第37話:反撃の号令と、白銀の追跡
聖域の北側、かつては豊かな緑が重なり合っていた境界線は、今や音のない白銀の静寂に支配されていた。
セナは、防寒仕様に仕立て直した厚手のコートの襟を立て、目の前で雪を蹴立てて進む二人の背中を見つめた。
「……ハルくん、熱源の探査を。レイくん、シープたちの配置を崩さないで。……事務的に言わせてもらえば、ここからは一歩一歩が『命のコスト』に関わるわよ」
「わかってる、ママ! ……みんな、僕の杖を見て! 風を一つに束ねるんだ!」
レイが、新調されたばかりの魔導杖「レガリア・セナ」を高く掲げた。
芯材に魔導鋼、先端に星銀石を配したその杖は、周囲の極寒を切り裂くような鋭い光を放っている。レイが杖を一振りするたび、上空を舞うクラウド・シープたちが、まるで一本の糸で繋がれたかのように整然と陣形を変えていく。
これまでの「小さな木の杖」では、指示を出すのが精一杯だった。だが、今のレイには、シープたちの魔力を自分の杖という「ハブ」に集約し、より精密に、より力強く増幅して再分配する感覚が、手に取るように分かっていた。
「……ママ。……あっち、……すごく冷たい塊、……動いてる」
ハルが少年の姿のまま、氷に閉ざされた大樹の陰を指差した。
彼の周囲だけは、龍の火の加護によって雪が蒸発し、常に乾いた空間が保たれている。ハルの紅い瞳が捉えたのは、冷気の魔力が凝縮して意志を持ったかのような、青白い「氷の精霊体」の群れだった。
「……不備の検出ね。メルディさん、防壁の出力を最大に。……レイくん、初陣よ。あのノイズ(敵)を、一気に排除してしまいなさい!」
「了解! ……ハル、右側をお願い! ……シープたち、僕に魔力を貸して! ――『旋風の壁』!!」
レイが叫び、杖を水平に薙いだ。
瞬時に、シープたちの白い毛から溢れ出した魔力がレガリア・セナに吸い込まれ、黄金色の雷光を帯びた熱風へと変換される。
押し寄せていた氷の精霊たちは、レイが放った熱風の圧力に抗う術もなく、パリン、とガラスが砕けるような音を立てて霧散していった。
「……すごい。……一点の無駄もない魔力行使です。……セナ殿、レイくんの指揮能力は、あの杖を得たことで『軍団の脳』としての域に達しています」
メルディが、眼鏡をクイと押し上げ、レイの放つ魔力波形を冷静に分析する。
セナは、胸の奥に熱い誇らしさを感じながらも、視線は既に「次」の敵を捉えていた。
(……レイくん。あなたはもう、守られるだけの在庫じゃないわ。……この聖域の、一番頼もしい『防衛資産』ね)
一行は、倒した精霊たちが落とした「魔力の残滓」を鑑定しながら、さらに森の深奥へと進んだ。
辿り着いたのは、北の境界線の最果て、古の泉が完全に凍りついた湖だった。
その中央には、不自然に巨大な「青い氷の楔」が地面を穿つように突き刺さり、周囲の森から強引に魔力を吸い込んでいるのが見えた。
「……あれよ。……あの楔が、この冷気と侵食の源だわ」
セナが鑑定を試みる。
『状態:魔力吸収装置。……供給先:不明。……警告:不用意な接触は全魔力の喪失を招く恐れあり』
「……ママ、……あれ、……僕が焼く?」
ハルが前に出ようとするが、楔から放たれる拒絶の冷気は凄まじく、近づくことさえ困難だった。守護龍の火といえども、これほどの「環境そのもの」を凍結させる出力の前では、点としての火力になってしまう。
「待って、ハルくん。……一人でダメなら、掛け合わせるだけよ。……事務職の基本は、リソースの統合だわ」
セナは、レイの肩に手を置いた。
「レイくん。……レガリア・セナの真の機能を使うわよ。……ハルくんの火を、あなたの杖で『同期』させなさい。……二人で一つの咆哮を放つのよ!」
「……うん、やってみる! ……ハル、僕の杖に手を当てて!」
少年の姿のハルが、レガリア・セナの持ち手にある「龍の紋様」の部分にそっと手を添えた。
かつてハルが自らの火で鍛え上げたその杖は、親友の熱を拒むことなく受け入れ、レイの魔力と混ざり合いながら、眩いばかりの紅蓮の色に染まっていく。
「――火よ、風を纏って、道を拓け!!」
レイが全力で杖を突き出した。
放たれたのは、ただの火球ではない。ハルの圧倒的な熱量を、レイが杖の機能で「螺旋の槍」へと成形し、シープたちの風で加速させた、神話の一撃。
ドォォォォォン!!
周囲の空気が一瞬で沸騰し、白銀の世界に真っ赤な亀裂が走る。
絶対零度の障壁を、紅蓮の槍が物理的に粉砕した。氷の楔は悲鳴を上げるような音を立てて砕け散り、辺りを支配していた不自然な冷気が、音を立てて霧散していった。
静寂が戻る。
凍りついていた湖の表面に、パキパキとヒビが入り、下から懐かしい水の音が聞こえてくる。
「……やった。……やったよ、ママ! ……壊せた!」
レイは、熱を帯びた杖を抱きしめ、肩で息をしながら笑った。
ハルも、満足げにレイの肩に頭を乗せ、「……レイ、……すごかった」と小さく呟いた。
セナは、砕け散った氷の破片の一つを拾い上げた。
鑑定結果は、残酷な事実を告げていた。
『個体名:人工魔石の残骸。……刻印:王都・第一王子派閥の隠し紋章』
「……やっぱりね。……廃嫡されたとはいえ、あの『在庫のゴミ(第一王子派)』の残党が、この森の資源を横取りしようと罠を仕掛けていたわけだわ」
セナの瞳が、かつてないほど冷たく、鋭く輝いた。
彼らは、ハルを奪えない腹いせに、聖域の魔力を根こそぎ奪い、枯れ果てさせようとしたのだ。
セナは管理日誌を開き、凍てつく空の下、力強い筆致で最後の一行を刻んだ。
『第三十七案件:北の境界線の威力偵察、および魔力吸引装置の破壊。
特記事項:レイくんとハルくんの共闘による、初の神話級合体魔法の観測。
……不備の正体は、王都の残党による『資産泥棒』。
……お母さんとして、そして管理責任者として、改めて宣言するわ。
……私の庭(聖域)の在庫を盗もうとしたこと、死ぬほど後悔させてあげる。
……明日は、ジルヴェールさんとバルトさんに『損害賠償請求(宣戦布告)』の特急便を出しましょうか。』
夕陽が、湖の氷を赤く染める。
レガリア・セナを握りしめるレイの拳には、もはや一寸の震えもなかった。
聖域の逆襲は、今、この白銀の地から静かに、けれど苛烈に始まろうとしていた。




