眼 カノコ
使用お題:「目薬」「地獄」
ねえこれ、と彼女が小さな手で差し出したものを、私は恭しく受け取った。鬼灯の実の模様が刻まれた、小さなガラス瓶。私が小瓶の蓋を抜いたのを確認すると、彼女はソファに腰掛けた私の足の間にちょこんと座り、顔を持ち上げた。白く細い首がのけぞり、呼吸のたびに小さく上下している。私は舌の脇から漏れ出た唾液を無理やり飲み込むと、彼女のうさぎのような小さな顔にかかった髪の毛を手で払った。すると、薄く口を開いてくすぐったそうに笑う。
「はやく、して」
少し舌足らずに聞こえる、彼女のあまい声。色素の薄い髪の毛よりもさらに明るい色の丸い瞳の中に、私の渋い顔が映りこんでいる。
「いい加減、自分でさせるようにならなきゃだめだよ」
「いや。こわいもん」
「じゃあ、注さなきゃいいのに」
彼女はふてくされたように唇を尖らせたが、それでも丸い目だけはぶれずに私を見ていた。鬼灯の小瓶の中の液体は、少しばかりの塩を混ぜたただの水だ。薬用成分など何もない。それでも彼女は日に一度、この液体を目に注すことを好む。
私の前に無防備にさらけ出された瞳めがけて、透明な液体を一滴垂らす。雫は彼女の眼球の前の膜に弾けて、露草に溜まる朝露のように、まつ毛の先を伝った。彼女はびっくりしたように目をぎゅっとつぶり、小さな拳を握り込んだ。
「ほら、こすっちゃ駄目。反対の目も出して」
彼女は目をしばたき、大人しく右側の目を開いた。彼女の瞳の色は左右で微妙に違っていて、右の方が左よりも明るい。まるで野を駆ける小さな鹿のように、自由を宿している。私は束の間、彼女の眼球を見つめた。なんて美しいのだろう。小さな宇宙のような、すべての真実を内包した瞳。それ自体が光を放っているかのように眩く輝き、途方もなく魅入られてしまう。閉じられた左目を覆うまつ毛の隙間からこぼれた雫が、彼女の頬に道を作っていた。
この眼球も、白い頬も、赤い唇も、ほしい。眼球、眼球がほしい。取り出して、この手に乗せてみたい。どんな色で輝くのだろう。口にふくんだら、どんな味がするのだろう。首飾りにして、それともダイヤの代わりに指輪にして、彼女に贈りたい。それでも、それを映す瞳が彼女になかったら意味がないか。じゃあ左目を残せばいいだろうか。
「ねえ、まだ?」
彼女の不審げな声に我に返る。気が付くと、今にも彼女の眼球に触れそうな位置に指先を近づけていた。彼女の目の中に、悍ましい私の顔が映っている。私は慌てて身を引き、彼女の右目に塩水を落とした。
「ああごめんね。ちょっとぼーっとしていたから」
彼女は両目を開いたまま、何も言わずに私を見ている。瞳からこぼれた目薬が、まるで泣いているかのように彼女の表情に陰を作る。この身の内に隠した愚かさと残虐さを見抜かれた気がして、私は先ほど彼女の眼球に肉薄した指先を背に隠した。
彼女が目薬をねだってくるのは、決まって私が疲れていたり、落ち込んでいたり、追い詰められているときだ。おそらく、私から放たれる負のオーラを感じて寄り添ってくれるのだろう。彼女は飼い主に忠実な犬のように無邪気で天真爛漫で、こちらの気を知らずマイペースな猫のようにいつもゆらりゆらりと私を惑わす。
彼女の眼球がほしいという感情は、決して彼女に知られてはいけない。それは、憎悪すべき感情だ。軽蔑すべき悪行だ。しかし、この世に存在する言葉では決して言い表せない、彼女の美しい瞳に映し出されると、私はどうしてもそれがほしいと思ってしまう。
そして同時に私は、彼女の眼球に本当にこの指先が触れたとき、私は地獄に落ちるのだと、そのこともよく理解している。
彼女にはじめて出会ったとき、決して彼女に触れようとしない私の手を取って、彼女ははにかんだ。弱いのに振りほどけない力に、私はただ阿呆のように立ち尽くした。
「君のように美しいひとに触れたら、私は地獄に落ちてしまうよ」
「どうして?」
彼女の美しい瞳が、真っ直ぐに私を見ていた。きっとこのひとを傷つけまいと、わたしはそう誓った。それは、どんな法よりも遵守すべき、わたしが彼女に誓った忠誠だった。
ねえこれ、と彼女がいつもの小瓶を差し出したとき、私は最低の気分だった。信じていた者に裏切られて、手痛い損失を出したばかりだった。私はいつも、人に裏切られる。
「ごめん、今はちょっと駄目なんだ」
「いや。今じゃなきゃ」
今、彼女の瞳を前にしたらまずいと、私は本能的に悟っていた。だからその後も固辞し続けたが、彼女は驚くほどの頑固さで私に鬼灯の小瓶を押し付け続けた。根負けした私は渋々その小瓶を受け取った。とにかく、彼女の目に囚われる前にサッと目薬を注してしまおうと思った。
彼女の小さな顔に触れないよう、目薬の蓋を抜く。彼女はわたしの足の間に収まったまま、白い顔を小さく傾げた。
「ねえ、どうしてがまんするの?」
「我慢って、なんのこと?」
彼女の平坦な声に少し怯えながら、私は小瓶の蓋を抜いた。彼女は目を細めて、私の手元を睨みつけている。どうやら機嫌が良くないようだ。わたしは彼女の柔らかな髪の毛を片手で梳いた。
「わたしが、許す、と言ったら?」
彼女の言葉に、私は虚を突かれて手を止めた。唇が細かく震えているのが自分でもわかった。そして、わたしの邪な欲望が、彼女に悟られていることを理解した。わたしは息苦しさに何度も息を吸いながら「地獄に落ちると思うんだ」と絞り出した。彼女を傷つけてはいけない。世界でいちばん美しいその瞳は、わたしが立ち入ってはいけない領域だ。
「それっていけないの? 地獄に落ちちゃ、いけないの?」
私が何も答えられずにいると、彼女は私の右手を意外な力強さで引いて、わたしの耳元に息を吐いた。
「あなたは、わたしに触れたら地獄に落ちると言ったでしょう。そうしたらきっと、もう手遅れなんだよ」
彼女に絡め取られた右手が、足掻くように空を切る。小瓶を手の中を滑って、硬い床に打ち付けられた音がした。脆いガラス瓶は、きっと粉々になったことだろう。私の指先は、彼女の瞳へと導かれていく。彼女の眼球は、からかうような愉悦の色を湛えて、私の顔を見ている。彼女のまつ毛がわたしの爪をくすぐる。私の指先が、ぬるりとしたものに触れて、彼女がこの世ならざる者のような笑い声をあげた。ずっと待ってたんだよ。彼女が悲鳴のようにそう言う。そして私は、地獄の意味を知った。




