女神降臨
俺は、恋をしてしまった。
一年前、この町に流れ着いたシスター。サラサラの髪に、大きな瞳。記憶をなくしているらしく、自分のことはほとんど話さない。どこか不思議な人だけど、俺はすぐに惹かれてしまった。
彼女は、戦争で身寄りをなくした子どもたちが暮らす修道院で、みんなの面倒を見ている。いつも子どもたちに囲まれていて、笑顔が素敵で、とっても優しい人なんだ。
「祈らなくても、神には通じますよ」
それが口癖の彼女は、あまりお祈りをしない。シスターの割には信仰心がないように見えるけど、そこもお茶目でいい。
シスターへの想いは、日に日に募るばかり。俺は、もう少ししたら、この想いを打ち明けるつもりだ。……うん、もう少ししたら。
◇
俺は、修道院の前にある花畑にシスターを呼び出していた。夕暮れの風が、花をゆっくりと揺らしている。シスターの顔を見るために、何度も通い詰めた修道院の景色が、今日は少し違って見える。
胸がうるさい。さっきから、心臓がずっと騒いでいる。落ち着け⋯⋯大丈夫だ。今日こそ伝えるんだ。
「どうなさいました?」
シスターが立っている。色とりどりの花に囲まれているのに、俺の目にはシスターしか映らない。彼女の前では、どんな花も霞んでしまう。
「あの、シスター。俺……」
少し首を傾げるシスターに、ドキッとする。ダメだ。言葉が続かない。いつもなら普通に話せている……と思うのに。
穏やかな笑み。夕暮れの光を受け、風に揺れる髪。……ああ、シスター。今日も君は綺麗だ。俺なんかが、こんな人に告白していいんだろうか。いや、しっかりしろ。ここで逃げたら、きっと一生後悔するぞ。
「俺、実は、シスターのこと……!」
――突然、誰かの悲鳴が聞こえた。
カンカンカンカンカン!
けたたましい鐘の音が鳴り響く。
血の気が、さっと引いた。修道院の中から、みんな一斉に飛び出してくる。
「ちょっと、何の音よ!」
「⋯⋯魔軍だ! 魔軍が攻めてきたんだ!」
少し離れたところから、短い悲鳴。
嘘だろ⋯⋯ここは町の奥だぞ? もうこんな近くに?
泣き声が上がった。子どもたちが、あちこちへ走り出した。
「こら、走るな! 戻ってこい!」
「逃げろ! 逃げるんだよ!」
一人の男が、修道院の裏手へ走った。だが、すぐに戻ってきた。
駄目だ! まともに通れるのは、町に下りる坂道だけなんだよ! イチかバチか、坂を走る? 俺だけで?
「行くな! そっち行くな! 死ぬぞ!」
「じゃあ、どうすりゃいいんだよ!」
「ちょっと! 子どもを押さえて!」
やばい、みんなパニックになってる! まずい⋯⋯このままじゃマズい!
「皆さん、落ち着いてください!」
シスターの凛とした声に、みんなの動きが止まる。⋯⋯さっきまでの穏やかな顔とは違った。
「子どもと女性は建物の奥に隠れて。倉庫に武器があります。男性たちはそれを持って、塀の後ろに隠れてください」
シスターの指示には、迷いがなかった。
「兵が来るまで、私が時間を稼ぎます」
「え……でも、シスター……」
「あなたたちには、いざというときにみんなを守る役目があります。頼みましたよ」
シスターの真剣な目を見て、俺たちは黙って頷いた。
こうして、俺を含む五人の男たちは、訓練以外で握ったことのない剣を手に、修道院の塀に身を隠すことになった。
◇
魔軍は、すぐに現れた。
坂道の向こうから、ぞろぞろと兵士たちが歩いてくる。鎧が擦れる音。踏みしめられる土の音。先頭を歩く男の手には、血のついた抜き身の剣が握られている。
⋯⋯二十人はくだらない。俺たちは、塀の隙間から息を殺して様子を窺った。
怖い。
剣を握っている手が、じっとりと汗ばんでいた。隣にいる男も、ガタガタと震えている。
先頭の男が足を止めた。
「一人、か?」
隊長らしき男は、怪訝そうに眉をひそめる。
「はい。ご覧の通り、私一人ですわ」
シスターは、わざとらしくゆっくりと答えた。まるで、目の前に魔族の軍隊がいることなど、少しも気にしていないかのように。
「ふん、ギャーギャーとやかましい声が聞こえていたぞ。ホラ吹きめが」
「あら、そうですのね。お耳が悪いのでしたら、良いお医者様を紹介いたしますわ」
「くだらない挑発だな。時間稼ぎのつもりか」
シスターは、ふう、と大きな溜息をついた。
「どうして真っ先に、この修道院へ来たのかしら?」
「お前たち人間に、神がいないことを証明するためだ。子供がいるだろう⋯⋯使わせてもらうぞ」
⋯⋯そういうことかよ。血も涙もないのか。
「子どもたちを連れて行くおつもりなら、私を殺してからにしなさい。あなたに、できるものならね」
男は鼻で笑った。
「人間の癖に、殊勝なことだ。だが、勘違いしていないか?」
男が、シスターへ向けて剣を突き出す。
「我々は、魔族の未来のため、すべての人間を抹殺する。女子供も例外ではない」
魔軍の兵士たちが、一斉に弓を構えた。
……おい。何をする気だ。相手は、無力なシスターだぞ?
「殺れ」
トスッ。トスッ。トスッ。
無数の矢が、シスターの身体を貫いた。
「……え?」
シスターの身体が、ゆっくりと揺れる。白い服が、赤く染まっていく。
「あ……」
そんな。
嘘だ。
だって、さっきまで話していたじゃないか。
俺は、これからシスターに告白するはずだった。もう少ししたら、ちゃんと伝えるつもりだった⋯⋯なのに。
「シスター……?」
彼女は、立ったまま絶命していた。
「ああ……」
駄目だ。
嫌だ。
そんなの、嫌だ。
どうして……。
どうして、こんなことに……。
俺は何もできなかった。
ただ、塀の後ろに隠れて⋯⋯。
「ごめん……」
涙が溢れた。
「ごめん……シスター……」
俺は何をしていたんだ。シスターに全部押しつけて。戦うこともせず、助けることもせず。シスターが死ぬところを見ていただけ。
「俺が、先に死ねばよかったんだ⋯⋯」
俺があそこに立てばよかった。そうすれば、シスターが死ぬところなんて見ずに済んだのに……。
「おい、そこに隠れているのは知っているぞ」
魔軍の声が響いた。心臓が跳ね上がる。
「見たか? 人間ども。隠れたつもりのマヌケども!」
男は笑っている。
「この女は神に願ったのだろう! どうか私をお救いください、とな!」
やめろ⋯⋯もう、やめてくれ⋯⋯。
「しかし、どうだ! 女は死んだぞ!」
シスターが、死んだ⋯⋯。
「いいか、人間! お前たちに神はいない! 女の後ろで震えるだけの、卑怯で臆病な人間どもめ!」
……その通りだ。俺たちは、シスターを盾にしたんだ。自分たちは隠れて、もしかして助かるかもしれないと思って。
「さあ、次はお前たちの番だ!」
重い足音がする。
……怖い。死にたくない。
でも、もう逃げるのは嫌だ。俺は彼女を見殺しにした。せめて最後くらい⋯⋯。
俺は塀に手をついた。シスター、見ていてくれ。最期くらい、俺は——
「お待ちなさい」
……え?
「私を殺してから、という約束でしょう」
もう一度、塀の隙間から覗いた。
シスターが、自分の身体に刺さった矢へ手を伸ばして⋯⋯一本、また一本と、引き抜いていく。そして、そのたびに⋯⋯傷口が塞がって⋯⋯。
⋯⋯何が起きてる?
「まったく情けないですね……あなた方は……」
魔軍が、どよめいていた。シスターは最後の一本を抜き終えると、それを地面へ放り捨てた。
「こんな女一人殺せず、約束も守れないのですから!」
「な……なんだ、お前は……!」
魔軍の動きは、完全に止まっていた。
「なぜ、あなた方が私を殺せないか。理由を教えて差し上げましょうか」
男は、シスターを見つめたまま動かなかった。何かを言おうとしている様子だが、声にならない。
「神がいるからです」
「……ふざけるなあぁッ!」
そのひと言がよほど癪に障ったのか、男は叫びながら剣を振り抜いた。刃がシスターの首を刎ねる⋯⋯!
身体が崩れ落ちた。
でも、地面に落ちた頭は、灰になって崩れて⋯⋯首から……新しい頭が……生えた?
シスターは、生えたばかりの頭を上げる。その目が男を捉えた。
「そして、あなた方に神は味方しません」
「⋯⋯うるさい! 黙れ、黙れ、黙れぇぇッ!」
男が叫び、俯せに倒れたままのシスターへ何度も剣を突き刺す。ああ……! 俺は目を強く瞑った。
「そんなに気にしていたのですか?」
魔軍のどよめきが、さらに大きくなる。
目を開けると、シスターが立ち上がっていた。傷は、もうない。
「自分たちに、神がいるのか」
「黙れ⋯⋯この、化け物が……!」
男が後ずさる。その後ろにいる兵たちも、明らかに動揺し、後退していた。
シスターが、魔軍へ向かってゆっくりと歩き出す。
「何度でも言いましょう」
一歩。
「子どもたちを盾にするため、修道院を狙い⋯⋯」
一歩。
「罪のない人々に刃を向け、命を奪う……そんなあなた方に」
また一歩。
「神は、味方しません!」
シスターから、聞いたことのない大声。
「……たわけ、たわけ、たわけぇぇッ!」
男は、剣を地面に叩きつけて声を荒げ、再び切っ先をシスターに向けた。
「貴様らは存在するだけで罪だ! 全員、手を貸せ! この女を殺せッ! 死ぬまで細切れにしてやるッ!」
その言葉を聞いて、俺はやっと我に返った。
剣の柄を握りしめて、震える足で立ち上がった。隣にいた男が、俺の足を掴む。
「おい……! 何やってんだ、隠れとけ……!」
「離してくれっ……! シスターは、確かにそう言った……! でも、俺はもう嫌なんだ……!」
よくわからない。本当によくわからないけど、シスターは死なない。でも、彼女が傷つけられるのを、これ以上見たくない!
「うおおおおおッ!」
俺は塀から飛び出し、魔軍へ向かって走り出した。
——その瞬間。
トスッ。トスッ。トスッ。
魔軍たちを、多数の矢が貫いた。
「今だ、行け! 突っ込めえぇーッ!」
雄叫びとともに、大勢が駆けてくる音が聞こえてくる。
……来た!
やった!
兵が間に合ったんだ!
俺はすぐさま、塀の後ろに戻った。
◇
混乱して統率を失った魔軍は、駆けつけた兵たちによってすぐに殲滅された。幸い、こちらの被害はほとんどなかった。
戦いが終わった。
俺たちは皆、何も言葉を発さず、花畑に立つ一人の女性を見つめていた。
「あの⋯⋯」
彼女は、その視線に困ったような顔をしていた。でも、しばらくすると、いつもの笑顔になって⋯⋯。
「皆さん、無事なようですね。良かった……」
シスター。
俺たちを守るために、矢を受け、何度も斬りつけられた。白かった修道服は泥にまみれ、あちこちが裂けている。もはや、服と呼ぶのもためらうほどボロボロだ。
それでも、彼女は穏やかに微笑んでいた。まるで、自分が傷ついたことなど、どうでもいいことかのように。
「女神だ……」
誰かが、呟いた。
「女神様だ……」
また別の誰かが声を漏らした。
「女神様……」
「女神様だ……!」
その言葉が、静まり返った庭に広がっていく。
――女神様が、現れた。
俺たちの代わりに魔軍へ立ち向かい、俺たちの代わりに何度も傷つき、それでも立ち上がった。
そして、俺たちが生き残ったことを、心から喜んでくれた。
誰に言われるまでもなく、俺たちはひざまずいていた。両手を強く握りしめ、祈りを捧げた。
「女神様がお出でになられたんだ……!」
そうだ。俺たち人間のために、女神様が地上へ下りて来られたんだ。
“祈らなくても、神には通じますよ”
そうだったんだね。君が神様に祈らなかったのは、君が女神様だったからなんだ!
ふと、彼女と初めて会った日のことを思い出した。あのときから、俺は彼女に見惚れていた。優しくて、綺麗で。ああ……俺は、なんて人に恋をしていたんだ。
……いや、違う。あれは恋じゃない。俺の抱いた感情は、きっと、もっと崇高な……女神様に対する、敬愛だったのだ。
そうだ。そうに違いない。
俺たちは皆、女神様を見つめていた。誰もが涙を流し、誰もが祈っていた。
さっきまで、あんなに怖かったのに。今は、心強さでいっぱいだ。
……勝てる。
この戦争、勝てるぞ。
だって俺たちには、女神様がいるんだから!




