失われた魔力
目の奥から、神経をじかに引き抜かれる。頭の芯に錐を何本も打ち込まれる。
予期せぬ痛みにふいをつかれ、思わず目を押さえたが口からは絶叫が漏れた。身体の奥深く、神経をみんな引き剥がされるような痛みが、左目を中心として身体中に回る。全身に力が入らない。気力もすべて失われるような痛みに立っていることも出来ず、床へ崩折れた。誰かが声をかけているようだが、それを認識することすらできない。
血液がすべて左目に集まったように、どくんどくんと音を立てている。耐え難い痛みに、堪えきれずマリオンの口から絶叫が再び漏れた。
そして、眼球を引き抜かれるような最大級の痛みと共に、がしゃりと鈍い音を立てマリオンの左目を覆っていた魔法封じの眼帯が、床へ落ちた。
魔法封じが落ちると同時に、まるで今までのことが嘘のように痛みが引いていく。だが、まだ身体が動くことを拒否している。心臓がどくどくと倍の速さで駆けている。四つんばいのままで荒い息をつきながら、マリオンはその落ちた魔法封じを見やった。今まで彼の魔法を封じてきた、滑らかな銀の冷たい輝き。そして、今、外れると同時に奪われたこの感覚は。
「失われた? 魔法封じと共に」
口に出した自分の言葉に、マリオンは愕然とした。そして、その意味を理解できたとき、四肢からも完全に力が失われ、彼はそのままはたりと横へ倒れ込んだ。
「どうしたのっ!? 大丈夫!」
マリオンのあまりの苦しみように、なすすべもなく棒立ちになっていたラヴィーニアとアニスが、魔法封じがはずれると共に、それこそまるで魔法が解けたかのように慌てて駆け寄ってきた。
「目が、僕の左目が・・・・・・」
倒れ込んだまま、マリオンがうめいた。その言葉に迷わずラヴィーニアが、マリオンの顔を上向けて左目に覆い被さっている金の髪をかきあげる。そして、ほっとしたように息をついた。
「なんともなってないわ。綺麗な緑のままよ?」
ラヴィーニアの言葉どおり、マリオンの左目は右と同じく橄欖石のごとき明るい緑色をしているだけだった。ラヴィーニアの言葉に、マリオンが再びうめくように答えた。
「緑では・・・・・・いけないんだ」
彼はラヴィーニアの手を振り払い、左手で目を押さえよろめきながら起き上がった。
「僕の左目の魔力は失われた・・・・・・」
あの魔法封じにかけられていたのは、封じの魔法だけではなかったのだ。
「不覚・・・・・・」
囚われていた魔法封じがなくなったというのに、前よりももっと自分自身を頼りなく感じながら、マリオンは途方にくれたようにただ座り込んでいる。わけがわからず不安げに、ラヴィーニアはアニスを振り返った。
「ねぇ、どうしたの? 何がいけないの?」
アニスは顔色ひとつ変えず、ただ厳かにこう告げた。
「失うことを恐れるな。それはあらゆる痛みを伴うが、そこで退いてはならない。それによって得られるもののほうが、より大きいはずだから」
「それは・・・・・・さっきの託宣・・・・・・」
ラヴィーニアが口元に手を当てた。
「彼は、その左目に宿る魔力を失った」
アニスは前方を指差し、力をこめ大音声で呼ばわった。
「だが、マリオン。恐れてはならぬ。退いてはならぬ。進まねば、お前はすべてを失ったままだ」
「でも、でもアニスさん、魔法が使えないのに・・・・・・。どうやって封印を解くの? どうやって封印し直すの? 魔力はなくなったんでしょう?」
おろおろとラヴィーニアが、マリオンとアニスの顔を等分に見比べる。
「答えは己自身の中にある。彼は、ちゃんと答えを知っている」
思いがけぬアニスの答えに、マリオンがはっと顔をあげた。
「答えは己自身の中にある。答えは僕が知っている・・・・・・」
復唱するようにアニスの答えをつぶやくマリオンを、ラヴィーニアが不安げにゆれるまなざしで見つめている。
「左目ゆえ、お前さんは並みの魔力を持った魔術師ではなかった。左目ゆえ、お前さんは魔術師であることができなかった。答えはおのずと出ておろうが?」
アニスの言葉にマリオンが、再びがくりと顔を伏せた。
「やはり、そういうことか・・・・・・」
ラヴィーニアが首をかしげた。
「あたし、いまの言葉の意味がよくわからないわ?」
「本人がわかっておる、大丈夫」
アニスがうなずいた。
マリオンはよろめきながら立ち上がり、震える手で床に落ちている魔法封じの眼帯を拾い上げた。手の中でそれは、言い知れぬ強大な魔力をびりびりとあたりへ放っている。それは彼の金色の左目をのぞき込んだ者たちが感じていた脅威と、よく似ていた。
十五歳のあの時、黒い竜の持っていた魔力をすべて喰らい尽くして得た強大な力は、この銀の眼帯によってあっけなく失ってしまった。死力を尽くした、喰うか喰われるかの命がけの戦いで得た貴重なものだったのに・・・・・・。
だが、アニスが言った。
「左目ゆえ、お前さんは並みの魔力を持った魔術師ではなかった。左目ゆえ、お前さんは魔術師であることができなかった」、と。
自分の魔力を増幅せんがために、あの時、黒竜を喰らった。竜の魔力は強大で、彼は自分の魔法限界が見えなくなった、と思っていた。
しかし、それは諸刃の剣であったのだ。もとより持っていた彼自身の魔法の力は、その黒竜の魔力によってかき消され、眠らされてしまったのだ。魔法封じが封じたのは、その黒竜の魔力だったのだ。だからこそ、摩擦を感じながらも彼は、少しだけ魔法が使えていた。確か自分でも、封じられているのは自分本来の魔力ではなく、黒竜のものである、と気づいていたのではなかったか?
そもそも魔術師自身の魔力は、何か物によって封じることはできても、何かに吸い込み、閉じ込める、ということができるものではないのだ。それをやるつもりなら、魔術師本人を封じるしかない。ただし、今回のように、その魔力自体が本人のものでないのであれば、話は別だ。その魔力は、同化している魔術師から切り離し、さらに封じることが可能になる。その場合、切り離し自体が、非常に乱暴なものであることはもちろんである。同化していた時期が長ければ長いほど、切り離しには時間が必要で身体にも多大な負担がかかり、悪くすれば魔術師自身の命と引き換えになる可能性もある。二年、というごく短い歳月が、彼にとって幸いしたのかもしれない。
では、彼本来の魔力はどうなったのか? この魔法封じすら封じることができなかった力。幼いときから開放することではなく、制御することを覚えるよう強制されていたあの力。黒竜を喰らう前までは確かに存在していた、自分だけの魔法の力。
マリオンは、今でも自分の中でうごめく魔力を感じている。だが、それは洞窟の奥のほうにかかげられたかすかな灯火のようなもので、そこにあることだけはわかっているが、実体をつかむことができないのだ。彼は今までそれがどうなっていたのかすら、意識していなかった。どうやってそれを前のように、いや、前以上にうまく使いこなすことができるのか、自分でもわからない。
「このまま進むしかないのか」
自分に課せられた使命とその重圧、そして今ここで与えられた新たな苦痛と試練に、ともすればへたり込んでしまいたくなる。だが、このままでいいはずがない。
「お前は、そんなに情けない男なのか?」
「嫌なら、やめてもいいんだぜ?」
ニコーレのものともセルブラントのものともつかない、揶揄する声が頭の中に響く。
「誰がやめるもんか!」
手の中の銀の冷たい塊を、マリオンは一度なでた。二年の間、身体になじんだこの魔法の感触。だが、もう二度と自分の中にこれを戻すことはできないだろう。マリオンは唇をきつく結び、跡がつきそうなくらい強くその銀の塊を握り締めた。やがて彼は、未練を断ち切るように、それを目の高さまで持ち上げると思い切りよく振りかぶり、気合を入れてできる限り遠くへ放り投げた。
それは思いのほか高く飛び、きらきらとしたかすかな残像を残しながらやがて朧にかすむ広間のどこか端のほうへ落ちて消えた。それを見届けるとマリオンは、きっぱりと断ち切るように背を向け、後ろで見守っていた二人へ笑顔を向けた。
「待たせたね、さぁ、前に進もう! もう後へは戻れない」
三人は前に向かって歩き始めた。
この広大な広間のどこに竜が眠っているのか、目で見ることはできなかった。
「本当に、ここに竜がいるのかしら?」
不信感を口調ににじませながらラヴィーニアがつぶやくと、
「いる」
短くマリオンが答えた。
「わかるの?」
「気配を感じる。白い・・・・・・虚無のようなもの」
「虚無?」
ラヴィーニアが鸚鵡返しに尋ねるのへ、マリオンが迷いながら答えた。
「・・・・・・うまく言えないんだけど、白い底がない深い穴のような、闇のような・・・・・・そんな気配、かな?」
竜は眠っている。それは今はまだ白い虚無のようなものでしかない。だが、確かにそれはそこにいる。たぶん、聖杯とともに・・・・・・。その完全な魔は、不完全な封印をほどこされ、不完全な魔術師に委ねられている。
「もし、竜が僕を人間と認めなかったとしたらどうなる?」
心の中で今まで避けてきた疑問を形にしてみた。
竜は魔族だ。だが、マリオンの父と同じ種族ではない。魔族同志というものは種族によっては、人間と魔族よりももっと相容れない部分があるのだ。父の種族と竜族が許容の範囲かどうか、今まで彼は一度も考えたことがなかった。また、考えたところで相容れるかどうか、事前に確かめる術はない。今は眠っているからまだいいが、目覚めたとき白竜は、マリオンの存在を許すだろうか?
また白い竜は、ことに血の穢れを疎む。マリオンは黒魔術師ではない。だが、白魔術師でもない。彼は灰色のカオスで今までやってきた。一度黒くなったものは、二度と白には戻れない。もちろん彼は、その状態を今まで「よし」としてきた。ある意味、灰色であることは、極めて人間的だとマリオンは考えていたからだ。
だが、さらにもうひとつ、彼には心にかかることがあった。
「僕は、人を殺したことがある」
それは、セルブラントと対決したときに思い出させられたことだ。不本意でやむをえない事態であったとはいえ、彼は人を殺したことがあるのだ。彼の手は血で染まっている。多分、白竜は彼が魔族の混血であることよりも、そちらのほうを許さないのではないか、と彼は考えていた。
では、聖杯はどうなのだろう? 竜が自分の身内に取りこんで、わざわざ異国へ来てまで守っていたかったその聖杯は。伝説の聖杯が竜と同じように白い者しか好まない、という話は今まで聞いたことはなかった。だが、絶対にない、ともいいきれない。竜よりも、たぶんこちらのほうがずっと手強い。そう、本物ならば、だが。
そこまで考えたとき、
「ふたつはひとつ」
再び響くアニスの厳かな託宣の声に、あとの二人がぎょっとして足を止めた。アニスの声は続く。
「最初はひとつ。やがてふたつ。そして最後は、ひとつに戻る。それは我らの運命ともいえる。嘆くな、若人よ。肉体の死は、精神の死と同じではない。たとえそれが、永遠の別れとなろうとも」
アニスはそこまで言うと、ほぅっと長い息をついた。
「終わりじゃ」
沈黙のうちに、三人は再び歩き出していた。
「死の予言、なの? 誰のこと?」
後ろを歩いていたラヴィーニアが震える声でささやいて、マリオンの服の裾をつかんだ。
「ふたつはひとつ。最初はひとつ、やがてふたつ?」
眉を寄せ考え込んでいるマリオンにすがるように、ラヴィーニアが尋ねた。
「ね? 誰のこと? わかった?」
マリオンは優しく微笑んで、かぶりをふって見せた。
「わからないけど。心配することはないよ。君のことじゃないさ」
「あなたでもない?」
マリオンは笑みを崩さず、うなずいた。
「だって、ふたつはひとつって、まるであの魔術師とあなた」
「僕とセルブラントのことかい? 心外だなぁ。いくら外見が似てても、あんな奴とひとつにされたくないけどなぁ」
明るいマリオンの口調に、ラヴィーニアが唇を震わせスカートを握りしめた。
「ごめんなさい。でも、ニコもあんなことになってしまったし、もしもあなたまで・・・・・・」
「心配してくれてるの? ありがと。でも、僕は前に、彼女から未来の予言をされているから大丈夫だよ」
やっとそこまで聞いて、ほっとしたようにラヴィーニアが肩の力を抜いて、ゆがんだ唇に痛々しげな笑みを浮かべた。
「そう、ならいいわ」
だが、今度はマリオンの胸に、自分の言葉による疑念が湧いた。それは今の託宣のことではなく、最初、アウスディールで出会ったときのアニスの託宣のことだった。
「お前さんの左目を恐れぬ人間の女は、三人いる。一人はお前さんの生みの親。もう一人は生涯の伴侶たる娘。そしてもう一人は黒い女」
あの時、確かに彼女はそう言ったのではなかったか。だが、彼の左目は、もう金色ではない。ラヴィーニアはまるで怖がりもしなかった。
「たいした託宣だな。あたらぬも八卦ってやつか、それとも嘘をつかれたのかな?」
心の中でマリオンは苦笑した。その時、ふっと何の脈絡もなしに、さっきの託宣に対するひとつの答えが心に浮かんだ。
『最初はひとつ。やがてふたつ。そして最後は、ひとつに戻る』
「まさか・・・・・・」
マリオンの顔が青ざめていく。それまでゆっくりではあるが、リズミカルに歩いていた彼の足が自然に止まった。
「ちょ、ちょっと、どうしたの?」
後ろを歩いていたラヴィーニアとアニスが、彼の背中にぶつかりそうになって慌てて止まった。
「どうかした?」
ラヴィーニアが不審そうに首をかしげた。だが、彼が言い訳の言葉を口にする前に、
「ねぇ、さらさらという音が、さっきより大きくなってない? 水が流れているのかしら?」
当のラヴィーニアが声をあげ、あたりを見回した。確かに中へ入る前からずっと、絶え間なく水の流れているような音がしていたが、ここへ来て急にそれが耳につくようになった。さらさらだった音が、ざあざあという少し激しい音になっているようだ。
「水が流れているわ。あそこ!」
ラヴィーニアが広間の斜め前方を指差した。確かに広間のどこか上のほうから、絶え間なく小さな滝のように水が落ち、床の上に細い川を作っている。小川は広間を緩やかな曲線を描きながら横切り、マリオンたちの斜め後ろへ消えていく。
近づいてみると、透明な水が二フィート(約60cm)ほどの幅で白い石の床の上を流れていた。かがみこんで指先を浸けてみると、深さは二インチにも満たないのだが、確かに冷たい水がとうとうと絶え間なく流れている。不思議なことに、その水の流れているところが川なりにへこんでいる、というわけではなかった。
手を思い切って中へ入れ、川底へ手のひらをつけてみても、今現在たっているところと段差があるわけではない。平らなところをただ川のように水が流れている、だけなのだ。その幅は規則正しく、横へ水が溢れ出しているところはない。
「不思議ね。広間の中がびしょびしょにならないのかしら」
「もしかして魔法の排水溝かな」
マリオンは上を見上げた。
水が落ちてくる天井の一番てっぺんの部分は、やはりかすんでいてよく見えないが、この滝は故意に作ったものには思えなかった。マリオンはアウスディールを出るときに見た、案内板を思い浮かべた。
「カデカミナには、確か水が湧き出している湖があるよね」
マリオンのつぶやきに、ラヴィーニアがうなずいた。
「あるわ。小さいけど綺麗な湖よ」
「あんな感じかな。どこか上のほうに水源があって、自然に地下水が吹き出しているのかもね」
ラヴィーニアが首をひねった。
「でもなんのために? わざとここの真ん中に水を流しているみたいだわ。こんな神殿の中を、こんなふうに水が流れることに何か意味はあるの?」
「水は清めを意味する。洗い流すことによって、いろいろなものが清浄になる。だから、水は儀式には欠かせないし、神殿でも水を絶やさないようにしているところが多い」
そこまで言ってマリオンは、小さく肩をすくめた。
「そんな曖昧なことしか、僕には言えないな」
そう言うと、マリオンは何も考えず、ひょいっと小さな川を跨いだ。
「うわ!」
川を跨いで正面を見上げ、マリオンは思わず声を上げた。
「なぁに?」
訝しげにラヴィーニアがマリオンと同じ方向を見上げる。だが、そこにはさっきと同じただ白い壁と天井が延々と続くだけで、何も変わったものは見えない。マリオンがラヴィーニアに向かって手を差し出した。
「姫君、お手をどうぞ」
ラヴィーニアは目をぱちくりさせながら、
「これくらいの川、あたし一人だって飛べるわよ」
と、言いながらも、マリオンの手をとり、身軽く小川を飛び越えた。
「な、なにこれ?」
渡り終えたラヴィーニアは天井を仰ぎ、先ほどのマリオンと同じく声をあげる。マリオンはアニスに手を貸して川を渡らせてから、二人でラヴィーニアのそばに戻ってきた。
「あれは、どうやらある種の結界だったらしいね」
マリオンの言葉どおり、先ほどまではだだっ広くて何も無かった空間に、目にしみる白い壁に青い花が咲き乱れ、丹念に彫刻のほどこされた柱が何本も立つ美しい神殿がそびえていたのだった。
「見覚えがあるわ、ここ・・・・・・」
呆然と眺めていたラヴィーニアがつぶやいた。
「白い壁に青い花。青い透き通った花びらがすごく綺麗で・・・・・・」
確かに白い建物の周りは、一面に濃い青色の花が咲き乱れている。どう根をはってこんなところに生えているのかと、マリオンは目を凝らした。土の色は見えない。どう見ても硬く白い石の床があるだけだ。
「魔法の庭園か・・・・・・。誰の趣味だろう」
少し皮肉な気持ちで考えてみた。ここに花を飾ろうとしたのは、いったい誰だったのだろう。薄緑色の茎は大地に根付いているわけではなく、床や柱や階段のあらゆるところから細い茎が生え青い花を咲かせていた。白い壁や柱にその花が青い影を作っている。
「そうよ、あなたのお母様もここで見たわ。この奥よ」
今にも走り出して中へ入ろうとするラヴィーニアの腕を、マリオンは慌てて捕まえた。
「そんな急いで入らないほうがいい。安全かどうか、僕が確かめるよ」
「安全よ! ここはどこよりも安全だわ」
強い口調でラヴィーニアが、叫ぶように言った。
「どうしてだい?」
いつもと少し違う様子にマリオンがラヴィーニアの腕をつかんだまま、穏やかに尋ねた。
「だって、私、護られていたもの。彼は誰よりも強いのよ」
「彼? 誰のこと? 白い竜?」
聞きただすマリオンに、ぼうっとして焦点が定まらず、少しうるんだ目をラヴィーニアは向けた。
「ええ、飛龍だわ」
「思い出したんだね?」
マリオンの言葉にラヴィーニアはうなずいて、ぼうっとしたままの顔を神殿へ向けた。
「どうして忘れていたのかしら? とっても大事なことだったのに」
「それは・・・・・・」
君が別の身体に転生したからだ、と言いかねてマリオンが口をつぐんだ。
「ええ、そうよ。とても大事なことだったの」
もう一度、ラヴィーニアはうなずいた。そのラヴィーニアの様子にマリオンは少し息苦しさを感じ、無意識に首に巻いた緋色のストールを緩めた。今、マリオンは心の中で、疑っていることがある。さきほどアニスが言った託宣の言葉だ。
『最初はひとつ。やがてふたつ。そして最後は、ひとつに戻る』
もしかして、ラヴィーニアには身体がふたつ、あるのではなかっただろうか? 黒い本によれば、十七年前、封印が半端に解かれたときにラヴィーニアは精神だけが外に弾き出された、と書いてあったはずだ。では、その元の身体は、いったいどうなってしまったのだろう? 封印されているとすれば、その身体は朽ちてはいないはずだ。封ぜられた状態では生きている、という表現はできないかもしれないが、封印を解けば元に戻るのではないだろうか。
そして、ラヴィーニアの魂はここに今、目の前にいる。マリオンは、懐かしそうに神殿を見つめているラヴィーニアの、砂色のふわふわした頭と綺麗に澄んだ青い瞳を見つめた。
このラヴィーニアは、どうなる? そもそも、ひとつに戻るとは、どういう意味なのだろうか? 肉体の死は、精神の死と同じではない、というアニスの予言の言葉どおり、どちらかのなんらかの死を意味しているとすれば、
「迂闊なことは、できないな・・・・・・」
マリオンは、ますます難しくなった解放と封印のことを考えて小さくため息をついた。
「マリオン・・・・・・」
気がつくと、ラヴィーニアがそばにきて彼を見上げていた。
「彼に会いたいわ。飛龍に・・・・・・。会ってもいいでしょ? ね、お願い」
マリオンは小さくうなずき、ラヴィーニアが嬉しそうに微笑んだ。
「でも、すぐには会えないよ。封印が解かれない限り、ここは空虚なままだから」
「じゃあお願い。封印を解いて、彼に会わせて」
マリオンがため息をついてそれに答えようとしたとき、後方にある川の向こうから聞き覚えのある野太い声が聞こえてきた。
「どうやらグロリアが、追いついてきたようだね」
神殿の階段に座り込んでいたアニスが、ぽつりと言った。
確かに聞こえているのは、グロリアの声だった。しかし、声はすぐそこに聞こえているのに姿は見えない。
「セルブラントは?」
確かめようにも、声はグロリアのものだけしか聞こえてこない。マリオンは緊張に右手を強く握った。石室が崩れ去るとき、セルブラントは魔法封じが外れたらまた会おう、と言ったはずだ。
そして、グロリアだけでは、あの扉を抜けてこの中へ入ることは、かなわなかっただろう。今、セルブラントと戦って自分が果たして勝てるのか。たぶん、今度は彼も手加減しまい。持てる魔力をすべて使って、仕掛けてくるだろう。
「奴の本当の目的は、いったい何なんだ。本気で僕に成り代われると思っているのか?」
白竜を目覚めさせるのが本当の目的だとは、まるで思えない。マリオンが失敗するのこそを、待っているのかもしれなかった。
「お母様っ!」
ラヴィーニアが、マリオンの前に立ちはだかるようにしてグロリアを呼んだ。
「ラヴィー?」
訝しげに問い返したマリオンに、
「お母様はきっと、ニコーレがあなたに殺されたと思ってるはずよ」
いつのまにかラヴィーニアは、ぼんやりとした様子から元のきびきびした少女に戻っていた。
「それはそうだけど」
マリオンは苦笑した。自分よりかなり小柄で華奢な少女の後ろに、隠れているつもりはなかった。
「話せばわかるさ、彼女だって」
「でも、お母様は短気だもの。問答無用かもしれないでしょう?!」
それにしても、ラヴィーニアが真実を知っているのだから、セルブラントの有利に働くとは思えない。グロリアが、ラヴィーニアよりセルブラントの言葉を信じるはずがない。
そのグロリアを、何のためにわざわざここまで彼が連れて来ようとしているのか。あいつは、いったい何を考えているんだ。軽く苛立ちながら、マリオンはグロリアが川を越えてこちら側へ姿を現すのを待った。
ほどなく、緋色の巨体が三人の目の前に姿を現した。どうやら、グロリア一人だけで川を渡ったようで、彼女のそばにはセルブラントどころか、他の従者の姿も見えなかった。その頑丈そうな体躯に相変わらず鮮やかな緋色の衣装をまとい、大きな剣を一振り背負っている。
小川を渡りきったグロリアは目の前にいきなり現れた神殿を、一瞬だけぽかんとした顔で眺め、それからぶるんとひとつ頭を振ると、気を取り直したように三人の方へ顔を向けた。
「アルヴィン! よくもこの私を出し抜いておくれだね」
「お母様っ! マリオン、いいえアルヴィンは悪くないわ! あたしとニコがこうしようって決めたのよ」
必死の形相でマリオンをかばうラヴィーニアに、グロリアはとろけるような微笑を送った。
「可愛いラヴィーニア。騙されているんだね、その魔術師の坊やに。こちらへ戻っておいで、可愛い娘」
「騙されているのは、お母様よ! セルブラントが、ニコを殺したのよ。そんな人の言うことを何で信じているの?!」
その言葉で、ふいにグロリアの目の色が変わった。
「ニコーレが殺された? いったい何を言っているのだえ、ラヴィーニア!」
ラヴィーニアは両手で口を押さえた。その青い目から涙が見る見るうちに溢れ出してくる。
「お母様・・・・・・知らなかったの? では、ニコはあの場所に、裏門のそばにうち捨てられたままなの?」
「ニコが、殺された? セルブラントがやったというのかえ? ラヴィ、お前はそれを見たのかえ?」
ラヴィーニアが涙のたまった目で無言のまましっかりとうなずくと、グロリアの顔が赤黒く染まりその太い腕に筋肉がうねりをあげ、背負っていた剣がずらりと音をたてて引き抜かれた。
「お母様っ!?」
ラヴィーニアが再び両腕を広げ、マリオンをその背にかばった。マリオンは無言のまま、ラヴィーニアの両腕を静かにおろすと自分の後ろへ押しやった。
しかし、グロリアはマリオンには目もくれず、悪鬼のような形相でぐるっとあたりを見回した。
「セルブラントは、どこだえ? あやつ、ただではおかぬ!」
マリオンはかぶりを振った。
「こちらには姿を見せていない。あんたと一緒だったんじゃないのか?」
「さっきまでは一緒だったが中へ入るなり、用がある、とほざいて先に行ってしまったのさ。てっきり、こっちへ向かっているのかと思ったが」
グロリアは抜き身の剣を引っさげたまま、地団駄を踏んだ。
「ええい! 口惜しや!」
「グロリア」
マリオンの穏やかな声に、殺気を含んだまなざしで勢いよくグロリアは振り向いた。
「ニコーレが、まだ見つかっていないのなら、すぐにあんたが戻って彼を何とかするべきだよ」
ぶんっ、とうなりをあげて、剣がマリオンの鼻先すれすれに振り下ろされた。
「余計なお世話だ、坊や。あやつを殺るまでここから出るわけには行かないよ!」
マリオンは瞬き一つせずに剣をやり過ごすと、ふっと寂しげに笑った。
「やっぱりあんたも母親なんだな。ニコーレに聞かせてあげたかったよ、その言葉」
ふん! とグロリアは、それを鼻であしらった。
「あたしゃ、コケにされたのが我慢がならないんだよ! あの男! ニコを殺しておいて涼しい顔であたしに指図などしおって、いけずうずうしい! この剣で首と胴体を斬り離してくれるわえ」
マリオンは首を横に振った。
「諦めたほうがいい。あいつは普通の男じゃない。魔族との混血で魔力が強い。剣でどうにかなるものではないよ。それより早くここから出たまえ」
グロリアは思い切り眉を上げ、さげすむような目つきでマリオンを見た。
「あたしに指図するのはおやめ! 聞こえなかったかえ? あやつを殺るまでここから出ないよ。そしてあたしゃ、竜をこの目で見るまでは、地上へ戻らないことに決めているのさ」
ラヴィーニアがまだ涙をためたまま、母親に走り寄った。
「お母様。ニコをお願い。あんなところにひとりでずっといるなんて、可哀想すぎるわ」
「では、ラヴィーニア。お前がお戻り。ニコには、あたしが仇を取っているところだと言っておくれな」
ラヴィーニアは、ふるふると小さくかぶりを振った。
「あたしはもう、戻れないわ。あたしは、ここの巫女だもの」
「ラヴィーニア! お前がお戻り。母親の命令だよ」
マリオンが小さくため息をついた。
「不毛な会話だ。このままじゃいつまでたっても、どうにもならない・・・・・・」
マリオンの言葉が終わるか終わらぬうちに、神殿の方向から彼の声とそっくりな笑いを含んだ声が響いた。
「そのようだな。まさしく不毛だ」
「セルブラント!」
マリオンが深く息を吸い、身構えた。やはり現れたか。




