第32話:聖域の朝食と、お母さんの「定時退社」
王都の石造りの離宮で迎える朝は、どこか冷ややかで、常に誰かの視線を意識させる緊張感があった。
けれど、聖域の拠点で目覚める朝は違う。窓の外から聞こえるのは規則正しい鳥のさえずりと、風に揺れる木の葉の囁き。そして何より、鼻をくすぐるのは、使い込まれた木の壁が放つ温かな匂いだった。
「……ん、……ふあぁ。……よく寝たわ」
セナは、前世の事務職時代には考えられなかった、太陽が十分に昇ってからの「二度寝」を満喫し、ゆっくりと体を起こした。
右側には、布団を蹴っ飛ばして大の字で眠るレイ。左側には、少年の姿のままセナの腕の中に潜り込み、幸せそうに小さな鼻提灯を作っているハル。
「……ふふ。……二人とも、王都では本当によく頑張ったものね。……今日は何の予定もなし。……完璧な休日だわ」
セナは、管理官としての鋭い目つきを今は封印し、慈愛に満ちたお母さんの顔で二人の寝顔を見つめた。
王都で第一王子の不備を片付け、国王から「聖域の完全自治権」という最大の成果報酬をもぎ取った今、セナが最も守るべき在庫は、この「平和」という名の時間だった。
セナは音を立てないようにベッドを抜け出し、キッチンへと向かった。
棚から取り出したのは、王都の市場でジルヴェールから「お詫び」として贈られた、最高級の小麦粉と、熟成されたハチミツの瓶。
「よし、今日は特製のパンケーキを山ほど焼きましょうか」
セナは鼻歌まじりにボウルを回した。
事務職時代の彼女なら、材料の配合比率や焼き時間の最短ルートを計算していただろう。だが今のセナは、ただ「美味しくなれ」という、非論理的で温かな願いだけを込めて生地を練り上げる。
トントン、と野菜を切る音が響き始めると、眠り姫ならぬ「眠り龍」と「小さな騎士」が、匂いに釣られてキッチンへ這い出してきた。
「……ママ。……いい匂い。……お腹、鳴っちゃった」
「……おはよ、ママ。……うわぁ、パンケーキだ! 王都のより美味しそう!」
目をこすりながら椅子によじ登るレイとハル。セナは二人の前に、ほかほかと湯気を立てる黄金色のパンケーキを並べた。
「おはよう、レイくん、ハルくん。……さあ、たっぷり召し上がれ。今日は一日、何もしなくていい日なんだから」
「やったぁ! ……ハル、どっちが大きく食べられるか勝負だぞ!」
「……負けない。……僕、ハチミツ、いっぱいかけるんだ」
賑やかな朝食の風景。そこへ、同じく寝坊を楽しんでいたメルディとロレッタが顔を出した。
「おはようございます、セナ殿。……王都の喧騒を離れ、適正な睡眠時間を確保できたおかげで、思考の明瞭さが過去最高値を記録しております」
「はわわ〜、おはようございますぅ! セナさんのパンケーキの匂いでお腹が空いて起きちゃいましたぁ〜!」
眼鏡を拭きながら冷静に分析するメルディと、既にフォークを構えているロレッタ。
五人で囲む、いつものテーブル。
特別な贅沢は何もない。けれど、こうして気心の知れた家族と、笑いながら朝食を共にする。それこそが、セナが前世で失い、この異世界で最も手に入れたかった「ホワイトな生活」の真髄だった。
朝食後、セナは王都から持ち帰った「花の種」を広げた。
「メルディさん、ロレッタさん。……もしよければ、これを一緒に植えない? ……拠点の周りを、もっと華やかにしたいの」
「……植栽による環境美化ですね。……メンタルケアの観点からも、非常に有効な提案です」
「わぁ、素敵ですぅ! 私、この青い花、王都の公園で見て綺麗だなって思ってたんです〜!」
三人の大人が、庭の隅で土を弄り、小さな種を埋めていく。
セナは「動線」や「効率」を考えず、ただ「ここに咲いたら綺麗ね」という会話を楽しみながら、泥だらけの手で笑い合った。
その傍らでは、レイとハルが、リリと一緒に「王都ごっこ」に興じていた。
「ははーっ! 国王陛下のおなーりー!」
「……レイ。……王様の歩き方、もっと、こう……ふんぞり返るんだよ?」
「きゃはは! ハルくん、それおじいちゃんみたい!」
レイが道端の木の枝を振り回して騎士を演じ、ハルが少し大人びた口調で王宮の様子を再現する。
セナはそれを縁側で眺めながら、マーサが淹れてくれたハーブティーを啜った。
「……セナさん。……本当に、みんな楽しそうね」
「ええ、マーサさん。……王都も刺激的だったけれど、やっぱりここが私たちの『定時』の場所だわ」
マーサと王都の土産話に花を咲かせ、最近の織物の出来栄えを世間話として聞く。
事務的な「進捗会議」ではない。ただの、お母さん同士の穏やかな時間。
午後の陽だまりの中、レイとハルは遊び疲れたのか、屋根の上で丸まっているクラウド・シープの白い毛に顔を埋めて、仲良く昼寝を始めていた。
その穏やかな寝息を聞きながら、セナもまた、うたた寝の誘惑に身を任せる。
夕暮れ時。
空が燃えるようなオレンジ色に染まり、森の境界線から涼やかな風が吹き抜ける。
セナは早めに夕食の支度を終え、家族全員で沈みゆく夕日を眺めた。
「……ねえ、ママ。……僕、ここが大好きだよ」
レイがセナの手を握り、ハルが反対側の袖をぎゅっと掴む。
「……僕も。……ずっと、ここがいい」
「……ええ。……ママもよ、二人とも」
セナは二人の肩を抱き寄せた。
王宮での戦いは、確かにこの場所を守るために必要だった。けれど、その戦いの対価として得たものは、金貨でも名声でもない。
こうして、明日も同じように笑い合えると信じられる「安心」という名の在庫だった。
夜、セナは久しぶりにゆっくりと管理日誌を開いた。
『第三十二案件:完全なる休日の実施。
業務内容:二度寝、パンケーキの配給、花の種の植え付け、および全力の昼寝。
特記事項:不備、トラブル、急ぎの案件……一切なし!
……これこそが、私が一生をかけて管理し、積み上げていきたい『平和』という名の資産ね。
……レイくん、ハルくん。明日は、王都で買った新しい絵本を一緒に読みましょう。
……本日も、定時退社(家族の時間)を完遂。異常なし。』
拠点の灯火が、一つずつ消えていく。
清潔なシーツの香りと、愛する子供たちの寝息。
聖域の夜は、今日もどこまでも優しく、お母さんの心を癒やしていくのだった。




