一話
ベッドから落ちたと思ったら、空の中を落ちていた。
薄い青と桃色の空を緩やかに落ちて行きながら、ああ、いつも通りに布団に寝ていればよかったと奈緒は思う。布団だったら、そのままころころ床を転がって、壁に突き当れば終わりだったのに。
けれど、奈緒だってベッドに寝てみたかったのだ。
思い起こせば、あれは一ヶ月前のことである。
「お姉ちゃん、ベッドはどうするの? 向こうに持って行くの?」
県外の大学の進学が決まった彩の荷造りを手伝いながら奈緒は問いかけた。白い水玉模様に水色のカバーがかかったベッドは幼い頃からの奈緒の憧れだった。
「ううん。置いて行くよ。帰ってきたときに寝るとこないしさ。って言っても、どうせ私がいないときは部屋のこっち側だって全部奈緒ちゃんのになるんだよ」
彩は口元に片手を当てて、「いよっ! 奈緒ちゃん! おめでとさん!」と変なかけ声を出す。
「晴れてこれで、奈緒ちゃんもこんなに広いお部屋の住人だね! なんということでしょう! ビフォアアフター!」
「意味がわからないよ、お姉ちゃん。それに部屋が広くなってもあんまりうれしくはないかな」
「そっかあ。そうだよね。いくら部屋が広くなったって、大好きなお姉ちゃんがいなくなったら寂しいよね」
彩はため息をつく。
「だって、私もすごく寂しいもん。憧れの一人暮らしって言っても、こんなにかわいい妹を置いてあんなに遠くまで行くなんて、心が張り裂けそうに苦しいもん」
言いながらも、彩は涙目になっていく。彩の言う「あんな遠く」とは隣の県のことであり、鈍行列車なら三時間、新幹線なら三十分もかからない距離にあるが、それでもいつでも会える今に比べれば、どこだって遠いことに変わりはない。
「って自分で言っててすごく悲しくなってきた! 私、絶対ホームシックになる! ねえ、毎晩電話していい? 絶対するから、いいよね? 奈緒ちゃん!」
「ねえ、お姉ちゃん。電話はもちろんいいんだけど」
「うん。何?」
「このベッド、わたしが寝てもいい?」
「ああ、こっち側で寝たいんだったら、布団持って来ればいいじゃない」
「そうじゃなくて、ベッドに寝てみたいんだよ」
「それはだめだよ。奈緒ちゃん。お姉ちゃんとしてあえて心を鬼にしていうけど、無理! 奈緒ちゃんには絶対無理!」
「お姉ちゃん。ひどい。そこまで否定しなくてもいいのに」
「全力で否定するよ。だって、奈緒ちゃんの寝相悪すぎじゃない。私がベッドに変えて一緒に寝た日、どうなったか覚えている?」
真顔で見据えられて、奈緒は思わずあさっての方向を見る。
「……お姉ちゃんを蹴り飛ばして、ベッドから落としました」
「ほら、今度はもう、奈緒ちゃんに蹴られながらも、奈緒ちゃんを守り通した私はいないんだよ。それに、今だって、布団から転がりまくってるじゃない」
「それは、そうだけど」
奈緒の寝相は悪いどころか極悪で自分の布団で目覚めたことはほとんどない。大抵は部屋の隅で目が覚めるため、夜中に目を覚ました彩が毛布か布団をかけてくれるのが常だった。一応、冬場は風邪防止のために、着る毛布を着て寝ることにしている。
ついでに言えば、修学旅行では同室の子に爆笑されて記念撮影されるほど(しかも動画だった)、夜中に転がり続けた実績さえ持っている。
「断言しよう。奈緒ちゃんは、絶対にベッドから落ちる! 落ちる方に私の乙女ゲーコレクションを賭けてもいい! 悪いことは言わないからやめときなって。ベッドから落ちたら結構痛いんだから。奈緒ちゃんに蹴り落とされた日を除いて、私だっていままでの人生で二回くらい落ちたけど、痛いわ、情けないわで、一日中ブルーだったよ」
「お姉ちゃんも、落ちたことがあるの?」
「そうだよ。あのとき、奈緒ちゃんは熟睡していたから知らないだろうけどね。悪いことは言わないから、ベッドで寝るのだけはやめておきな」
「うん。わかった。お姉ちゃん」
「よろしい。ああ、もう、こんな不憫な妹を置いていくなんて、本当に心配で心配で、っていうか、私が寂しいし、ああもう、なんで県内に行きたい学部がなかったんだろ!」
また涙ぐみながら叫び始めた彩に「うん、うん」とうなずきながら、奈緒はそれでも憧れの目をベッドに向ける。
ああ、ふわふわでふかふかのベッド。いくら寝相が悪いといっても、一生に一度くらいは、そこでぐっすり寝てみたい。
もちろん、彩の言うことをきちんと聞いておけばよかったのだ。三歳上の姉はやや落ち着きがないものの、アドバイスは常に的確なのだから。
彩が引っ越して一ヶ月、奈緒は寂しくてたまらなかった。仕切りのカーテンを開ければいつも「お姉ちゃん」がいたのに。学校であったこと、楽しかったこと、つらかったこと、ドラマの話、漫画の話。時には一緒にゲームをしながら、話はいつまでも尽きなくて、週末はいつも二人で寝不足だった。毎晩涙声で電話してきてくれる彩と話していたら、余計にその寂しさがつのった。
しかも、昨夜は土曜日だった。夜更かししてもいい夜におもしろいゲームを勧められたらやりこんでしまうのは仕方ない。
『そういえばPCにダウンロードしたゲームがあるよ。基本ミステリだし、あんまり甘すぎないから奈緒ちゃんでもおもしろいと思う。あー、でも、ルートによってはエンディングにホラーっぽいのもあるから、気をつけて。わりと怖かったよ』
彩が勧めてくれたゲームはおもしろくはあったが、ホラーっぽいどころかホラー満載だった。続きが気になってやめられないままにプレイし続け、気が付けば草木も眠る丑三つ時になっていた。ゲームはまだ途中ではあるが、さすがに眠い。だが、一人で寝るのはちょっと怖い。
そこで、奈緒は考えた。
「お姉ちゃんのベッドで寝てみよう」
そうすれば怖いのも我慢できる。彩がいなくなった悲しみや切なさもきっと、耐えられる。それに、単にベッドで寝てみたかっただけ、というのもある。
両親はとっくに寝ているこの時間、ベッドで寝よう、と決断した奈緒を阻むものは何もなかった。
念のためにベッド横に布団をもってきて、さらにクッションも並べる。
こうしておけば、たとえ落ちても痛くないだろう。階下の両親も、たとえ奈緒がベッドから落ちたって、気づかないはずだ。
それに、今日こそは奇跡が起きて、寝相だって悪くないかもしれない。
だが、結局、奇跡は起きなかった。いつも通り寝相が悪かった奈緒はベッドから落ちたのだ。
そんなことをぼんやり思い出しながら――きっと夢の中とはいえ、寝起きというのはぼんやりしているはずだから――空の中を落ちていく。薄い青色と桃色の混じった、夜明けの空。ああ、きれい、と思いながらも地面に叩きつけられたら痛いだろうなあ、とも思う。
「なんていうことだ! 空から女の子が!」
どこかで聞いたような台詞だと思った瞬間、「俺はずっと、この日が来るのを待っていた! いまこそ、俺が受け止めるんだああああ!」とハイテンションな声もする。
――こんな変なテンションの人に受け止められたくない。
失礼なことを思いながら、両手をお姫様抱っこの体勢に構えて待つ、声の主を見下ろした。
顔に見覚えがある。
この顔は、ええと、食堂で大食いチャレンジをしたり、自転車で疾走しながらパンを食べ続けていたりした――。
「芝、くん?」
「え? 俺のこと、知ってんの?」
彼はきょとんとした顔になる。
そのまま体は落下して、彼の腕の中へすとんと納まった。落ちた体は自分のものとは思えないほどに軽く、受け止めてくれた腕の中でふわふわと浮き上がっては、また落ちる。
何度かふわふわと腕の中ではねたところで、突然、体が重くなった。
「だ、大丈夫!?」
苦しげな表情になりながらも、それでも彼は奈緒を地面に落とさなかった。
「問題ない! お姫様抱っこくらいできないで何が男だ! でも、もう下ろしていいかな!?」
「もちろんだよ」
答えると、ゆっくりと降ろされた。
「助けてくれて、ありがとう。このまま地面に激突するかと思ったよ」
「いやいや、礼なんていいって。空から落ちてきた女の子を受け止めるって、俺の昔からの夢だったんだ」
「そうなの? 変わった夢だね。それより、芝くん、腕、大丈夫?」
「ああ、これでも鍛えてるから大丈夫だ。ところで、なんで俺のこと知ってんの? あ、もしかして、俺のことずっと見てたとか、そういうの!?」
「ずっと見てはないけど、時々見てたよ。食堂とか廊下で。芝くんって、有名だから」
「いやあ、なんだか照れるなあ」
「大食いの芝」――下の名前まではさすがに知らない――は照れくさそうに笑う。
彼は「大盛りどんぶり完食二十分チャレンジ――時間内に食べたら代金無料&食券一週間分プレゼント」でメニューを変えては毎日完勝、どんぶりメニューを完全制覇し、ついには清上高校入学一ヶ月で「大盛りどんぶり完食二十分チャレンジ」制度自体を廃止させてしまった恐ろしい一年生として名を馳せた人物である。
「あのチャレンジ、なくなったのが残念だよなあ。せっかく昼食代浮かせると思ったのに」
「そうだね。ただ、元々、学生に早食いを強要するのは良くないって意見もあったみたいだから、ちょうどよかったかもしれないよ」
「そっか。俺はしっかりよく噛んで食ってたけど、むせて呼吸困難起こしたあげく、倒れた奴もいるらしいからな。確かに体には良くないかもしれない。それで、ええと、何組の何さんだっけ? リボンが赤だし、俺と同じ一年だよな?」
「あ、うん。一年八組の浅川奈緒です」
言われて初めて気づいた。夢の中だというのに、奈緒はきちんと制服を着ていたのである。ダークグレイの上着に、落ち着いた赤のリボン。ダークグレイのタータンチェックスカート。髪だって、いつものように、茶色の髪ゴムで二つに結ってある。
彼もまた、同じ制服を着ていた。もちろん、男子なのだから赤いネクタイを身に着け、タータンチェックのズボンを履いている。
「俺、二組の芝徹。って俺のことは知ってたんだっけ?」
「うん。ただ、下の名前は知らなかったよ」
「俺も、浅川さんのこと、いままで知らなかったんだけど」
お互いがお互いの顔を見て、首をかしげる。
「――これ、夢なんだよな」
「でも、どっちの夢になるんだろ」
言いながらも、よくわからなくなってくる。
「芝くんも上から落ちてきたの?」
「落ちたっていうか、そこに転がってた」
徹が柔らかそうな芝生を指し示す。
「俺、夜中に腹が減って台所に行こうとして階段から落ちたんだよ。それで目が覚めたとき、浅川さんが落ちてくるのが見えたから、これは受け止めなきゃって思ったんだけどさ。って浅川さん!」
徹ははっとしたように奈緒を見る。
「そういえば、俺がお姫様抱っこしてもよかった!? まさか、最初のお姫様抱っこは絶対に好きな人にしてもらいたい、とかいう夢でもあった!? 俺、この夢で、浅川さんの夢をぶっ壊したとかないよな!?」
勢いこんで聞かれて奈緒は首を振る。
「ううん。大丈夫。そんな夢なんて、ぜんぜん持ってないよ」
「なんで!? 好きな人にお姫様抱っこしてもらうって、女の子の全世界共通の夢じゃないのか!?」
「そんなの聞いたこともないよ。どこ情報?」
「え……」
なぜか徹は元気がなくなる。
「いや、俺の考える女の子の、全世界共通の夢なんだけど」
「ロマンチストなんだね。芝くん。少なくともわたしには当てはまらないから安心して。ところで、目の前のあれなんだけど」
奈緒が指差した方向を見て、徹はなぜか後ずさる。
「あ、ああ、あれ。あれって、その、立派な、建物だよな」
徹が転がっていたらしい芝生の傍には石畳の小道が続き、その突き当りに灰色の石造りの洋館があった。
「あの洋館、すごく見覚えがあるんだよね。って、芝くん、どこに行くの?」
徹は洋館とは逆方向に歩き出す。
「い、いや、こっち行ったら、何があるのかなって」
「それより、あの洋館に入ってみない? 誰かいるかもしれないし」
「嫌だ!」
徹の顔が引きつった。
「なんで?」
「だ、だってさ。……怖い、じゃん」
「なんで怖いの?」
「俺、今日寝る前にホラーゲームやってたんだよ。それに出てきた洋館に、あれ、すごい似てるんだ。入ったら最後、殺されるまで出られないんじゃないかって、思ってさ。夢でも殺されるって嫌だよ。だって、怖いじゃん。ってどこ行くんだよ!」
「だから、あの洋館に行ってみるよ。ここでじっとしてても仕方ないし」
「浅川さん怖くないの!?」
「うん。だって、夢だし」
奈緒が歩き出すと、徹は慌てたように追いかけてくる。
「怖かったら、芝くんは待っていたらいいよ。とりあえず、様子だけ見てくるから」
「いや、浅川さんだけ行かせるわけにはいかないだろ。俺も一人にされたら怖いし!」
最後が本音が気がするが、奈緒も徹が一緒に来てくれた方が心強い。
「芝くんがやってたゲームって、もしかして、『スリーピング・ビューティー』?」
「うん。適当にネットしてたらHP見つけて、おもしろそうだから、ダウンロードした。女向けだからそんなに怖くないかと思ったら結構怖くてさ。浅川さんもやってたんだ」
「途中までだけどね。グロさはないけど、えげつなさがすごいよね」
「そうだな。人が信用できなくなるっていうか」
「ルートによって犯人変わるから、余計に怖いよね。芝くんは全部クリアしたの?」
「俺はレイルートの途中」
「ああ、あのえげつないヤンデレルート」
徹が立ち止まる。
「あれ、ごめんね。ネタバレしちゃった?」
「い、いや、ネタバレしてくれてよかったよ。あの温厚そうなレイさんが、ヤンデレになるのか?」
「うん。ギャップがありすぎて、すごい怖かった。最後、ずっと笑ってるんだもん」
「へ、へえ」
玄関に続く石の階段の前で立ち止まる。傍に来ると灰色の洋館は妙な圧迫感があった。
「すごいなあ。本当に、ゲームのイラストとそっくりだね。こんなリアルな夢は初めて見たかも」
「……うん」
「じゃあ、行こうか。とりあえず、あのドアノッカーを叩いてみるね」
奈緒が階段を上ろうとすると、徹に袖を引っ張られる。
「あのさ。袖、持ってていいか?」
「いいけど、別にあのゲーム、ドアを開けたからってカラスも凶暴な犬もゾンビも出てこなかったよ」
「いや、でも、これ夢なんだから、なんでもありだろ!? 俺、よく見るんだよ! ドア開けた途端、カラスや犬や猫やゾンビが襲ってくるような、すごい怖い夢!」
「大丈夫だよ。夢なんだから、襲われても死なないって」
「でも、怖いものは怖いだろ!」
右の袖をつかまれたまま、階段を上りきる。
「なんか、このドアノッカー、変わった顔だね」
「変わった顔っていうか、悪魔の顔だろ!?」
「うん。おもしろいよね」
「いや、なんでドアノッカーが悪魔なんだよ! ゲームにこんなのなかっただろ! ここまで怖くしなくてもいいだろ!」
「芝くん。ノッカー、叩いてみるから、手を離してくれる?」
そのまま金具をつかみ、三度叩いた。
しばらく待った。何の応答もない。
同じことを三度繰り返して、ドアノブに手をかける。
「な、何してるんだよ。浅川さん!」
「開けてみるんだよ。誰かいるかもしれないし」
「やめて! 絶対、ゾンビが出てくる!」
「だから、そういうゲームじゃないって」
徹の叫びを無視してノブを動かすと、抵抗はなく、そのまま開いた。
「すみません。誰かいらっしゃいますか」
声をかけながら、中をのぞいてみる。これが夢とはいえ、誰かの家なのだから、勝手に上がり込むわけにはいかない。
そう思いながら、照明の輝く玄関ホールを見て、奈緒は目を見開いた。
「ねえ、芝くん。誰か倒れてる!」
ホールの真ん中に白い服を着た人が倒れている。
「は? おい、ちょっとゾンビだったらどうするんだよ! ゾンビって倒れてたと思ったら、いきなり襲ってくるだろ!」
奈緒が駆け寄ると、後から「ゾンビ! ゾンビじゃありませんように!」と叫びながら、徹が追いかけてくる。
その人の前に立って、奈緒は息を飲んだ。
美しい人が両手を組み合わせて眠っている。真っ白な刺繍入りのドレスはまるで花嫁衣裳のようだ。
長く緩やかに巻かれた黒髪。赤い唇。
――ああ、なんて美しい。
「スリーピング・ビューティー……」
「でも、こいつ、男だろ?」
「え?」
美しい人が眉を寄せて、目を開く。
「誰だ、お前ら」
機嫌の悪そうな低い声は、まぎれもなく男の声だった。