10 我慢
「奥様!こんな時間までどちらへ行かれていたんですか!?旦那様が知ったら何て言うか……」
「……」
その後、フルールは失意のまま伯爵邸へと戻った。
侍女長の叱責が聞こえたが、心ここにあらずだった彼女の頭には何も入ってこなかった。
ついさっきルースから言われた言葉が、永遠に彼女の頭から離れなかった。
「奥様が帰ってきたわ」
「こんな時間まで外で遊んでいたのね」
「いっそこのまま帰ってこなければよかったものを……」
いつもの軽蔑の言葉なんて耳にも入ってこない。
彼女の頭には、最愛の夫ルースからの最後の一言が永遠に流れ続けていた。
『彼女の代わりはいないが……妻の代わりはいくらでもいる』
あのあと、彼は真っ暗な夜にフルールを一人置き去りにした。
若い女性が深夜一人で歩くのが危険極まりないということを知らないはずがない。
彼女には護衛もついていなかったから、結局フルールは一人でここまで帰ってくる羽目となった。
運良く何もなかったからいいものの、夜の王都は治安が悪い。
暴漢に襲われでもしたら、彼女一人では太刀打ちできなかっただろう。
(何もなくてよかった……のかな……)
いや、いっそ何かあったら彼は私を心配してくれただろうか。
いくら彼が私をお飾りの妻として扱っていても、死んだときくらいは悲しんでくれるのではないだろうか。
そうは思うものの、断定はできなかった。
(旦那様はずっとアリアさんを愛していたのね……だから私と結婚しても週の半分は彼女の元へ帰っていたんだわ)
ルースにとってアリアの代わりになる女性はいない。
彼女は仕事においても、プライベートにおいても彼にとって必要な女性だった。
ただのお飾りの妻に過ぎない自分とは違って。
(そうよ、仕方が無いわ……私は旦那様の仕事に必要不可欠な存在というわけでもないもの……)
すべて、自分が我慢すればいいだけの話だ。
***
数日後の夜、ルースが本邸へ帰宅した。
フルールはいつもと変わらない様子で彼を出迎えた。
「お帰りなさいませ、旦那様」
「ただいま、フルール」
あの日の出来事なんて最初から無かったかのように、彼らの関係は戻った。
いつものように笑顔を向けるフルールに、ルースは安心したように笑った。
やっぱり、何も言わなければ旦那様は私に優しくしてくれる。
あの日は私があまりにも我儘を言いすぎたせいで、旦那様が呆れてしまったのだ。
「旦那様、今日はお早いですね」
「ああ、君のことが心配で……今日は早く帰ってきたんだ」
「私のことが……ですか……?」
フルールは驚いた。
あの日彼は私を置き去りにしたけれど、本当は気にかけてくれていたのか。
フルールの胸がじんわりと温かくなった。
「あの、旦那様……」
「何だ?」
「よろしければ、私にも旦那様のお仕事を手伝わせていただきたいのですが……」
ルースは驚いたように目を見開いた。
彼女はアリアと同じくらいルースに必要とされる存在でありたかった。
そのためには、彼の仕事で役に立つしか方法は無かった。
しかし、彼から返ってきた返事は予想外のものだった。
「そうだな……いや、君はいいよ」
「……ど、どういうことですか?」
「君は仕事なんてしなくていい、家で伯爵夫人として妻の役割をしていればいいさ」
「だ、旦那様……どうして……!」
彼にとって必要な存在になりたかったのに。
私には機会すら与えてもらえないのか。
俯いたフルールに、ルースがそっと手を伸ばした。
「妻としての役割だけでは不満か?」
「旦那様……」
唇が触れそうなほどの距離で、ルースが囁いた。
そして今日も、フルールは彼に誘われるがまま、身体を重ねた。




