一話 帰郷
黒桐涼香は、バスの車内アナウンスで目を覚ました。
「次は、桐ヶ沼です」
降りる予定のバス停だ。涼香は慌てて、ボタンを押して手荷物を抱えなおした。
涼香以外に客はいない。これが、今日最後のバスだからだろう。
「涼香ちゃん、忘れもんしないようになぁ」
運転士の初老の男性、川原さんがマイクを通さずに声をかけてくれる。
彼は、涼香が小さな頃からこのバスを運転しているベテランだ。
「ありがとう、川原さん」
キャリーケースと大きめのトートバックを持って、涼香はバスを降りた。
途端、風が吹いて木々がざあざあ揺れる。昔は、この葉がこすれあう音を怖がっていた時もあった。
「こっちは風が強いなぁ」
乱れた髪を直しながらバスが出発するのを見送っていると、背後から駆けてくる足音がした。たぶん、母親の言っていた迎えだろう。
「おーい」
「怜司お兄ちゃん!?」
淡いオレンジの街灯に照らされたのは、頭二つ分大きい親戚のお兄さんだった。
癖のある黒い髪に、夕日の目。がっしりした体つきで、見下ろされると少し怖い。
涼香にとっては初恋のお兄さんだ。
「おかえり、涼香ちゃん。久しぶりだな」
「ただいま。怜司お兄ちゃ……怜司さんも元気にしてた?」
「俺はほら、元気で頑丈なのが取り柄だから」
爽やかに笑って、私から荷物を奪うとすぐに歩き出す。
「全部持たなくていいのに」
「いいからいいから、長距離の移動は疲れたろ? 遠慮しないでお兄ちゃんに甘えとけ」
遠い親戚の黒桐怜司。本当の兄妹のように過ごしてきたせいか、大きくなっても涼香を甘やかしたいらしい。
——小さな子供みたいな扱いを大学生になった今でもしてくるとなると、これっぽっちも脈がない。よくて妹。悪くて手のかかる猫。初恋はやっぱり実らないまま終わるのかもしれない。と、内心半ば諦めた初恋が痛んで今更蘇ってくる。
家を出て一年で心の整理はついたと思ったのに。
「もうっ、私立派な大人なんだから、そうやって甘やかすのやめてよ」
「ははは、大人は自分のこと立派な大人って言わないんだぞ」
「屁理屈ぅ」
「いいんだよ、涼香ちゃんはそのままで。俺が悪い大人に騙されないように見ててあげるからさ」
こうやって言われる度に傷ついてるのを知らないくせに。
怜司の顔を見ると、ついツンとした物言いになってしまう。
昔みたいに素直に好きと言って甘えられたら良かったのに。
今は怜司から一定の距離をとられていて、私たちは昔よりもなんだかぎこちないあいまいな関係になってしまった。
私が、思春期くらいからだんだん妹扱いが加速してきているのは気のせいじゃないと思うんだけど。
「それより怜司さんなんて他人行儀に呼ばれるとお兄ちゃん寂しいんだけど」
眉を下げて「とても悲しいです」とわざとらしく表情をつくる姿に相変わらずだなとため息をついた。
怜司はいつもそうだ。本人は場を和ませたりはぐらかしたりそういう時にわざとそういうフリをする。それを指摘してものらりくらりとかわされるから、今はあんまり真に受けないことにしている。
「はいはい、寂しくなんて無いくせにまたそういうこと言うんだから」
「あはは、バレたか。いやぁ、涼香ちゃんも成長したね」
自宅に続く坂道を上る。
いつからだろう。穏やかに笑う怜司が心の底から笑っていない表面だけを取り繕うことに気が付いたのは。いつものフリも、そうだ。
彼はどこか、人間の上辺をなぞっているだけのような気がしていた。
楽しそうなのに悲しそうで、人に囲まれているのに寂しそうな、そう感じているのだってもしかしたら彼の計算のうちなのかもしれないけど。
「さ、陽が沈む前に急ごう」
歩調を早めたその背中を一呼吸だけ眺めて、坂道を上る。
ひぐらしの声と、生ぬるい夏の風が足にからみつくような錯覚を覚えて、涼香は彼の横を駆け足で追い抜いた。




