第65話:在庫:無限の幸せ。……不備、なし
世界を縛っていた古の管理システムがセナの愛によってアップデートされてから、数年の月日が流れた。
かつて魔獣の隠れ里だった聖域は、今やエルフ、ドワーフ、人間、そして多種族の魔獣が共生する、世界最大の「平和のハブ(物流拠点)」へと劇的な進化を遂げていた。
新しく増設された巨大な石造りの事務棟。その最上階にある、一分の隙もなく整理整頓された執務室で、セナは窓の外に広がる活気あふれる光景を見下ろしていた。
「……不備、なし。……王都への特急便、定時出発。……エルフの里からの新素材、検収完了。……事務的に言わせてもらえば、これこそが歴史上、最も美しいバランス(在庫状況)ね」
セナは、事務用の眼鏡を指先でクイと押し上げ、満足げに微笑んだ。
彼女の事務机には、王都の王となったジルヴェールや内務卿のバルト、そしてエルフの長老エルドランからの「平和維持協力報告書」が整然と並んでいる。セナが構築した「影の物流門」を中心としたネットワークは、世界から飢えと争いを事務的な速度で消し去っていた。
「セナ殿。……本日の全セクターの検品、終了しました。……物流、治安、衛生、すべてにおいて閾値内です。……完璧ですよ」
扉を開けて入ってきたのは、今や聖域の医療・法務局長となったメルディだった。その隣には、相変わらず穏やかな笑顔を浮かべ、子供たちのための「特製おやつ」をトレイに乗せたロレッタが続いている。
「はわわ~、セナさん。……今日も皆さん、笑顔でお仕事してましたよぉ~。……不備なんて、聖域のどこを探しても見つかりませんねぇ~」
「……ありがとう、メルディさん、ロレッタさん。……あなたたちが支えてくれたからこそ、私はこの机の上で世界を『管理』し続けることができたわ」
セナは、二人の専門職に深く感謝の意を示した。
そこへ、広場から力強く、けれど懐かしい響きを持つ、少年の声が届いてきた。
「――そこ! 魔力の流れが少し淀んでるよ! ……グーくんの足音をよく聞いて、大地と呼吸を合わせるんだ!」
窓の下では、少し背が伸び、声変わりしたレイが、新しく聖域に加わった若きテイマーたちを指導していた。その手には、かつてセナたちが全力を注いで打ち出した指揮杖、レガリア・セナが、変わらぬ誇り高い輝きを放っている。
「……ママ! ……お仕事、……もう終わり?」
レイの隣で、凛々しい少年の姿をしたハルが空を仰ぎ、セナに向かって大きく手を振った。ハルの背中には、立派な守護龍の翼が広がり、その周囲の空気は、セナが愛する「春の陽だまり」のような温かさに常に保たれている。
ドォォォォォン!!
グーが、巨大な岩石の守護獣としての巨体を揺らし、レイの指示通りに完璧な地均しを完了させた。
そしてレイの影からは、美しく成長した黒狼のルナが、銀色の瞳を細めて、世界の情報の不備を監視し続けている。
「……セナさん。……あの子たち、もう立派な『世界の守護者』ね。……お母さんの補助がなくても、自分たちの足で平和を管理しているわ」
いつの間にか現れたアルウェンが、かつての険しさを捨て、柔らかな微笑みで呟いた。
セナは、窓の外で笑い合うレイ、ハル、グー、ルナの姿を見つめた。
彼らはもう、守られるだけの在庫ではない。自分たちの力で、大切な人を守り、不備を正すことのできる、最高のアセット(人材)へと成長したのだ。
夕陽が、聖域の森を琥珀色に染め上げていく。
セナは、最後に残った一通の「書類」を手に取った。
それは、王都や里からの公文書ではない。レイが拙い字で書き、ハルとグーとルナの「肉球の印」が押された、今夜の夕食の献立表と、セナへの招待状だった。
「……受理、よ。……一秒の遅滞もなく、これに参加させてもらうわ」
セナは、受理の印を力強く叩きつけると、愛用の羽ペンをペン立てに戻した。
事務机の上を完璧に整え、一冊の、ボロボロに使い込まれた管理日誌を手に取る。第一話から、どんな時も書き続けてきた、彼女の人生そのものと言える日誌だ。
セナは、事務棟の長い廊下を、軽やかな足取りで進んだ。
エントランスへ降りると、そこにはレイ、ハル、グー、ルナ、そしてマーサやリリ、コボルトたちが、溢れんばかりの笑顔で待っていた。
「ママ、お仕事お疲れ様! ……さあ、最高のケーキが待ってるよ!」
「……ママ。……ハル、……お腹、……ぺこぺこ。……早く、……ぎゅってして」
セナは、駆け寄ってきたレイとハルを、そして人間の姿に変化して甘えてくるルナと、そっと寄り添うグーを、その両腕いっぱいに抱きしめた。
物流事務員として、理不尽な残業に追われていた前世。
けれど今、彼女の手の中にあるのは、どんな帳簿にも書き切れないほどの、膨大で、温かな「幸せの在庫」だった。
セナは、夕陽を背にして、管理日誌の最後の一頁を開いた。
そこには、これまで出会ったすべての人々と、乗り越えてきたすべての不備への、感謝と誇らしさが詰まっている。
セナは、震える手で、けれど最も美しい筆致で、最後の一行を刻んだ。
『第六十五案件:世界平和の恒久管理、および定時退社の完遂。
特記事項:レイくん、ハルくん、グーくん、ルナちゃん。……あなたたちは、私の人生で一番、完璧で、愛おしい『成果』よ。
……不備、なし。
……在庫:無限の幸せ。
……これより、お母さんの業務を、無期限の『家族との休暇』へと移行するわ。
……完璧なハッピーエンドね。……おやすみなさい。』
日誌をパタン、と閉じる心地よい音。
それは、一つの壮大な物語の終わりであり、永遠に続く、温かな日常の始まりの合図だった。
聖域の空には、一番星が輝き始めている。
お母さんと、最強の家族たちの笑い声は、どこまでも澄み渡る夜の森へと、幸せなメロディとなって響き渡っていった。




