第六章 - 青春時代① 第一回サマー・スクール Ep.3:ブラジャー・デビュー!
<エリスのサマー旅行記⑦ お胸が敏感で大変です>
あれから夜にレクリエーションを受けた彼らは、集まった子供たちで自己紹介し合ったりして友好を深めた後、各自部屋に戻って休眠をとった。その間テムバはエリスに『行き過ぎた診察だった』と謝って、彼から『ううん、いいの』とお許しの言葉をいただいていたが、それでも彼らの関係はギクシャクしてたし、部屋の空気は重かった。ティエンジェは『早く仲直りしてくれ~』と願いながら眠りに就いた。
*
次の日の月曜日、エリスたち新参入組は英語の実力を見るための『エントリー・テスト』を受けていた。発音の正確性を測る『スピーキング』、文法読解力を測る『リーディング』、文章作成能力を測る『ライディング』に分けて、午前中いっぱいテストされた。
英語のレベルには7段階あり、下からA0が完全なる初心者、A1が簡単な単語や挨拶ができる程度、A2が短い文章で基本的な日常会話ができる程度、B1が旅行や仕事で困らない程度、B2が自然なビジネス会話ができる程度、C1が流暢に専門的な議論ができる程度、C2がネイティブ相当となる。
テストの結果、彼らの英語レベルはエリスがB1、ニコラもB1、テムバがB2、ルカシュがA2、ミケルもA2だった。彼らは明日から、自分たちのレベルに見合ったクラスで英語を学ぶことになり、このメンバーではテムバだけが上級者クラス、他はみんな中級者クラスだった(ちなみにティエンジェはスピーキングが足を引っ張っているせいでA2レベルである)。
午後からはテニスをした彼らは、火照った身体を冷ましながら夕食を摂っていた。みんな楽しく談笑しながらも薄々気づいていた、あれからエリスの調子がおかしいことに……今日も少し元気がないし、ときどきボーっとして上の空だった。
その原因も何となく分かっていた――エリスはときどき顔を顰めて胸を押さえたり、すぐに「疲れたから見学してるね」と言って試合を離脱したりしていたのだ。恐らくホルモンの影響がピークを迎えており、衣服で擦れるだけでも刺激になるほど、胸が敏感になっているようだった。ニコラは何とかしてあげたかったが、個人的かつ繊細な問題だったので、今はそっとしておくことにした。
*
次の日の火曜日、午前中の授業が終わって昼食を摂った後だった。苦しそうに息を荒げたエリスが来て、ニコラをトイレの個室へと呼び出した。ニコラは嫌な予感しかしなかったが、親友が辛そうにしているのをこれ以上見てられなかったので、仕方なく彼に同行することにした。
エリスはニコラを個室に引き込むなり、トイレの鍵を締めて、戸惑う親友を壁ドンで抑え込む。「え、エリー? い、いきなりナム?」ニコラがおどけて反応するも、エリスは「に、ニコ……」と荒く呼吸を繰り返すだけだ。ヤバいヤバいヤバい! この状況はヤバいぞ――。「どうしたん? 胸、擦れて辛いのか?」
「ニコ……僕のこと……病気じゃないって……言ってくれたよね?」エリスがTシャツを捲り上げていく。「これでも僕……病気じゃない?」突如ニコラの目に、腫れて赤くなった皮膚が飛び込んできた。そのあまりの痛々しさに、思わず顔を顰めてしまうニコラ。うわっ……痛ったそ……この短期間でこんなんなっちまったのか……。そう思った彼だったが、昨日テムバがしてしまった失敗――相談者に不用意な不安感を感じさせる失敗――を避けるためにも、気丈な態度でこう励ますのだった。
「安心しろよエリー。お前は病気なんかじゃないって。これは度重なる摩擦のせいで、肌のバリア機能が弱ってるだけなんだ。だから何かで保護さえすれば……そうだ! 良い物があるぜ! ちょっと待ってろよ――」彼は突然何かを閃いたようで、ポケットから何やら包み紙みたいな物を取り出しては、それをペリッと引き裂いて中からシールみたいな物を出した。
「ちょっと変な感じかもしれないけど、我慢しろよ?」ニコラが持っていたのは『絆創膏』だった。彼はそれを親友の身体の患部に貼って、外界との間に人工的なバリアを築いてやった。「これで多少マシになると思うぜ」そう言って笑うニコラは、続いてエリスのトップスを整えてやりながら、「だから、安心してキャンプを楽しめよ。テムバともちゃんと仲直りしてさ」と励ました。
「うん、ありがとう……」そう言ったエリスだったが、まだ落ち込んでいるようだ。「でも僕……今はこれでいいかもしれないけど、明日からはどうしよう? ずっと絆創膏貼ってなきゃいけないのかな? もし絆創膏がなくなっちゃったら――」彼の目から涙が零れる。「僕……こんなこと恥ずかしくって……君にしか相談できないよ……」
「大丈夫さ」ニコラがトイレの鍵を開ける。「来いエリー、俺が何とかしてやるよ――」明日への扉が開かれた。
<エリスのサマー旅行記⑧ ブラジャー・デビュー!>
ニコラはエリスを連れて、いつもよくしてくれる女性スタッフのもとを訪れた。彼はもうプライドも何もかもかなぐり捨てて、大人に助けを求めようと決断したのである。彼がスタッフにだいたいの経緯を説明し、「胸、擦れて辛いみたいなんす」と相談しているのを横で見ながら、エリスは途方もない安心感を得るとともに、顔が燃え上がるような恥じらいを覚えた。あうぅ……こんなことになるなら、お薬なんか飲まずに骨粗鬆症になって、骨折した方がよかったのかも――。
その20代後半の女性スタッフは、真剣にニコラの話を聞きながら、時折エリスへと案じの目を寄越しては頷いて、お終いに笑顔でこうアドバイスしてくれた。「そういうことなら任せて! 明日一緒にブラジャーを買いに行きましょう!」
「ぶ、ブラ……?」ニコラとエリスの二人は呆気にとられていた。
*
次の日は水曜日だったので、このサマー・スクールでは多くの場合、午後は近場へ出掛けて学校外施設を利用する日だった(学校外施設の利用には別途費用が掛かる)。その日はディッカー校から南に17kmほど行ったところにあるイーストボーン(Eastbourne)という町の、『トレジャー・アイランド・アドベンチャー・パーク(Treasure Island Adventure Park)』という施設で、アドベンチャー・ゴルフをすることになった。
目的地に到着し、ほとんどの生徒たちがバンから降りたところで、一台だけ発進するバンがあった。みんなウキウキした表情でパークの外観を眺めているのに対し、ニコラだけが気掛かりそうな目で、そのバンを見送っている。エリー、きっと怯えているだろうな……いろんな意味で……もうちょっとの辛抱だぞ! あと少し何とか耐えてくれ――。
「そんなに緊張しないで、きっと良いブラジャーが見つかるわ!」女性スタッフが、隣の座席で震えている生徒の頭を愛撫している。彼女は『キャサリン(Catherine)』という27歳の女性で、このスクールのスタッフとして働くのは、これがまだ二度目だった。それでも成長期の女性の悩みについては熟知していたし、万全のサポートを提供できる自信はあった。もっとも、今優しくグルーミングしてあげている隣の小動物が、厳密には『メス』ではないということを、彼女は半分見落としていた。ちょっと何よコレ、この子の髪サラサラすぎ――。
「ひゃ、ひゃいっ!」未知の小動物のような鳴き声で、辛くも返事したのはエリスだった。バンの中は結構な振動で、胸の痛みは激しさを増す一方だった。決死の思いで気を紛らせてはいたが、油断したら痛みに屈してしまい、幼い子供のように泣いてしまいそうだった。あ、あとにゃんぷん……にゃの……? お、おにぇがい……早くちゅ、ちゅいて……。
「エリスは、好きな人とかいるの?」キャサリンがふと尋ねる。やっぱ恋バナは必須よね! という単純な理由からだった。「しゅ、しゅきにゃひと?」とエリスが呆然としているので、彼女は「そうそう、あのニコラって子は? 彼、あなたのことを親身に相談しにきてくれたでしょ?」と続ける(ちなみにイングランドは2014年3月29日から、スイスでも2022年7月1日から同性婚が認められていたし、2040年の社会ではジェンダー的多様性は充分に認められている)。
エリスは「わ、わかりま、しぇ、しぇん」と答えることしかできなかった。正直、彼は『好き』って気持ちがよく分からなかった。みんなのことが好きだったし、そこに特別な好きなんて、家族を除いてはあるわけがないと――ふと頭に浮かんできたのは、『ダニエル』のことだった。ダニエル、今どうしてるのかな……。今の僕の姿、ダニエルには見せたくないな……。自分のことがちょっとだけ嫌いになって、知らず知らずのうちに涙が零れていた。
「さぁ着いたわよ!」キャサリンが前方を示す。どうやら目的地に着いたようで、バンは立体駐車場の坂道を上っていた。「ここが、この辺りで一番のショッピングモール『The Beacon Eastbourne』よ! ここならきっと可愛いブラジャーが――ってエリス、大丈夫?」ようやくエリスが泣いていることに気づいた彼女が、慌てて介抱する。「よしよし、いい子いい子……男の子でも必要ならブラくらいすればいいのよ? からかってくる子がいたら言って、私がとっちめてやるから!」彼女の慰めはかなり的を得ていたが、今回に関してはやや中心を外していた。
バンは2F駐車場に停車し、エリスはキャサリンに支えられながら、とぼとぼとモール内へと入っていった。バンを降りる際、涙を拭いながら「ありがとう……ございました」と言って、懸命に笑顔を作ろうとするエリスの姿を見ながら、運転手は『あの子のためなら、あと5時間でも運転してられるな』と思った(パークからモールまでは片道5分)。
*
やってきたモールには、『マークス&スペンサー(M&S)』や『H&M』などの有名アパレルショップも入っていたし、探せばティーン向け下着も見つかる算段だった。ただし男の子向けの、それもエリスの体型に合ったブラとなると、ややレアリティが高いかしらね――。そんなことを考えながら歩いていたキャサリンは、まず目に入ってきた『プライマーク(Primark)』というアパレルショップに、とりあえず入ってみることにした。
Primarkはアイルランドのファッション・ブランドで、衣料品やアクセサリー、化粧品、靴などを幅広く取り扱っていて、またキャラクターとのコラボ商品も多数販売する、日本でいう『しまむら』のようなお店だった。煌びやかでいて落ち着いた雰囲気の店内に足を踏み入れ、まずは婦人服コーナーを散策しにいくキャサリン。彼女に付き従うエリスは、バンから降りたことで幾分か刺激から解放されていた。
「エリス、あなたのお母さんは胸が大きい?」歩きながらキャサリンが尋ねると、彼は「うーんと……中くらいです」と答える。中くらいってことは、まぁ平均的ってことでしょうから、きっとBかCカップくらいね? それに彼が飲んでいる薬は成分量が少ないものみたいだから、これから成長したとしてもAカップ程度が妥当かしら――。そんな考慮を重ねていると、婦人服コーナーに着いたので、適当に見繕って買い物カゴに入れていく。えぇっと、これとこれと、これ……えぇい! このハーフカップの白色レースブラも入れちゃえっ!
「とりあえずいくつか選んでみたから、試着して具合を確かめてみましょ!」キャサリンがエリスの手を引き歩き出す――。ちなみに、Primarkはブラに関しては試着可能で、このお店にはユニセックスの試着室もあった。
*
買い物カゴを渡され試着室に閉じ込められたエリスは、上半身裸になって白のレースブラを持ち上げていた。えぇっと……どうやって着ければいいの?「あの……キャス?(キャサリンの愛称。彼女は自己紹介のとき、ぜひそう呼んでと言った) 僕、やり方が分からなくて」彼が呼ぶとキャサリンがカーテンから顔をのぞかせ、熱心に説明を始める。
「まずカップを背中にして、横のベルトをアンダーバストに巻き付けて――いいわよ。そのまま前でホックをちょうどいいところで留めて、できたらカップを前に持ってきて――上出来! あとは肩紐を両肩に引っかけて、肩のところのアジャスターで長さを調節すればいいわ――あっ、調節は私に任せて~……はいっ完成!」エリスが鏡を見ると、ちょっぴり大人びて見える自分自身の姿が映っていた。
「このブラはパッドが入っているから、外部の刺激から胸を守ってくれるわ! それに胸を下から支えるアンダーワイヤーが着いていないタイプだから、締め付けも弱くて長時間の着用も苦じゃないはずよ。難点があるとすれば、レース部分が刺激になることと、Tシャツの上からでもブラが目立ってしまうことね? 着け心地はどーお?」
「す、少し大きいかも……」エリスがモジモジしながら感想を述べる。全体としては悪くない感じだったが、やっぱりSサイズでもカップの中には隙間ができていたし、それが絶妙にバストトップに当たる位置だったので不快だった。「次の試してみます」
*
それからブラトップ(カップ付きインナー)、Tシャツブラ(薄めのカップ&シームレス)、スポーツブラ(ノーパッド&シームレス)などを試したのだが、どれもしっくり来なかった。カップ付きはやっぱりフィットしないし、かと言ってスポブラは締め付けが強いのと、防御力の低さが否めなかった。
最初にカゴに入れた物が全滅だった時点で、キャサリンは「ちょっと待ってて!」と、どこかへ走っていってしまう。エリスは溜息を吐いて、脱いだスポブラを畳んでカゴに戻していた。やっぱり、僕にはブラなんて早かったのかな――。
「これはどう?」戻ってきたキャサリンが持っていたのは、青と白の縞々模様が可愛い、ティーン向けのソフト三角ブラだった。「そこの秋冬物の割引コーナーで――はぁ、はぁ――ラスイチを見つけたの! ふーっ、ふぁーっ――パッドなしで、厚手の生地、綿100%――んっく――裏地は起毛よ――はぁ~! ちょっと走っただけで暑っついわ」
「ありがとう。着てみます」エリスはそのブラを受け取ると、肩紐に両腕を通し、Zカン式のフックで細いサイドベルトを留めた。するとフワフワの起毛裏地が優しく胸を包み込み、それは奇跡的なほどエリスの体型にフィットしていた。「すごく……心地いいです!」喜ぶ彼の笑顔を見ながら汗を拭うキャサリンは、カーテンの隙間から親指を立てた手をのぞかせ、ひと言こう言った。
「キュート!」
*
「お待たせしました」二人がバンに戻ってきた。運転手が挨拶してくれたエリスに対して「やぁ、いい買い物はできたかい?」と聞くと、彼は横髪を持ち上げて首筋を見せながら、「はいっ」と飛びっきりの笑顔を浮かべた。その首元で空色の肩紐がチラリと揺れる。運転手は、『この子のためなら、あと10時間でも待ってられたな』と思った。
運転手「それじゃー行くよー!?」
エリス&キャス「おぉー!」
最高にホットな夏はここからが本番だ!




