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「ヤヌチニに【蕾】の風習なんてないよ」
青空に白煙が上がる。今日の野外公演は、確かココが観たかった喜劇だったはずだ。鼓笛隊の楽しそうな音楽が恨めしくて空を見上げていたら、突然そんなことを主人が言い出したものだからココは仰天した。
「え、ええっ?」
「だってこの僕が知らないんだからね。そう考えるのが自然だろう? そもそも【祈花】の魔法は血に関係してるから、余所者が扱えるようなものじゃないんだよ。あの石の役目は多分、守りのまじないか何かじゃないかな。そして、きっと、それがきちんと発動するような手順を教えたんだと思う。あの依頼人、プライドが高そうな性格だったから。そうでも言わなきゃ受け取るはずがないと思ったんだろうね。そのヤヌチニは、自分が【祈花】を捧げられないことよりも依頼人のことが心配だったんだよ。とんだお人好しだね。まあ、相手が魔力なしっていうのは誤算だったと思うけど」
「何であの時それを言わなかったんですか!?」
「真実というのは、それを正しく扱う権利がある者だけが他人に語れるんだよ。それに、僕が知らないだけで、本当にあれは【蕾】で、【祈花】が捧げられるのをずっと待っていたのかも知れないし」
「だ、だとしたら、その人は誰からも【祈花】をもらえなくて、ずっと、霧の国で……」
「必要なのは、形じゃなくて想いだよ。【祈花】は祈りの形の一つに過ぎない。確かに、自分が死んだ後に祈ってくれる人が誰もいなければ、『最期の一人』になることを恐れただろうけれど。彼には、依頼人がいたからね。彼のために祈ってくれる人が」
「……祈ったんでしょうか、あの人は。なんだか、意地でもそういうことしなさそうでしたけど」
何せあの性格だ。だいたい、そのヤヌチニの男にそこまで思い入れがあったのかも怪しい。単に貸し借りを帳消しにしたかっただけでは、という気さえしてくる。
「本当にバカだねえ、ココは」
主人はまた例の微笑を浮かべていた。
「何のための花祭りだと思っているんだい?」
「へ?」
金儲けのためではないのだろうか。本人もそう言っていた。疑問が顔に出ていたのだろう。わざとらしいため息まで頂戴してしまった。
「さて、ココ。いったいこれは何でしょう」
主人がどこからともなく取り出してひらひらと振って見せたのは、一輪の白い花だった。
「花、ですよね。どうしたんですか?」
「今朝行ったら、あの祭壇に置いてあったんだ。綺麗でしょう?」
ココはあんぐりと口を開けた。
「なにやってるんですか!」
「なにって、報酬?」
「報酬はもう貰ったでしょう!」
「僕が貰うのはいつだって『依頼人の想いが一番込められたもの』だよ」
「坊ちゃま、それは詐欺師の常套句です」
「人聞きが悪いことを言わないでおくれ。報酬がひとつだなんて誰も言っていない」
「ええ、ええ。そうでしょうとも。詐欺師はみんなそう言うんです……!」
ぶつくさ言いながら頭を抱えれば、主人は真剣な眼差しでココを見てきた。
「だって知りたいんだ。僕は知りたいんだよ、ココ。とっても貪欲なんだ。この世界の、何もかもが知りたい」
―――あまり知られていないが、シャンティティエル・シュツルーテルが希代の魔法使いだと言われるのには理由がある。
それは、魔法以外のものも【ほどく】ことができるということだ。
彼は、物に込められた想いや記憶を【ほどい】て読み取ることができる。これは他人の魔法を【ほどく】ことのできる、いわゆる【匪の魔力】を持つ人間に多くみられる特徴のひとつで、かの英雄タタナ・パパサにもこの能力があったと言われている。
「ココも知りたいだろう?」
滅多に見ることができない、子供のような無邪気な笑顔。ココは、昔から、彼のその笑顔に滅法弱かった。だから観念して、主人の手にある花にそうっと触れる。彼の編んだ魔法によって、ココもその花に込められた記憶を共有することができるから。
―――遠くで、劇の開幕を告げる大砲が放たれ、空一面に紙吹雪が降り注いだ。ひらひらと町中に色が散る。まるで花びらのようだ、とココは思った。そして、ああ、とため息を漏らす。
それは、確かに彼の人に捧げられた祈りの花であったのだ。
「目ぇ覚めたか、坊主」
ぼろぼろになった少年が薄目を開ける。途端、光が瞼を突き刺し、少年は思い切り眉を寄せた。男が立っているのはわかったが、生憎と光の影になっていて、顔はよくわからなかった。少年は自分が介抱されていることに気がつくと、驚いたように呟いた。「なん、で」
「そりゃ、おめーみたいなガキに死なれちゃ後味が悪ぃだろが。俺みたいな男前が壁の向こうにいてよかったなあ。ほら、手を貸してやる。立てるか、坊主」
力強いに手に引かれて、立ち上がる。香ばしい匂いに惹かれてきょろきょろと首を動かしていると、囲炉裏に小魚が焼かれているのを見つけた。狙いすましたかのように、ぐーっと腹が鳴る。ここ数日、食事はおろか水すらもまともに摂っていなかったことを思い出した。
「何だお前、腹減ってんのか。食うか?」
こくこくと頷くと、わき目も振らずかぶりついた。味なんてわからない。ろくに噛みもしないで呑み込むと気道に入ってしまい、慌てて胸を叩く。
ぶっと噴き出す声が聞こえて、気づいたらわしゃわしゃと頭を掻き回されていた。殴られる以外に人から触れられたのはそれが初めてで、少年は思わずまじまじと相手を見上げた。
「なんだ、その顔。別に取って食いやしねえよ。お前みてぇな骨と皮なんて」
「……ボウズ、じゃない」
男がまた声を立てて笑った。
「そりゃあ悪かった。で、坊主、名前は?」
少年がぼそぼそと何かを呟く。男はへえ、と顔を綻ばせた。
「いい名前じゃねえか」
「……あんた、は」
「俺か? 俺は―――」
ふいに男がしゃがみ込んで、少年と目線を合わせた。柔らかく細められた瞳の中に、戸惑った表情の自分が映っている。少年はじっと男を見た。日に焼けた肌に、大きな口。日だまりの中で、男はにかっと歯を見せた。
「カムリだ」