第六話 二つの旅
「行ってしまったぞ。」
サティロスがぽつりとつぶやく。
「行ってしまいましたのう。」
ナイアスも、どこか寂しそうに目を細めた。
「行ってしまいました。」
オレイアスは、娘が風に溶けていった空を見つめたまま、小さく息を吐く。
しばらく誰も口を開かなかった。
神殿跡には、風の音だけが残った。
やがて、サティロスが思い出したように口を開く。
「それにしても、ずいぶんたくさんの見送りが来ておったぞ。」
「あれほど集まるのは珍しいことですのう。」
ナイアスが感心したように言う。
「昨日もそうでした。」
オレイアスは草原を思い返す。
「花たちだけではありません。」
「虫も、小鳥たちも、動物たちも。」
「皆、とても嬉しそうに歌い、踊っていました。」
エウロスは静かに空を見上げた。
「ミレイさんには、命あるものを引きつける何かがあるのかもしれませんね。」
その言葉に、三人はそれぞれ思うところがあるように黙り込んだ。
「ところで、あの娘、金は持っておるのか。」
一瞬、誰も言葉を発しなかった。
「そういえば、食料は……」
三人の視線が、ゆっくりとエウロスへ集まる。
「エウロス様。」
エウロスは、ごく自然に答えた。
「知りません。」
三人は顔を見合わせる。
サティロスが口を開く。
「ということは……。」
ナイアスが額を押さえた。
「ということですのう。」
オレイアスが思わず立ち上がる。
「ということで済まされることではありません!」
「食べるものもなければ、お金もないぞ。」
「旅が始まる前に終わってしまいますのう。」
「ないないづくしです。ああ、ミレイ様……」
「いや、待てよ、フローラがついておるぞ。」
「おお、そうでしたのう。」
サティロスとナイアスの顔がぱっと明るくなった。
エウロスは静かに首を横へ振った。
「フローラは何もしません。」
「私が命じてミレイさんについて行かせました。ですが、その意味はフローラも理解しているはずです。」
「そうですね、オレイアス。」
オレイアスは静かに頭を下げた。
「はい、エウロス様。」
サティロスとナイアスは、不思議そうに顔を見合わせる。
「なんぞ、それは。」
「何ですかのう。」
オレイアスは二人へ向き直る。
その表情は母親のものではなく、一族を率いる長のものだった。
「皆さんもご存じのように、フローラは、私の娘であると同時に、次代の草原の民の長でもあるのです。」
「しかし、今のままでは、任せられません。」
サティロスが目を細めた。
「優しすぎる、ということか。」
「はい。上に立つ者は、時として自らの心を押し殺さなければなりません。それが、どれほどつらいことであっても。」
神殿跡に、静かな風が吹き抜けた。
エウロスがオレイアスの言葉を引き継ぐ。
「そのことについて、かねてオレイアスから相談を受けておりました。そこで、今回ミレイさんの動向を探るよう命じました。」
オレイアスは遠く、ミレイが旅立った空を見つめながら続けた。
「これからミレイ様は、幾度も危険な目に遭われるでしょう。」
「そのとき……」
オレイアスは静かに目を閉じた。
「フローラが、長として己を律することができるのか。」
「御子を助けたいという気持ちよりも、この世界の法を守ることを選べるのか。」
「それが試されるのです。」
エウロスが二人の旅立った彼方を見る。
「御子に関わってはならない。それは、この世界の安定のため、我が主が定めた法です。」
「ミレイさんにとっては宿命の旅。」
エウロスは一度言葉を切った。
「そして、フローラにとっても、また試練の旅なのです。」
四人は、誰一人として口を開かなかった。
春の風だけが、静かに神殿跡を吹き抜けていった。
颯々の神殿、その最上階にある天上の間。
白銀の柱が幾重にも並ぶ広間は、どこまでも静かだった。
高い天井から差し込む柔らかな光が、磨き上げられた床へ淡く映り込み、空気そのものまで張り詰めているように感じられる。
その中央、玉座には颯々の民の主アイオロスが腰を下ろしていた。
傍らには、エウロスが静かに控えている。
しばらく二人は何も語らず、同じ方向を見つめていた。
やがてアイオロスが、ゆっくりと口を開く。
「エウロス、あの御子、どう思う。」
「どう思うとは?」
問い返すエウロスに、アイオロスは少し視線を落とした。
「ユライア様は、ご降臨されたときから卓越した力をお持ちだった。」
「しかし、あの御子は、特に何の能力も持ち合わせておらぬ。」
「その上、あのひ弱な体。」
「はい。私も同じように感じております。」
一瞬、広間に沈黙が流れた。
「ただ。」
エウロスが続ける。
「創生の里の聖なる地へ降り立てるのは御子のみ、と古の書には記されております。」
「だからこそ。」
アイオロスはゆっくりと肘掛けへ手を置いた。
「わしも決めかねておるのだ。」
その表情には、迷いが浮かんでいた。
アイオロスは肘掛けに置いた指を、ゆっくりと動かした。
「それに。」
思い出したように言葉を継ぐ。
「あの供の生き物。」
「わしは知らぬ。」
エウロスは思わず顔を上げた。
「アイオロス様がですか。」
創生の里に生きるあらゆる命を知るアイオロスが、知らない。
「エウロス。」
「はい。」
「あの御子。」
アイオロスは静かな口調のまま続ける。
「ドラゴーラを見たことがあるようだったぞ。」
エウロスの表情がわずかに変わる。
「はい。」
「私も、それが一番気がかりです。」
ドラゴーラ。
古の忌まわしきもの。
人が足を踏み入れることさえできない魔境の奥深くに棲む恐獣。
記憶を失っているはずの少女が、その姿を自然に思い浮かべた。
それは偶然なのか。
それとも――。
アイオロスもエウロスも、その答えを持ってはいなかった。
静かな風が、天上の間を通り抜ける。
アイオロスは遠くを見つめたまま、小さくつぶやいた。
「フローラが、どのような報告をよこすか……」
第二章 創生の里 終わり
第三章 フルルカンパニーに続く
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三章は一章の続きになります。でも、お話の内容はかなり変わっていきます。主要人物が何人も登場します。




