いた。
「主君の生ある限りこの身を捧げましたガブリエラと申します。姉上様、以後お見知りおき下さいませ」
皆の挨拶を受けたパンドラは、さっきと打って変わって満面の笑みを浮かべている。
「これがシズカちゃんが言ってた『はーれむ』ってヤツなのかなぁ。皆綺麗な娘ばっかりね。うふふふ、初めましてパンドラよ。皆も私の事はお姉ちゃんって呼んでくれていいからね」
互いの挨拶が済み、やっと皆の緊張が解けてきた様子。するとパンドラが俺の手を引いて歩き出す。
「シンリちゃん達の気配感じたからお茶の準備しといたよ。ささ、中でゆっくりして行って」
そう言いながら、目の前の巨竜の口の中に入って行く俺とパンドラ。エレノア達が意を決して入って来るまで約十分程かかった。まあ確かにそうだろうな。
「これは……何と豪華な造りじゃろうのう」
「すっげえ!宮殿みたいじゃんよ」
エレノアとダスラが驚くのは無理も無い。内部はパンドラ監修の元、手先の器用な魔物を総動員しての大規模な改装が施され外見からは想像も付かない立派な空間が造られているのだ。赤い絨毯に黒い家具や壁、所々に施された金の装飾。その豪華さは王族の私室と比べても決して劣る事は無いだろう。
全員がテーブルにつくとワニ頭の執事服を着た魔物が優雅に全員にお茶を注いでいく。彼等はパンドラの執事達で[セベーク]という魔物達だ。他にも[メリジューヌ]という美女の上半身に蛇の身体、蝙蝠の翼を持つ魔物がメイドとして仕えていた。
ちなみに彼等の服装にはシズカのデザインが色濃く反映されている訳だが、それを誰が作ったかの話は次の機会にしておこう。
パンドラに請われるまま旅の話を語って聞かせ、食事を挟みながらのそれは夜まで続く。途中の俺が収監されたくだりで彼女が「ちょっと関係した国全部滅ぼして来る!」と言った時には全員で止めるのに苦労したが……。
遅くなったので泊まっていく事を勧められ全員『混沌竜』内に泊まる事になった。客用の寝室に俺以外は強制的に案内され、俺は久しぶりにパンドラと二人で眠る事となる。
美女とぐっすり抱き合って眠って羨ましい?とんでもない。
いくら姿を竜人化していても彼女の力はこの巨竜並み。それが会えなかった寂しさにより本気で抱き着いて来るのだからたまったもんじゃない。俺とミスティは一晩中『聖霊装身』で居る事となった。
アストレイアが亡くなってからアイリが森に来るまでの約二年間、孤独な俺を支え、そして鍛え続けてくれたのが彼女だ。アストレイアが剣なら彼女は魔法と体術の師匠と呼んでも過言では無い。
そんな大切な存在である彼女の髪を撫でながら、俺は朝までその圧迫に耐えていた……。




