読心地獄 はとむぎ
使用お題:「地獄」「目薬」「嫌なツンデレ」
人の心が見えるようになるという目薬をもらった。
それはいつも行く眼科の帰り、点眼薬を受け取るために薬局へ入った瞬間のことだ。
「おめでとうございます!」
白衣に眼鏡、ひとつ結びをした女性が一人と、同じく白衣に眼鏡、毛先が肩に届かないほど短いショートヘアの女性が一人。俺の両側に立ち挟み込むようにしながら高らかに告げられた言葉は、紛れもなく俺に向けられた言葉であることが分かる。
「なんですか」
「ただいま、こちらの魔法の目薬をお配りしておりまして。先客一名様用なんですが、なぜか皆様こぞって断られるもので。あなたで十人目なんですよね。で、受取りますか。受取りませんか」
ひとつ結びの女性は赤い液体の入った目薬を、ショートヘアの女性は青い液体の入った目薬を差し出している。とても不気味だ。誰も受け取らないに決まっている。そもそも、先着一名なのに十人目とはこれいかに。
「いや、よく分からないです」
「赤い目薬をさすと、人の心が読めるようになるんです。こう、考えてることがぶわーっと文字に現れます。それはもう、文字通り、読めるようになります」
宙に持ち上げた指で文字を書くようにしながら、ひとつ結びが言う。
「青い目薬をさすと、いつも通りの視界に元通り。きちんと治験も終えて承認された安心安全なお薬です」
ショートヘアが強い口調で拳を握りながら力説してくる。
「……いらない、です」
どう考えたって怪しい。俺が首を横に振ると、二人は縋るように腕を掴んできた。
「お願いします。使わなくても良いんです。受け取るだけでいいんです」
「これを受け取ってもらえないと私達……」
ひとつ結びの言葉にかぶせるようにしたショートヘアの言葉を塞ぐように、白衣を着た体格のいい男がその襟元を強く掴んで引いた。
「料金などは発生しません。当薬局のサービスなので。ほら、焼肉屋で貰うガムみたいに思ってもらえれば良いんですよ」
人の良さそうな笑みを浮かべながら男が言ったが、その言葉には明らかな圧を感じた。
そのような経緯で、いま俺の手元には二つの目薬がある。
よくあるケースに入った液体だ。三人の話を信じているわけではないが、小さい頃から通ってる薬局だし、お客もそこそこ入ってる。変なものは寄越さないだろう。
俺は赤い液体の入った目薬の蓋を開けて、匂いを嗅いでみた。無臭だ。近くで見てみると、青い方よりも少しトロッとしているような気がする。
ええいままよ、と目にさしてみる。液体が目の中で染み渡るように目頭を押さえる。痛みは無い。普段使っているものよりも沁みなくて、寧ろ気持ちいい感じ。
一分ほど経ってから目を開けたが、視界に変化は無い。人の心を読めるようになると言っていたから、駅にでも出てみるか。
自室を出てリビングへ下りると、母さんが週刊誌を読んでいた。体の周りに赤く小さな点が浮かんでいる。虫のようだけど、それにしては同じ場所に居座り続けている。よく目を凝らしてみると、それが文字であることが分かった。
”この俳優が不倫してたなんてね。あのドラマ好きだったのにな”
”あー、今日の夕飯どうしよう”
”昨日は豚肉だったから、今日は魚……”
脈絡の無い言葉が浮かんでは消えていく様子は、まるでゲームの画面みたいだった。
「母さん、ちょっと出かけてくる」
「うわ! びっくりした」
”うわ! びっくりした”
こちらを振り返った母さんが口にした言葉と同じ文字が、頭の上に浮かんでいる。少し面白い。さっきよりも大きくて強調された文字で出ているということは、心の声の強弱に影響されるのだろうか。
「いってきます。……そうだ、今日は塩サバが食べたいな」
「え? あ、うん。分かった。いってらっしゃい」
母さんの不思議そうな表情が少し可笑しかったけど、俺は笑いを堪えながら家を出た。
「佐伯! どこ行くのよ」
駅の方へ向かおうと右に曲がったら、反対側から声を掛けられて慌てて立ち止まる。
振り返った先に立っているのは、クラスメイト兼幼馴染の青木だ。面倒なのに捕まったなぁと思いながら視線を泳がせる。
「ちょっと駅の本屋に行こうと思って」
「……ふうん」
青木は昔は仲が良かったけど、高校に入ってから急に当たりが強くなって、学校では全然話しかけないくせにこうして外で会うと何かと突っかかってくる。
何を言われるのだろうと思って視線を向けると、青木を取り囲むように大量の赤い文字が宙に浮いているのを見て驚いた。思わず声を上げそうになったのを堪えるために口を塞ぐと、青木が訝しげに眉を寄せる。
「なによ」
”本屋か。何を買うんだろう”
”一緒に行きたいって言ったら迷惑だよね”
”あー、今日も格好良いな”
”私服姿なんて見たの、いつ以来だろう”
”コンビニで雑誌立ち読みしてて良かった”
冷たい声とは裏腹に、文字はなんだか丸みを帯びていて、酔ったようにふわふわと楽しげに泳いでいる。
手元を見ると、確かに近くのコンビニの袋を持っている。
「あー、いや。何でもない」
「何でも無いならそんなにジロジロ見ないでよね。本屋に行くんでしょ。早く行きなさいよ」
”絶対何か言おうとしてたのに。言いづらくしちゃったよね”
”もう行っちゃうのかな。もっと話したいのに”
これは何というか……そうだったのか。小さい頃は、確かによく懐いてくれたから好かれているのかと思ってはいたけれど、今もここまで熱烈に想われているとは予想していなかった。つまり、これまで当たりが強かったのは、世に言うツンデレというやつ。漫画で見るのとは違う。漫画は相手の背景が見えるからそれが生かされるのであって、心が読めなければただの嫌なツンデレだ……。というか、そもそもデレが見えないんだから成立しないような気がする。
「また明日な」
俺は青木に手を振ると、足早にその場を去った。
見なかったことにしよう。明日からどうやって顔を合わせればいいか分からない。それも考えないと。これは厄介なことになったぞ。
そんなことを考えながら歩いていると、制服をした女子の三人組とすれ違った。
「あそこのパンケーキめっちゃ美味しいんだって」
「超楽しみなんだけど」
「もうお腹空きすぎて無理、早く行こ」
背中にラケットを背負っているから、部活帰りだろうか。何の気なしに見てみたら、三人の周りにも例によって赤い文字が浮かんでいた。
”パンケーキとかあんまり興味無いんだけど……雑誌に載ってたから話題になるかな”
”はぁ、面倒くさいな。早く帰って寝たいのに”
”本当はパンケーキよりもラーメン食べたいんだけどなぁ”
驚いた。誰一人パンケーキを食べたいと思ってないじゃないか。弾む声はいかにも楽しげなのに、心の中では全然違うことを考えてる。女はみんな女優だって母さんが言ってたけど、本当なんだな。
それからすれ違ったのは、いつもと違う道を通って遠回りをしようとするおばあさんと、そんなおばあさんに連れられながら早く帰りたいと思っている犬、近々プロポーズされると思っている女性と、いつ別れ話を切り出そうか悩んでいる男性……。
いつもはただの通りすがりでしかないのに、心が読めてしまうとなんだか複雑な気持ちになってしまった。その人の事を知らないのに、その人の本心は知っている。なんだか変な感じだ。
駅に着くとそれまでと比にならないくらいたくさんの人が居て、視界いっぱいが赤い文字に埋め尽くされた。発狂しそうだった。音と、文字。文字は色々な形をしていて、大きかったり小さかったり、四角かったり丸かったり。声で聞こえてくるわけじゃないのに、まるでたくさんの人が喋っているのを聞いている感覚に陥る。
赤い色が固まって人の周りに蠢いている様子は、いつか見た地獄の絵によく似ていた。
俺はそれを見ないように下を向いてポケットに手を突っ込み、青色の目薬を取り出した。早く元に戻さないと。こんなものをずっと見ていたら頭がおかしくなりそうだ。
震えて力の入らない手で何とか蓋を開けると、空を見上げて液体を瞳へ落とす。目頭を押さえていると、ひんやりと冷たい感覚が広がるのと共に、ぬるりと温かいものが目の端から流れ落ちてきた。
押さえていた指でそれを拭うと、さっき点した赤い液体が、涙と混ざって溶けていた。