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真名

「どういう意味だ?!」

 ふふん、とセルブラントは鼻で笑った。

「別に・・・・・・。深い意味はない」

「お前、この僕の魔法封じにいったい何の魔法をかけたんだ?」

 苛立ちながら、彼が答えるはずのない問いをマリオンは投げかける。案の定セルブラントは、その問いを無視した。

「それよりもね、マリオン。君はもう忘れているようだけど、あの暗誦した創始聖伝には、意味があるんだが? 君は気にならないのかい?」

「お前に答える気があるのか?」

 くくくっと再びセルブラントが笑い、マリオンは怒りに震え始めた剣を握る手を制御するのに苦労した。

「あるさ、もちろん。聞きたいかい?」

 無言のまま、マリオンは剣を持つ手に力をこめた。また一筋、血が細い蛇のように刃を伝い滴り落ちる。やれやれ、気の短い、とセルブラントがひとりごちたが、マリオンは答えない。

 セルブラントは一息深く吸って、やがてマリオンと同じ声でまるで本でも読むように静かに話し始めた。


「聖杯は、この世界に四つあると言われている。

 伝説によれば、聖杯はそれぞれの持つ強大な魔力によって四つの大陸を支えてきた。この不変の大地を形作っているのは、四つの聖杯だと言われている。あまりにも強大すぎて、その魔力は人間には制しきれないが、もしもその聖杯が四つとも全部手に入れば、聖杯の魔力は安定し、その人間は世界を難なく統べることができる、とも」

 セルブラントの話の方向が、わずかに見えてきたもののマリオンは俄かには自分の予想を信じることができずにいた。まさか? 話はその方向へ進むのか? 絶対に進んで欲しくない方向に・・・・・・。

 マリオンの額にうっすらと冷たい汗が浮かんだ。

「大勢の人間がそれを捜し求め、偽物が生まれ、更なる伝説も生まれた。しかし、今まで、誰も本当にそれを手にした者はいない。何人かの者がそれを見た、という伝承伝説が残っているだけだ。今では聖杯の話を真剣に言い出す者とていはしまい。長いことあれはただの言い伝え、伝説上のもので幻だと言われてきた」


 それはそうだ。あれは、この世界がどうやって作られたか、という根本の物語だ。世界が、そのようにして作られたはずがない。そんなものが、実際に存在するはずがない。いや、存在してはいけないのだ。聖杯の存在は、この世界を根底から覆すことになりかねない。

「今までそれを見たものは何人かいるというが、実際に見た人間を僕はグラディウス以外に知らない」

「なん・・・・・・だって?!」

 それは自分の予想した答えではあったが、それを実際に耳で聞いてしまったことにマリオンは動揺した。

「そういう意味さ。君だって疑っていただろう。ここには、いったい何が封印されているのか、と。白竜だけが封印されているのなら、こんなに大掛かりな封印は行われまいよ」

「・・・・・・まさか・・・・・・」

「ここカデカミナには、白竜がその体内にかいこんで西の大陸から持ってきた白聖杯も、共に封印されているんだよ」

「そんな・・・・・・そんなはずは」


 心がわずかにゆらいだマリオンの隙を突いて、セルブラントがかすかに身じろぎした。無意識に反応したマリオンの剣が、その首を傷つけるより一瞬だけ早く、セルブラントは相手の鳩尾に肘を深く食い込ませ、マリオンは思わず小さく苦鳴をあげて後ろへたたらを踏んだ。ふふっ、とセルブラントから笑いが漏れた。

「もう少し遊ぼうと思っていたけど、そろそろ竜を起こす頃合かもしれないね」

 立ち直ったマリオンが飛びかかる前に、セルブラントはすばやく後ろへ飛び退り体勢を整え、右手を高くあげ呪文を唱えた。それが破壊の呪文だとマリオンは気づいたが、今の彼にはそれを止めるすべはない。

「外へ出ろ!]

 マリオンは戸口のそばで抱き合っているラヴィーニアとアニスに声をかけ、二人をかばうように前に立ち塞がった。

「マリオン、また後で会おう! 魔竜神殿でその魔法封じが外れたときに!」

 セルブラントの哄笑と共に石室の壁が崩れ始めた。


 轟音と共に石室が完全に崩れ去り、あたりはまた真の闇に包まれた。すかさず、ぽぅっと青白い灯りが、マリオンの手から二つほど生み出される。長い回廊が行く手に広がる静かな空間が、そのほのかな灯りに照らされた。もうすでに石室のあった場所はひとりでに修復され、どこに入り口があったのかすらおぼつかない。

「彼は、下敷き?」

 再会してから初めてラヴィーニアが、かすれた声を出した。

「いや、そんなはずはない。奴の気配はもうとっくに消え失せている」

 苦いものをかみ締めたように、口元を歪め、眉を厳しく寄せたマリオンはじっと前方を見つめている。

「行くしかないよ、坊や」

 アニスが、ひどくきっぱりとした口調で告げた。弾かれたようにマリオンの顔が、そちらへ向けらた。アニスの顔を見て、何か言いたそうに一度口が開かれたが、言葉は発せられないまま唇は固く閉じられ、その顔は静かに元の方向に向き直った。

「行くしかないんだよ、坊や」

 再びアニスの声がマリオンに向かって、そう告げる。マリオンは目を伏せた。かすかに震える睫毛が、見えている右目に淡い翳りを与えた。

「・・・・・・このままのほうが、いいかもしれない」

「なぜ?」

 問うたのは、アニスではなくラヴィーニアだった。


「なぜなの?! このままでいいはず、ないじゃない。みんな中途半端よ。あなたのお母様だってあの中でしょう? 放っといていいはずないわ」

「母のことは、いい。僕は、聖杯を認めたくないんだ。聖杯はこの世にあってはいけないものだ。それに」

 マリオンは苦しげにラヴィーニアを見た。

「正直言って僕には、聖杯と白竜を両方封印できる力なんてない」

 いきなりラヴィーニアが、マリオンの胸に飛び込んできた。彼女がそのような行動に出るとは思ってもいなかったマリオンは、その細い体を抱きとめて狼狽した。ラヴィーニアは、その小さなこぶしでマリオンの胸をどんと叩いた。

「なんて弱虫なの! あなた、魔術師でしょう!自信たっぷりだったじゃないの! できないはずないわ。あなたがやらなければ、誰がやるの? セルブラントのいいようにされるだけなの? 封印するのよ。解放して、封印しなおすの。そうでなければ」

 ラヴィーニアはマリオンの腕の中で、涙に濡れた顔をあげた。

「そうでなければ、ニコはいったいなんのために死んだの?」

 ああ、と小さなため息がマリオンの口から漏れた。

「ニコーレ・・・・・・」

「彼は愚かよ。自分勝手だったわ。だけど、だからってお前の利用価値はもうないと言われて、あいつに人形みたいにあっさり斬り殺されていいわけ、ないっ!」

 ラヴィーニアが悲痛な声で叫んだ。涙に濡れた、だが強い光を放つ目で、ラヴィーニアはマリオンを見上げた。どこか迷うように俯いたまま視線をあげないマリオンの横顔を、ラヴィーニアはまるで睨みつけるように見つめていたが、やがてどんと突き放すように彼の胸を押すとその腕から逃れた。


「あなたが意気地なしで、これ以上行けないっていうのなら、あたしが行くわ。一人でも行く」

「ラヴィ・・・・・・」

 ラヴィーニアはつん、と顔を上に上げた。

「あたしが行ってどうにかなるものでもないかもしれないけど、でも何もしないよりまし。絶対そうよ。だから、あたしは行くわ、地の果てまでも」

「では、わたしもお供するかね、お嬢ちゃん」

 それまで何も言わず、闇の中にひっそりと佇んでいたアニスが、どこかに笑いを含んだような口調で同調した。

「まぁ、ありがとう! アニスさん」

 ラヴィーニアが嬉しそうに駆け寄って彼女の手を取った。

「あたしたちが白竜を説得できれば、うまくいくかもしれないわよね」

 まっすぐに見つめるラヴィーニアに、アニスは顔の深いしわをいっそう深くして、ただにこりと笑って見せた。それからアニスは、マリオンのほうを向いた。

「どうするんだね、坊や。あんたはこのまま引き下がるかい? 坊やらしくないね」

 俯いたままだったマリオンが、静かに顔を上げた。

「・・・・・・坊や、はやめてくれと、何度言ったらわかるのかな?」

 すでにその顔に迷いはない。右目は決意にきらめき、口の端には小さく笑みも浮かんでいた。

「もちろん、僕も行くよ。竜と聖杯をこの目で拝みに、ね」

「そう来なくては。では、みなで参ろうぞ」

 にこやかに笑いながらアニスがうなずき、ラヴィーニアが目を赤くしたまま、安心したように強張っていた肩から力を抜いた。

 それから三人は前方の暗闇を目指し、ゆっくりと歩き出す。先頭はマリオンで、二人の女たちはその後ろから付き従うような形だ。二人の巫女たちは、お互いの手を取り合ったままだった。

「よかった、アルヴィンが来てくれて」


 思わずそう呼んで、ラヴィーニアが口を抑えた。

「あ、ごめんなさい、名前、違うのよね?」

 ラヴィーニアの方を振り向いて、マリオンは口元に苦笑を浮かべた。

「好きなように呼んでくれてかまわない」

 そこで言葉を切り、アニスを見る。

「坊や、以外ならね」

「ううん、本当の名前を呼んだほうがいいと思うわ。マリオン、でいいのね?」

 ラヴィーニアが彼の本名を口に出して、それから首をかしげた。

「女の人だとばかり思ってたけど、あの本の中に書いてあった名前なのね」

 ふっと、マリオンの口から笑いが漏れた。

「僕が生まれたとき、遠くにいた祖父が勘違いして、この名前を付けろと使いをよこしたんだ。母は名前が気に入ったんで、そのままつけちゃったらしい。ニコがいたらきっと・・・・・・」

 女みたいなのは顔ばかりでなく名前もか、と大笑いされただろう、と続けようとしてマリオンは口をつぐんだ。もう二度と彼は、そんな嫌味を言えないのだ。続きを飲み込んだ彼の後から、女たちふたりは何も言わず黙ってただ歩く。

「・・・・・・仇は取ってやる」

マリオンの瞳に、暗い影が宿った。


「ね、アル、じゃなくてマリオン。セルブラントは、結局、何者だったの?」

 ラヴィーニアの問いに、マリオンはうーんと唸った。

「あれは、妖魔と人間の子供」

 代わりにアニスが答え、マリオンがぎょっとして振り向いた。

「魔族と、人間の子供?」

「そうさ、母親が妖魔。父親が人間」

「僕と逆か」

 思わずそうつぶやいて、はっとした。

「何が逆なの?」

 案の定、ラヴィーニアが訝しげな声をあげた。小さくため息をついて前を向くと、マリオンはなるべく普通の声を出すように努めた。

「僕も魔族と人間の混血だから」

 背中でラヴィーニアが、はっと息を呑むのを感じた。

 この話には、いつまでも慣れない。話したときの相手の反応が嫌だった。あからさまに嫌な顔をする相手には、強気でいけた。あるいは、心の中では軽蔑しているくせに表面だけ同情を寄せてくる相手にも。そして、反応にはもう一種類あって、彼はそれが一番苦手だった。

 それは、彼の身の上に本気で心を痛め、哀しんでくれる、そういう相手だった。今さら、生まれなど彼にはどうしようもないことだ。それを憐れまれても彼には、反応の仕様がなかった。自分はこのままで生きていくしかないのだ。哀しんでもらったところで、どうにも何にも、ならないのだ。それならいっそ、無関心のほうがずっとすっきりする。


 だが、意外なことに、うふふ、と声をあげてラヴィーニアが笑った。

「そう、そうだったんだ。みんなどこかに何かしら傷を負っているのね。あたし、あなたって何にも困った事のない人なのかと思ってた」

 気負ったところのない、ごく普通の声だった。

「なんだか前よりもっと親しみが湧いちゃうわね」

「ラヴィ・・・・・・」

 マリオンには返す言葉もない。この二人の巫女に比べれば、僕の今までの人生なんて何処といって変わったことのない、ごく普通のものじゃないか。ふっと心のどこかで、何かが解けた気がした。彼女たちを護らなくてはならない。誰にでも与えられている当然の権利、ごく普通の生活を奪われてしまった彼女たちに、穏やかな日常を返してあげたい。

「セルブラントはね、一歩間違ったら、お前さんの生涯の(かたき)となりうる脅威だよ。気をおつけ」

 アニスの言葉に、マリオンははっと我に返った。

「何のためにあいつはここにいるの? 一度逃げたくせに」

 憎々しげにラヴィーニアが尋ねた。

「たぶん、マリオンという名前を貰おうとしているのだと思うが」

 アニスが少し迷いながら答えた。

「僕の名前?」

 あの時、セルブラントが言った「君の名前を僕にくれ」という話は、本当だったのか。

「名前というよりもお前さんの人生そのもの、という意味だろうと思うけれどね。あの子はお前さんに成り代わりたいのだろうよ」

「どうやってさ? 顔が似てるからって、そんなの無理に決まっているだろうに」

 マリオンが吐き捨てるように言うと、アニスが肩をすくめた。

「お前さんの左目の竜と同じ運命、さ」

 マリオンの歩みが止まった。


「僕が奴の中に取り込まれる? そういう意味か?!」

 振り向いたマリオンの瞳が衝撃に揺れている。アニスが無情にうなずいた。

「取り込みたい、のだろうよ、その魂をね。二人がひとつになれば、セルブラントはマリオンと名乗ってお前さんの人生を生きる。過去の記憶もすべて手に入れて、ね。そうすれば、『誰でもないノーボディ』は、正真正銘、マリオン・ローセングレーンになれるだろうさ」

「僕の名字を知っているのか?! アニス」

 マリオンは眉をひそめた。アニスは、ほっほと笑った。

「それくらい、最初に会ったときから知っておるわ」

「そうか。だろうな。あれだけの事を知っていながら、そこだけ知らないほうがどうかしているな」

 再びマリオンは、前を向いてゆっくりと歩み始めた。

「だからと言って、簡単に渡すわけにはいかないな。名前はどうでも、僕にとって記憶は大事なものだ」

 たとえそれが、哀しいだけの記憶でも・・・・・・。

「これからお前さんは、ある物を失う」

 突然、アニスがそれまでとは微妙に異なる、厳かとも言える口調で淡々と告げた。

「ご託宣か・・・・・・」

 マリオンが口の中で低くつぶやく。


「それはお前さんにとって大事なものではあるが、失うことを恐れるな。それはあらゆる痛みを伴うが、そこで退いてはならない。それによって得られるもののほうが、より大きいはずだから」

 しばしの沈黙。誰も声をたてない。三人が静かに歩む衣ずれの音だけが聞こえる。だが、やがてアニスが太い息を吐いた。

「アウスディールでの占いと、さほど変わりはないようだ・・・・・・」

 その声でようやく緊張が解けた。

「何なの? 何を彼は失うの?」

 マリオンの代わりにラヴィーニアが急き込んで尋ねたが、アニスは無言で首を振った。

「ラヴィ、アニスに聞いても無駄さ」

 あっさりとマリオンが言い、ラヴィーニアが不満そうな声をあげた。

「気にならないの? あなたのことなのに」

 マリオンは、ふっと笑った。

「ご託宣とはそういうものだ。それ以上聞いては、未来が変わる可能性が大きくなる・・・・・・」

 だが、アニスがラヴィーニアの横でかぶりを振った。

「いいや、未来は『変わる』のではない、『変える』のだ。そこには確固たる意志が存在する」

 アニスの一言に、マリオンはわざわざ振り向いてにやっと笑って見せた。

「ありがとう。よく覚えておくよ」


 そのまましばらくは、誰も口を利かず無言のまま黙々と歩き続けた。いつもの蒼白い灯りがマリオンの足元にひとつ、ラヴィーニアとアニスの足元にひとつ、上下にふわふわと浮き沈みしながら纏わりついていて、足元とお互いの表情を透かし見るのに不自由はなかった。

「そういえば、ラヴィ。『あの』本、とさっき、言ったね。黒い本は、君が持っていたのではないの?」

 ふと思い出したように、マリオンが振り向いて尋ねた。血の献辞が書き込まれた、ドラゴンズシュラインというあのセルブラントの書き写した本のことだった。

「黒い本? あれは・・・・・・」

 ラヴィーニアが唇をかんだ。

「奴に取り上げられた?」

「いえ、セルブラントではなくて・・・・・・」

 ラヴィーニアは、目を伏せた。

「ごめんなさい。あれはニコが持ってたの」

「ああ、なるほど、そうか。じゃあ、しょうがない」

 マリオンが安心させるように口の両端を上げて、小さく微笑んだ。

「気にしなくていいよ。別に必要でもなさそうだし・・・・・・」

「あの本はすでに、その役割を果たした」

 ふいにアニスがそう言いながらつないでいるラヴィーニアの手を、きゅっと強く握った。

「うん。もう何度も読んだからね。中身は全部、覚えているよ」

 うなずくマリオンに、アニスは小さくかぶりを振った。

「いいや、マリオン。お前さんが考えているような意味ではないぞ」

 え? と、ラヴィーニアが隣を歩くアニスの顔を覗き込んだ。

「今に、わかる」

 アニスがもう片方の手で、握り締めたラヴィーニアの手をぽんぽんと軽く叩いた。マリオンは、それ以上アニスを追求しなかった。占い女に彼女が口にした以上のことを聞いても無駄なことは、最初からわかっていることだ。


「さて、そろそろ到着、かな?」

 先ほどから道幅が少しばかり広くなり始めていたのだが、ここへ来てその通路は一気に今までの三倍ほどにも広がっていた。天井も高くなって閉鎖的な感じがだいぶ薄れている。

あんなに暗かった通路も、いつのまにかほのかに明るい。壁自体が、穏やかな発光体のように光を振り撒いているのだ。

 ぱちんと指を鳴らしてマリオンは、青白い灯りを消した。正面の薄明かりの中に、美しい彫刻を施した見上げるほど巨大な白い扉が見えている。どこからともなくさやさやと水が流れるような音がしていることに、マリオンは気づいた。

 これは水の流れる音だろうか、それとも砂の流れる音だろうか? いくら耳を澄ませても何の音か判別がつかないまま、マリオンはその扉の前に立った。音は扉の向こうから聞こえてくるような気がする。

「どうやって開けるの、これ」

 近くに立って見上げてみて、改めてその扉のあまりの巨大さに唖然としていたラヴィーニアが、マリオンの服の裾を引っ張った。確かにこれだけのものを、人間が押したり引いたりしてみても通常は動くとは思われない。まして、封印に使用されているものだ。何らかの魔法がかかっているに違いない。


 マリオンは扉を仔細に調べ始めた。どこかになんらかの魔法の痕跡があるかもしれない。マリオンの指が、つうっと扉をなで上げた。廊下の敷石と同じように魔法が読めないかもしれないと思ったが、なぜかここだけは、明らかに魔法で閉ざされている気配がしていた。

それを魔法封じに邪魔されながらも、明確に感じることができてマリオンは安堵した。

「入れないんじゃ、しゃれにもならないからな」

 ひとりごちながら、扉をさらに細かく検分すると、扉の中央部分にほどこされた彫刻の中にルーン文字がさりげなく散りばめられている事に気づいた。

「『名を・・・・・・告げよ。扉を通り・・たる者の、真の・・名を』」

「名を告げよ? 入る人間の名前を言えってこと?」

 ラヴィーニアが苦い表情を浮かべたマリオンの顔を覗き込んだ。

「・・・・・・まぁ、そうだろうね」

「なんで、そんな顔してるの? 簡単じゃない?」

「・・・・・・」

 マリオンは無言のまま、目を閉じた。

「それは(まこと)の名前でなくてはならない・・・・・・」

 ラヴィーニアがきょとんとした顔をした。

「あたしの名前、ラヴィーニア・キングって真の名ではないの?」

 彼女の無邪気な物言いに、マリオンがふっと笑った。

「いや、それでいいと思う、君はね」

「君はってことは、あなたはわかんないってこと?」

 やはり無邪気に首をかしげるラヴィーニアに、マリオンはかぶりを振った。

「わかってる・・・・・・。わかってるよ」

 そうよね、とラヴィーニアがうなずいたが、マリオンはまだ渋い表情を崩さない。

「では、名を告げようかね? 二人とも。一刻も早く先へ進まねばならぬ」

 アニスの最後の言葉にマリオンは、きっと顔を上げた。

「どうして、急ぐ? セルブラントか?」


「いいや、グロリアだよ。こちらへ向かっている頃合だろう」

 マリオンは唇をかんだ。

「グロリアには、この扉は開けられないだろうけど・・・・・・。もしも奴が・・・・・・」

 奴、とはもちろんセルブラントのことだ。グロリアは、彼が自分の息子のニコーレを殺したことは知らないのだ。セルブラントが言葉巧みに近づけば、もちろんここへ来て中へ入ろうとするだろう。セルブラントであれば、彼女の息子ニコーレはマリオンに殺された、とも言いかねない。もう今は、これ以上の混乱は、避けたかった。

「さて、マリオン、お前さんの名前は、『どれ』だえ? 真の名前を告げねば入れぬよ?」

 アニスが扉の前に立つマリオンのほうを向いた。

「・・・・・・僕の真の名は・・・・・・」

 迷うマリオンが答えようと口を開いた、その時だった。

『名を告げよ、そなたの真の名を・・・・・・』

 低いがよく通る荘厳な声がどこからともなくあたりに響いた。人間の声とは明らかに違う。

「扉がしゃべっているの?」

 ラヴィーニアが目を丸くし、アニスがうなずいた。

「どうやらそうらしいね。この扉自体が門番なのだろうよ。いいかい? マリオン。たぶん、機会は一度しか与えられないよ。こういうものは、間違いは許さないだろうからね」

 間違いは許されない、とマリオンが口の中でつぶやいた。


「では迷っている者は後にして、わたしから名乗っておこうかね」

 アニスが前へ進み出て、最初に口を開いた。

「わたしの名前は、『占い女、アニス』。名字は、とうの昔に失われておる」

 つられたようにラヴィーニアが前へ進み出て、自分の名前を告げる。

「あ、あたしは、ラヴィーニア・キング。ラヴィとも呼ばれます」

 扉はまだ何も答えない。言い終わった二人の視線が、マリオンへ注がれた。

 マリオンが観念したように深く息を吸った。

「僕の名前は、マリオン。名字は捨てた。称号は・・・・・・」

 いったんそこで言葉を切ると、マリオンは目を伏せた。

「称号は・・・・・・ない」

 ラヴィーニアが驚いたようにマリオンの顔を改めて見た。さきほど名字はローセングレーンだと、アニスが言ったばかりではないのか? それが彼の真の名になりうるのだろうか? 


「ねぇ、大丈夫なの?」

 ラヴィーニアは、隣に立つアニスに小声で尋ねた。

「彼はちゃんとわかっている、大丈夫」

 アニスは自信を持ってうなずいた。そしてその正しい答えが、彼にとって苦く屈辱的な答えであった、ということもアニスは知っていた。魔術師である彼にとって、称号がないのは屈辱に等しい。本来ならば、『魔術師マリオン』と名乗るべきで、それが彼の真の名になるはずだからだ。

 それは魔術がどれだけうまく使えるかどうか、と言うこととはまるで別の問題だった。彼より数段劣る魔術師の真の名に『魔術師』という称号がつくことも稀ではない。だが、彼は知っている。自分にその称号を名乗る資格が、まだないことを。


 彼は唇をかんで、自分の名乗った結果を待った。

「占い女、アニス。ラヴィーニア・キング。マリオン。三名の者、ようこそ、竜の神殿へ」

 声が告げると同時に、白い扉が突然光を放ち、そして目の前から忽然とかき消えた。三人の目の前には、白い石造りの広大な広間が広がっていた。天井は地下にあるとは思えないほど高く、あちこちに白い柱が立つだけであっさりとした白い床が延々と続いている。あまりに広間が広大すぎて、この奥がどうなっているのか霞んでいてよく解らない。

「扉、開かなかったわ。なくなっちゃったの?」

 ラヴィーニアが目を丸くしているが、マリオンがかぶりを振った。

「いいや、違う。僕たちが扉を抜けて、中へ入ったんだ」

 ラヴィーニアが思わず振り向くと、マリオンの言葉どおり、自分たちの後ろに先ほどまで前にあった白い扉がそびえているのが見えた。すごいわね、とラヴィーニアが顔を前に戻して声をかけようとしたとき、マリオンの絶叫があたりに響き渡った。


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