召喚
わき腹に激しい痛みを感じて、セルブラントが驚愕に目を見開きながら後ろを振り返ろうとする。だが、がっしりした腕に首をしっかりと押さえ込まれていて、動くことができない。
「ニコーレ!」
ラヴィーニアの歓喜の声があたりにこだました。
「よう! 待たせたな」
セルブラントのわき腹を鋭い短剣でえぐりながら、ニコーレが頬に凄味のある笑みを浮かべて見せた。
「ニコーレ! 無事でよかった!」
今にも駆け寄らんとするラヴィーニアとグロリアの嬉しげな声に、
「まだ傍に寄るな!」
ニコーレが牽制する。
「・・・・・・き、貴様っ! 死んでなかったのかっ?!」
ぐるっとえぐるように廻して差し込んだぎざぎざの刃を持つ大きな短剣を、より深く内側を傷けるように思い切りよく引き抜きながら、ニコーレは低く笑い声をあげた。
「あいにくだったな、セル」
「・・・・・・何故だ?! あの時・・・・・・確かに斬ったはずだ。何故、生きている・・・・・・?」
痛みのためか、セルブラントの声はかすれている。ふん、とニコーレは鼻で笑った。
「お前の剣は、確かに俺の胸を切り裂いたさ。だが、急いでいたお前は、とどめを刺さなかった。あの一太刀は俺の急所の代わりに、懐に入れてあった黒い本を切り裂いてくれたぜ。あの時、妙な手ごたえだと思わなかったお前の負けさ」
セルブラントが悔しげに唇を噛んだ。
アニスの託宣はこういう意味だったのか、と朧に霞みかけた意識を引き戻そうとしながら、マリオンはぼんやりと考えた。
アニスは確かに、黒い本は別の意味でその役目を果たしたと言っていた。それは凶刃からニコーレを護り、生かす役目を果たした、ということになる。その本の書き手がセルブラントであることを考えると、たいそう皮肉なことではあった。
セルブラントはニコーレの腕の中に押さえ込まれたまま、呻き声をあげ続けている。ニコーレは涼しい顔で、いったん抜いた短剣を今度は彼の胸に深く突き入れた。再び、セルブラントの呻き声があがり、彼の唇の端からつうっと一筋血が滴った。
「そうだ、来る途中で拾っといたぜ。ついでにお前に、これを返すよ」
何かを思い出したようにニコーレは、すばやい動作で短剣を引き抜き、倒れかかるセルブラントへのしかかると、懐に隠し持っていたあのマリオンが投げ捨てたはずの銀色の魔法封じの眼帯を、彼の顔に押し付けた。銀の魔法封じは、かっと一瞬だけ白い光を放ち、セルブラントの顔へ固定された。顔を押さえて転げ廻るセルブラントの恐ろしい絶叫が、あたりに響き渡った。彼が転げ回るたびに、そのわき腹と胸からどす黒い血が大量に噴き出しているのが、目に見えてわかる。
「どうやら、この魔法封じ、まだちゃんと使えるようだな。たいしたもんだぜ」
小馬鹿にしたような視線を投げるニコーレを、セルブラントが床の上から暗い瞳で睨みつけた。ごぼりと音を立てて、彼の口から血と共に言葉が吐き出された。
「・・・・・・貴様! 今に後悔するぞ」
「魔法が使えなくなったお前に、これ以上何ができるんだよ。魔法が使えなきゃ、武器も出せないぜ?」
ふんと、口の端に皮肉な笑みを浮かべ、ニコーレがまだちゃんと起き上がれずにいるマリオンのほうを向いた。
「相変わらず、口ほどにもねぇ。役立たずなお姫様だな、お前」
片方の膝をついたまま、左肩を押さえていたマリオンが、口の中で何ごとかをつぶやく。
「なんだよ? 聞こえねーぜ?」
すかさず神殿の階段を駆け降りてきたラヴィーニアが、マリオンの口元に耳を近づけた。
「セルブラントにとどめをさせ、でなければすぐ回復する、と言ってるわ」
ラヴィーニアが伝えたマリオンの言葉に、ニコーレは眉を上げた。
「お前なんぞに言われなくてもさすさ、ちゃんとな」
ニコーレの言葉が終わるか終わらないうちに、いきなり激しい勢いでセルブラントが身体を起こし、数ヤード先へ向かって駆け出した。
「んのやろう! 逃がすかっ!」
ニコーレがすかさず後を追おうとするが、その背中に向かってマリオンがかすれた声で叫んだ。
「その先には奴の剣が・・・・・・剣が落ちてるんだ・・・・・・」
「なにっ?!」
セルブラントに追いすがろうとしたニコーレは、その言葉を聞いてとっさに足を止めた。身をかがめすばやい動作で、自分が落とした剣を拾ったセルブラントが、振り向きざまにそれを振り回す。危ういところでニコーレは、後ろへ二歩分ほど飛び退り、その刃をよけた。
「まだやろうってのか。いいぜ、セル。相手になってやろうじゃないか」
セルブラントは剣を正眼に構え、血にまみれた口元にうっすらと笑みを浮かべた。まだ、胸とわき腹、そして口元からは血が滴り落ちているが、その足元は意外としっかりしているように見えた。
「お前じゃ、ない。俺が殺したいのは、マリオン、だ」
「マリオン? ・・・・・・アルヴィンのことか」
ニコーレが眉を上げた。
「けっ! お前が殺したいのは、奴だとしても、お前を殺したいのは、奴だけじゃないぜ」
「やめろ、ニコーレ」
後ろから、マリオンの声がかかった。ニコーレがセルブラントを押さえ込んでいる隙に、わずかながら癒しの魔法をほどこし、血止めをほどこしていた。黒い魔法による黒い傷は、それくらいのことで癒えたりはしないが、少なくとも肩から新たな血は、流れていない。だが、その足元はセルブラントよりもおぼつかず、顔色も唇も白くなっていた。思ったよりも大きな痛手を被っているのだ。
「そいつの相手は、僕がする」
「馬鹿言え。お前、ぼろぼろだろうが」
「その魔法封じが本当に効いているのかどうか、本人にしかわからない。今の僕では、彼の魔法の気配が消えていないことしか、わからないんだ」
「消えていない? まだ使えるってのか、お前みたいに」
ニコーレはセルブラントから視線をはずさずに、短剣を構えたままマリオンに向かって言った。マリオンは、眉間にしわを寄せて、少し考え込んだ。
「・・・・・・わからない」
「・・・・・・退け! ニコーレ」
セルブラントが正眼の構えを崩さずに、食いしばった歯の間からかすれた声で絞り出すように言うと、マリオンがニコーレを脇へ押し出すように前へ出た。マリオンが右手をあげて振ると、しゅっと擦過音を立てて手の中に白い剣が一振り、出現した。
「僕が倒れたら、あとは君しかいない。もしも、のことがあったら、みんなを連れてとりあえず、カデカミナ山脈から離れろ。ダゴスも危ないかもしれない」
ちらっとニコーレが、マリオンの白い顔に目をやった。
「・・・・・・」
「大丈夫、こいつだけは逃がさない。たとえ、相討ちになっても」
「二対一のほうがいいんじゃねぇのか? どう考えても、こいつは化け物だぜ?」
ニコーレの言葉に、マリオンの口元に小さな笑みが浮かんだ。
「・・・・・・セルブラントが化け物なら、僕もそうさ。行けよ、ニコーレ」
ニコーレの目が細められた。だが、彼はそれ以上何も言わず、大人しく後ろへ下がり、不安そうにマリオンの背中を見つめ立ち尽くしていたラヴィーニアを促して、神殿の階段を登った。
「待たせたな、セルブラント」
少し前まではマリオンのものであった銀色の魔法封じの眼帯を、冷たく煌かせ、セルブラントがうなずいた。見えている右目は、血のように赤い。
「来い! マリオン」
再び広間の真ん中で、白い影と黒い影がぶつかり合った。ぎぃんという高い金属音が鳴り、火花が四方へ飛び散った。剣を組み合わせたまま、しばらく二人の影は動かない。間近で睨みあい、固く歯を食いしばりながら両者とも剣で相手を押し切ろうとしているが、ほとんど拮抗している力が、両者をその場にくぎ付けにしていた。
二人ともすでに全身血まみれで、同じような作りの白い顔には、共に闘気と疲弊の色が入り混じって濃く浮かんでいる。だが、そこで瞳の中に仄見えているものは、確かに違っていた。赤い瞳の中に蠢いているものは憎しみで、緑の瞳の中に現れているものは、固い決意といえそうなものだった。
「相討ちでいいのか? マリオン。お前が死んだら、ここはどうなるのかわからないぜ?」
一気に剣を引き、同時に後ろへ何歩か跳び退り、対峙し直して息を整えながら、セルブラントがかすれた声でそう言った。
「その時は、その時。自分が死んだ後のことまで、考えている余裕なんて、ない」
同じように息を整えながら、あっさりとマリオンが答えると、セルブラントが、少し呆れたように笑った。
「お前って、意外と・・・・・・」
思わせぶりにそこで言葉を止めたセルブラントに、マリオンが口の端に複雑な笑みを浮かべた。
「どうせ、大雑把にできてると言いたいんだろ? 細かいことをぐだぐだ考えているのが」
そこで息を深く吸う。
「嫌いなんだよっ!」
台詞の最後と共にふいにマリオンの剣が消え、代わりに手の中から蒼い光の矢がセルブラントめがけて放たれた。
「そもそも、相討ちにならなきゃ問題はないさ!」
セルブラントが舌打ちしながら、横へ飛んでその矢をよける。すかさず追い討ちをかけるように無数の細い針のような矢の雨が、その身体を襲った。左右に飛んでその矢の襲来を避けるセルブラントの黒いマントが、矢によって床に縫いとめられるが、間髪いれず剣によって斬り払われる。
だが、その矢に気を取られているうちに、さらにマリオンの魔法によって作り出された巨大な蒼い竜が、大きな口をあけ一気にセルブラントを飲み込んだ。半透明の竜の中にまるで包み込まれたような形で、セルブラントがもがいているのが見える。力尽き、がくりと膝をついたマリオンに、セルブラントの目が今まで以上に赤く輝くのが見えた。
「やはり、魔法封じが効いていない」
マリオンのつぶやきと共に、セルブラントが黒く輝く剣で竜を内側から切り裂くのが見えた。やがて水で作られた魔竜は、セルブラントの剣で霧散した。ざぁっと激しい音を立てて、あたり一面に雨のように水が降りかかる。全身から水を滴らせて出てくるなり、セルブラントは荒い息をつきながらそれでも低い声で笑って見せた。
「よくわかったぜ。こんな生半可な魔法封じでは俺の力、いや俺たちのような半妖魔には、太刀打ちできないとな。俺もお前も、身内に飼っている妖魔の力は、半端じゃない。つまり、俺もお前も、魔族同様の化け物だってことだ。認めろ! マリオン」
もう一度、セルブラントは今度は勝ち誇ったように高らかに笑った。
「お前も俺も人間じゃない! 化け物だってな」
「だが、その君でも、そいつをはずすことまではできないようだな」
床の上に片膝を立てた姿勢のまま、疲れきったようにうなだれていたマリオンの静かな声に、セルブラントがぎくりと身を引いた。マリオンは、ゆっくりと伏せていた目を上げた。
「どんなに魔法が使えると言い張ってみても、半分は人間さ。その魔法封じが完璧にはずせるなら、今、僕の目の前で、はずして見せろよ」
くくくっ、とセルブラントが含み笑いをした。
「なるほど、経験済みというわけか? だがな、マリオン」
セルブラントの握り締めていた剣が、再び黒く輝きはじめた。
「お前より俺のほうが、妖魔の血が濃いんだぜ」
言葉と共にセルブラントが、その剣を座っていたマリオンに向かって勢いよく振り下ろした。
きぃんと澄んだ高い音を立てて、その剣を弾いたのは、しかしマリオンではない。長く凶悪な刃を持つ短剣で黒い剣を音高く弾き、セルブラントを二歩ほど後ろへ引かせたのは、ニコーレだった。
「そいつのせいで左側は死角になってるみたいだな」
マリオンの前にかばうように立ちはだかり、短剣を構えたままニコーレはにやりと笑った。ちっ、と黒い魔術師が舌打ちをした。確かに魔法封じのおかげで、左目が使えない。それをニコーレは計算の上で、左側から飛び出してきたのだ。
「邪魔な奴。おとなしくあの時、俺に殺されていればよかったものを」
ふん、と鼻で笑いながらニコーレは、ベルトの後ろに差し込んであったもう一本の短剣を、後ろも見ずに鞘ごとマリオンに向かって投げた。
「使え!」
落とさないようかろうじて片手でそれを受け取ると、マリオンは目を見張った。それはここへ連れてこられた時に取り上げられた、長年自分が持っていた手になじんだ短剣だった。
「持ってきてやったぞ、ありがたく思え」
「・・・・・・ありがとう」
ニコーレの背中に向かって、一瞬だけ小さな微笑を浮かべたマリオンは短く礼を言い、ふらつきながらも立ち上がった。
まだ、戦える。彼らを護るためになら、何があっても立ち上がれる。そのために、僕は魔法が使える。そのためにだけ、僕はここにいる。
「まだ、立ち上がれるか。魔法もまだ使えるんだろうな」
口調のどこかに、かすかに歓喜とも呼べそうなものをにじませて、セルブラントが舌なめずりした。
「お前は僕が反撃するたびに、喜んでいるように思えるな。いったいなぜだ?」
その口調に気づいたマリオンが不快そうに眉間に皺を寄せ、袖口で口元の血を拭いながら吐き捨てるように言った。同じように眉間に皺を寄せて、わき腹を押さえながらもセルブラントがくくくっと含み笑いをした。さっきまでわき腹と胸から滴り落ちていた血も、すでに止まったようだ。やはり、彼は回復が早い。
「お前が死んだら、それでもいい。お前は俺が思っていたよりずっと弱かったってことだ。そんな奴など喰らう価値もない。あるいは、お前が俺より強くて、俺が殺されるのなら、それもいい。本望と言うものさ。うまくいってそんなお前を俺が喰らうことができるのなら、それはもっと幸運なことだ。俺には、力と名前が手に入る。そして、お前が竜をうまく目覚めさせ、なおかつ自分の力も復活させることができて、そんなお前から俺がうまく逃げ切れたら・・・・・・」
セルブラントはその邪悪な瞳にまるで似つかわしくない、夢見るような微笑を浮かべた。
「・・・・・・その時は俺が、生涯かけてお前を追う。それが俺の望みだ」
そう言いながらセルブラントは、じっとマリオンの目を見据えた。
「だが、残念なことにその夢も終わりだな。二人ともこの場に血の花を咲かせることになる。白い神殿に青い花、そして赤い血が、さぞかし美しく映えることだろう」
言葉とともにセルブラントの目が怪しく光り、急にその黒い影は縦に伸び背が高くなった。
「これが俺の本性だ!」
叫ぶ声と同時に、マリオンと同じ白い顔がほろほろと崩れていく。
やがて、それがすべて崩れてしまうと、そこには、元の三倍ほどもある大きな黒い霧のような、影のような何ともつかないものがそこにいた。そのものはすでに、人の形はしておらず、ただの黒い澱んだ塊のようにしか見えない。
「こ、こりゃなんだよ? あいつは、ほんとにこんな化け物なのか? 魔法も使えるじゃないかよ」
ニコーレが仰天したような声をあげた。
「これが本性・・・・・・顔のないノーボディ・・・・・・」
呆然としたようにマリオンがつぶやいた。
「・・・・・・?」
自分とは別の、もっと深い衝撃を受けているように見えるマリオンを横目で見ながら、ニコーレは不審げに眉を寄せた。だが、理由を問いただしている暇はなかった。セルブラントだった霧が、ふいにその一部を鞭のように伸ばし、横殴りに二人を払った。間一髪のところでニコーレがマリオンに飛びつき、横へ転がった。
「馬鹿野郎! お前、死にたいのかよっ!」
耳元で怒鳴られて、マリオンがはっと我に返った。
「彼は、人間じゃない・・・・・・」
マリオンのつぶやきに、セルブラントが低く笑い声をあげた。その声もすでにマリオンと同質のものではない。地の底から響くようなくぐもった不快に割れた声だった。
「マリオン、俺が人間と違うなら、お前も違う。ニコーレ、そいつは俺と同じ『もの』さ。化け物と人間の混血なんだぜ?」
わかってはいたはずだった。頭の中では、彼は『顔のないノーボディ』だと認識していたはずなのに、実際にその本性を見せられると動揺した。セルブラントの人間ではありえないその外見に、マリオンは衝撃を受けた。もしかしたら自分もそうであったかもしれない、いや、実は本当にそうなのかもしれない、という衝撃。
「僕も・・・・・・人間じゃ、ない」
再び呆けたように虚ろな瞳で、マリオンが自分の手を見つめた。五本の白い指が、まるで自分の物でない、別の生き物ようにさえ見える。
「ばかか、お前っ! 戦闘中にぼやぼやすんなっ!」
ニコーレが再びマリオンの身体を突き飛ばして、セルブラントの黒い鞭を避けた。二人の身体の代わりに、白い床が大きくえぐられ砕け散り、しゅぅっと不気味な音を立てて石が黒く焼け焦げていく。
「あいつとお前がおんなじはずねぇだろっ! あいつにごまかされるなっ! しかも、あの本性とやらだって本物かどうか、わかったもんじゃねぇんだぞ!」
ニコーレの言葉にマリオンは、はっと目を見開いた。確かにその可能性はある。かなり高位の魔術師が、上手に変異魔法を使えば、どんなものにでも形は変えられる。
「こんの大甘野郎! ちゃんと前を見やがれ!」
ニコーレが業を煮やしたように怒鳴った。セルブラントの攻撃は続く。避けきれなかったマリオンの右足を黒い鞭が掠めていった。
「マリオン、お前とセルブラントは違う! だからこそセルブラントは、お前を喰らいたいのだ」
さらに彼の心の迷いを払うように、大声でアニスが叫んだ。地の底から不気味な声が響いた。
「またか、アニス。余計なことを!」
同時に黒い霧から大きな炎があがり、火の玉がいくつも吐き出される。それはまるで火山弾のように周囲にすごい勢いで振り撒かれ、あらゆるものを焼いていく。それは白い神殿にも降り注ぎ、アニスたちにも襲い掛かった。グロリアがアニスをかばいながらラヴィーニアと手を取り合って、神殿の影へ走りこんでいくのが見えた。気を取り直したマリオンの右手があがり、呪文と共に蒼い水の玉が彼の手の中から生み出されていく。その蒼い玉は、火山弾を追いかけ、片っ端から包み込むとつぶしていった。
その過程で多量の蒸気が激しく立ち昇り、あたりが白く煙っていく。黒い霧の中から無数の細い触手がざっと音を立てて現れると、それは二人のほうへ向かって蠢き始めた。
「芸のない、なんとかの一つ覚えか、セルブラント」
マリオンの手から白い光の塊が、天井高くに打ち上げられる。
それはまるで薄い透明なシフォンのカーテンのようにふわりと空に広がり、やがて一気に落ちてきた。薄いカーテンは、しかし、柔らかくはない。それはマリオンとニコーレに向かって伸ばされた無数の黒い触手の上に、まるで研ぎ澄まされた刃のようにまっすぐに落ち、触手はぶちぶちと切り刻まれ断たれていく。
セルブラントのものと思われる長い苦鳴が、二人の耳に届いた。再度、蒼白い顔をしたマリオンの手の中から、さらに大きな光球が生み出される。光球は再び天井へ高く上がり、今度はいくつもの塊に分裂すると光の矢に変化した。光の矢はセルブラントの本体めがけて落ちていく。その矢が全て落ち尽くす前に、すかさず次の光球をその手に生み出し天へ打ち上げていくが、マリオンの顔はどんどん蒼ざめていく。
ばんっと耳を劈く大音と共に、セルブラントの本体が急激に小さく力を失っていく。
「やったか?」
歓喜をにじませたニコーレの声が、遠くに聞こえた。マリオンはその場にがくりと膝をついた。すでに半分、気が遠くなりかけている。今、彼を動かしているのは、気力だけだと言ってもよさそうだった。
かたや、黒い化け物はしゅぅっとまるで砂山が崩れて大地に吸い込まれていくように小さくなるや、やはり膝をついた黒い影に変化した。荒い息をついてそこに立て膝をついているのは、マリオンの姿を模したセルブラントだった。まだその左目には、銀の魔法封じがはまっている。
どうやら、セルブラントもかなり無理をして戦っていたようで、荒い息はなかなか元に戻らない。黒衣が破れ、あちこちの新たな傷口から再び大量の血が流れているが、止める気力もなさそうだった。
「魔法が品切れなら俺の出番だ」
すばやい身のこなしでニコーレが走りでて、ナイフを振りかざしセルブラントに襲い掛かった。だが、セルブラントの口から、新たな呪文が紡ぎ出される。はっとしたニコーレの足が一瞬止まるが、それは攻撃の呪文ではなかった。気を取り直したニコーレがナイフを大きく横なぎに払ったが、その刃は虚しく空を切り、幻のようにセルブラントの姿はその場から掻き消えた。
「野郎っ! どこ行ったっ!」
逆上するニコーレのはるか後方、マリオンのすぐ前に黒い影がにじんで出た。
「お別れだ、マリオン」
セルブラントの顔には薄い笑いが張り付いていて、その手には、どこからか魔法でつかみ出した黒い剣が握られている。マリオンが目を上げてセルブラントの顔を睨むと、よろめくように立ち上がった。
すでに魔法で反撃するだけの余力はない。後ろ手にニコーレがくれた自分の短剣を抜き取るのが精一杯だ。
『こいつももう限界近い。僕ももうこいつの剣をかわせない。きっと相討ちだ。それでもいい』
マリオンは覚悟を決めた。
「くそっ! 間に合わねぇっ!」
そうニコーレが叫んで、走って戻ろうとしたときだった。セルブラントの手から黒い剣が容赦なく振り下ろされた、その瞬間、瓦礫の陰から細い人影が飛び出し、黒い魔術師を突き飛ばすようにしながらマリオンとの間に割って入った。
何も考えるまもなく、セルブラントの黒い剣がその小さな影を斜めに切り裂く。だが、その人影の手には小さなナイフが握られていて、すでに細い刃はセルブラントの左胸に深く突き刺さっていた。
「おのれっ!」
だが、どうやらセルブラントも彼の黒い剣も、それが限界のようだった。小さな影を切り裂くと同時に、剣は彼の手の中で霧散し、セルブラントはうめいてその場に倒れこんだ。
まるで、その一刹那だけ、時間が止まったように見えた。ニコーレの足は、その場で力を失って立ち尽くしていた。マリオンは瞬きをすることも忘れて、ただ見つめていた。
その小さな影は、ラヴィーニアであった。
「マリオン、あたしの命を・・・・・・あなたにあげる」
くるりと踊るような足取りで振り向いたラヴィーニアが、微笑みながら囁くようにマリオンに告げると、さらに神殿へ向かって最後の力を振り絞って叫んだ。
「飛龍! ・・・・・・フェーイローンッ!」
ラヴィーニアの喉が張り裂けんばかりの切迫した絶叫が、神殿にこだまする。こだまの余韻が消え失せる前に彼女の細い身体は、そのまま糸の切れたあやつり人形のように、かくりと力を失って崩れ落ちた。マリオンが彼女の倒れかかる身体を抱きとめたとき、まるでその声に答えたかのように、神殿の床がごおぉんと音を立てて揺れた。ことの成り行きにただ呆然としていたマリオンの表情が、さっと厳しくなった。
「共鳴した!? 封印が崩れはじめてる?」
倒れたままのセルブラントがちっと舌打ちをした。竜が目覚めたら、彼が真っ先に抹殺されるのは間違いがない。今の彼では、反撃するどころか逃亡するのが精一杯のことだろう。
「どうやら限界か! 俺は消えるぞ。さらばだ、マリオン。だがきっと、どこかで会うぞ!」
「待ちやがれ! ラヴィをこんな目にあわせておいて、おさらばさせてたまるかよっ!」
怒りに頬を染め、呪縛が解けたように駆け寄ってきたニコーレが、短剣で切りかかるが、すでにセルブラントは移動の呪文を唱えてしまっていた。ニコーレの凶暴な一撃がその黒衣に吸い込まれたかに見えたとき、セルブラントの黒い影は、永遠に神殿からかき消えた。
「消えやがった! どこへ行ったんだっ!」
「ニコーレ!」
マリオンの悲痛な声に、ニコーレがはっと我に返り振り向いた。グロリアとアニスも沈痛な面持ちで、ラヴィーニアを腕に抱いたマリオンのそばに座り込んでいる。
「ラヴィ、ラヴィや。可愛い娘・・・・・・」
グロリアは身も世もなく大粒の涙をぼろぼろと零しながら、震える大きな手で砂色のラヴィーニアの髪をなでている。彼女の胸から流れでた大量の血が、白い床とマリオンの白い服を真っ赤に染めている。
「ラヴィ! ラヴィーニアッ!」
ニコーレが声をかけたが、すでに彼女の魂はここになく、その長いまつげに縁取られた蒼い目は、二度と再び開かれることはなかった。その白い頬にニコーレが手を伸ばし、指で優しく頬をなでた。
「ラヴィのばっかやろう・・・・・・。なんでこんな奴、かばったりするんだよ・・・・・・」
「ニコーレ・・・・・・」
うなだれたマリオンを、ニコーレがきっと顔をあげ睨みつけた。その目は赤くなってはいたが、涙は流れていなかった。瞳の中は、行き場のない怒りと悲しみで揺れている。
「あやまるなよ、アルヴィン! お前の謝罪の言葉なんか、俺は聞く耳なんぞもたねぇからな。ラヴィはお前に命をあげると言った。やることがあるのなら、お前はラヴィの命に答えるべきだ!」
その時、まるでニコーレの言葉に反応したかのように、神殿の床がぐらりと大きくかしいだ。ごぉぉんと再び深い地の底から、何かが揺れ動くような気配がしている。ぴしぴしとあたりの空気が音を立て、床のあちこちに亀裂が走り始めた。無言のまま顔を上げ、ニコーレのきついまなざしを見返すと、マリオンはラヴィーニアの身体を彼の腕に渡して、静かに立ち上がった。
右手で彼らの周りにぐるりと光で円を書く。
「ここから出るな」
短いマリオンの言葉にラヴィーニアを囲んだ三人は、ただうなずく。マリオンは、ひとりその結界の外へ出て息を深く吸うと、肺が裂けんばかりの勢いで、さきほどのラヴィーニアと同じように力の限り呼ばわった。
「飛龍! ・・・・・・フェーイローンッ!」
もはやそれは、魔力による召喚とはとても呼べそうもない、ただの叫びだった。
だが、それは魂の奥底から発せられた、本当の召喚の呼び声といえるものだったのかもしれない。なぜなら、その呼び声は、とてつもない効力を発揮したからだ。
マリオンの叫びに答えて、大地の奥底で何かが壊れ、崩れ去り、砕け散る気配がした。それは耳に聞こえる音としてではなく気配だけであったが、マリオンにははっきりと封印が解けていくところであるということがわかった。たぶん、白竜自身が目覚めてかけているのだ。
広間の崩壊は、すでに始まっている。白い床にはすでに無数の亀裂が縦横に走り、その端が斜めにめくれ上がり崩れかけている。それはまったく音というものを伴わない、無音の崩壊だった。
白い壁が崩れ落ち、瓦礫の山ができる。高い天井から巨大な白い石板が、剥がれ落ちる。美しかった神殿の柱も大きく亀裂が走り、砕け散る。それらの白い石の塊に青い花々は無残に押しつぶされ、ひしゃげて儚く散り失せた。
それは本当に不可思議な光景だった。無音のまま、巨大な神殿が、広大な広間が崩壊していく。ただ音を伴わない激しい振動だけが、足の裏から背筋へ抜けていくだけだ。まるで自身が、音のない世界へ閉じ込められてしまっているかのような錯覚が起きそうだった。
光の結界で護られた者たちには、その影響はほとんどなかった。大きな石塊が頭上から落ちてきても、それらは結界によって弾かれ消滅していく。三人は身を竦ませたまま抱き合い、ただ呆然としていた。マリオン自身は、結界に護られてはいない。だが、彼の上に石塊が降り注ぐことは決してなかった。足元に大きな亀裂が走って床が隆起し、足元に黒々とした穴が穿っても底へ落ちることもない。マリオンはただ、そこへ静かに目を瞑ったまま立っているだけだった。
音のない崩壊は続く。自分の不安定な呼吸音だけが、耳障りに響いている。流れ出た血液の量が多すぎたためか少し足元がふらついて、身体中の疼きや痛みはいまや頂点に達し、怪我に加えて頭痛もますますひどくなってきている。しかし、それらが気にならないほどもっと強く軋み、痛むのは、自分の胸の奥だった。
あのときからずっと、青い瞳が静かに彼を見つめている気がしている。彼女は最期に微笑んだ。
『あたしの命をあなたにあげる』
なんと重い言葉だろうか。もらってしまったものは、何にも代え難く貴重なものだ。
それを彼女に返してあげることも、何か他のもので償うこともできない。たとえ、自分の不甲斐なさを恥じ責めてみても、それはもう彼女に何ももたらすことはない。もう二度と返すことのできない、重い贈り物だった。




