第三章 - 実存の形成
彼の生まれ持った資質と育んできた気質が分かったところで、少し『実存主義』という哲学の話をしよう。実存主義によると、これらの性質(資質・気質)はその人の『本質(何者であるかの定義)』ではないそうだ。本質を決めるのはその人の選択と行動であり、それらを決めるのが『実存(Existence)』と呼ばれるものである。
実存とは言わば、その人自身が信念と主体性を持って創造した『生き方』であり、単なる存在(being)とは区別されるものである。つまりエリスと同じ遺伝子(資質)を持って生まれた人間が、必ず彼と同じ性格(気質)を持つとは限らず、当然その人が創造していく実存は、これから彼が創造していく実存とは異なるのだ。
このように実存および本質は、先天的なものだけでなく、後天的なものにも多大な影響を受ける。だからエリスがこの時点で、優しい心を持っていられるのは、ひとえに彼が置かれた家庭環境や、両親を始めとする身近な人たちの人格のおかげである。ただこれから先、彼が出会う全ての人間が善人であるはずがない。これが私の思考実験であるとしても、それはあまりに現実的ではないのだ。
よって私がしてあげられるアシストはここまでだ。ここからがいよいよ、彼の人生の本番となる。
<エリスの課題① オトコ?オンナ?>
彼が13歳を迎えた誕生日――毎年恒例のバースデー・パーティーを催して、お家に友達を招いて楽しくゲームしたり、ご馳走を食べたりした日――の夜だった、両親は彼をリビングに呼びつけて、彼に『彼自身の持つ無精巣症という疾患のこと』を言って聞かせた。何でも、ホルモンという物質が生成できないから、このままでは第二次性徴が起こらず、身体が大人になれないと言うのだ。
また骨密度低下の恐れもあるため、健康の面も考えていずれは、『ホルモン治療』を受けなければならないだろう、とも……。そして最後に父親は、彼のそばまで来てこう伝えた。
「いいかいエリス。これは君にとっての最初の難しい決断だ。もし君が『男の子』になりたいなら、私たちは精一杯それをサポートするし、『女の子』になりたいなら、もちろんそれだって構わない――私たちは全力でサポートするよ。だからこれから自分でよく考えて、15歳の誕生日までに答えを出しなさい。いいね?」
言いながら父親は、彼が女の子になりたがってくれるよう祈っていた。なぜならスイスには徴兵制度があり、男性は18歳から34歳のうちに合計260日間の兵役義務を全うする必要があったからだ(女性は任意志願)。そして兵役期間に入った市民は、国から『予備役軍人』として扱われ、一つの自動小銃(アサルトライフル『SIG SG 550』)を貸与されることになる。
※弾丸は有事および訓練のときにのみ支給され、原則家庭での保管は禁止ではあるのだが、スイスは世界有数の銃社会でもあるので、一般人でもライセンスさえあれば銃火器を購入可能であり、アクセスは比較的容易と言える。
父親自身も数年前まで兵役に服しており、以来ずっと彼の書斎の棚には自動小銃が保管されていた(銃自体は退役後に返却するのだが、ライセンスがあれば安値で買い戻す権利が与えられるので、大抵の人はそうする)。このような理由からスイスでは、銃による自殺率がかなり高く、その95%が男性でもあった。つまるところ彼は父親として、我が子にそんな物の使い方など知ってほしくはなかったのである。
頭を撫でられたエリスは、「うん、分かった」とコックリ頷いてから、「おやすみなさい」と静かに自室へ帰っていった。その儚げな後ろ姿を見ながら父親は、幼い我が子に酷な運命を背負わせてしまったな、と自責の念を覚えていた――。
その日初めて、エリスは眠れぬ夜を経験した。彼は暗闇を見つめながら、ただ一生懸命に考えた。自分がどうしたいのか、どうなりたいのか。男の子か、女の子か。考えて考えて、考え尽くしたけど、その答えは出なかった。やがて考え疲れた彼は、いつの間にか眠りに落ちていた。
<エリスの課題② 学校インタビュー前編>
エリスは次の日から、隙間時間を見つけては、中学校の仲間たちに突撃インタビューを行うようになった。男の子と女の子それぞれに、自分の性別についてどう思うか聞いてみたのだ。
ニコラの答えはこうだった。「あんっ? そりゃ男はサイコーだろ! 立ってションベンもできっしな! 女なんかギャーギャーうるせーし! なぁエリー、何悩んでっか知んねーけど、まぁまぁお菓子でも食って元気だせよ」差し出されたハチミツ・キャンディーを取ると、ネズミ捕りみないなバネ式トラップが作動して、エリスの指がペチンッと挟まれた。
ソフィーの答えはこうだった。「あらワタクシ、女として――そう、プリンセスとして――生まれて幸せですわ! 間違っても、ニコラのような野蛮な男には生まれたくありませんもの! そんなの……悲劇ですわっ! あらっ? エリス、背中に何か付いてましてよ?」彼女は背中から一枚の紙を取ってくれた。そこには『僕を蹴って!』と書いてあった。ニ、ニコのやつぅ――。
エミリーの答えはこうだった。「アタシはちょっと男の子にも憧れるな! 空手やってると、どうしても体格負けしちゃうこともあるから……。あでも、ミニスカ履けなくなるのはカンベンかも? ま、エリスみたいに似合っちゃう子も、たまにいるんだけどねっ! アハハッ!」エリスは股間にゾクッと悪寒が走るのを感じた。と言うのも彼は以前、エミリーたち女の子グループにロッカールームへと呼び出されて、ミニスカートを着てほしいと頼まれたことがあったのだ。
彼は快く承諾して、その日一日をミニスカ+ニーハイで過ごしたのだが、そのとき学校のみんなにドン引きされたのだ(似合いすぎていて)。ニコラはひと目見るなり彼に駆け寄り、「お、おいエリー。その格好はどうした!? あぁ何て酷い……(きっとソフィーの仕業だな!)。も、もうそんな格好するなよな(俺以外の前では)!」と、怒った様子で彼を更衣室に連れていき、彼を元の服に着替えさせることで事態を収拾させた。
ちなみにスイスの多くの私立学校では、制服がなく私服で登校するのだが、最低限のマナーとして露出の多い服装は禁止されている。しかしこのとき先生たちは、すでにエリスの先天的な状態を親から報告されていたし、それに彼の人間性(頼まれたら断らない性格)も重々承知していたので、また誰かからイタズラされているのだろうと、見て見ぬふりをしていた。
<エリスの課題③ 学校インタビュー後編>
ダニエルの答えはこうだった。「僕は正直、女の子がよかったな。だって僕の父さん、身体中モジャモジャなのに、頭はツルッツルなんだもん……。僕も将来あんなふうになると思うと……ダメだ。想像するとオエーッって感じ。男って女を引き立てるために、わざと醜くなっていくみたいだ。女はみんな当たりクジを引いたんだ――」
「――ちょ、あんたバカァ!?」たまさか近くにいたキアラが、いきなり二人の会話に入ってきた。本当にたまたま偶然だろうが、その日の彼女はオレンジ髪でツインテールだった。「今のは聞き捨てならないな! 女が当たりクジだって!? 冗談ポイよ! あんたに一度、生理痛の苦しみを味わわせてあげたいわ! 毛くらい人工的にどうにでもできるでしょうが! 本当につまんない男だな!」全くもって図らずとも思いがけず、その日は彼女の精神崩壊月間だったようだ。
「ごめんねキアラ、ダニエルも悪気があったわけじゃないと思うんだ。だから許してあげて? あっ、そうだ――」エリスは鞄からCDを取り出してキアラに差し出す。「これ、先週貸してくれた『Sonata Arctica』のベストアルバム。ありがとう、すっごくよかったよ! 煌びやかで、旋律的で……」
「だろぉ? やっぱソナタはメロスピの金字塔だよなぁ!」CDを受け取ったキアラは、先ほどとは打って変わってご機嫌そうだ。「お嬢のお気に召すと思ったんだよね~♪」
「うん! 特に『Fullmoon』って曲が興味深かったかも? あれって満月の夜オオカミ男に変身しちゃう男性が、ただ女性を襲ってしまうってだけの歌じゃない気がする……もしかすると二人は恋人同士なんじゃないかな……だって、男性がオオカミ男になっちゃうのは初めてじゃないみたいだし……でもそう思うと、なんだか切ないお話だよね? どんなに愛し合っていても二人は毎月、満月の日に離ればなれになってしまうんだもん」エリスが涙ぐみながら話していると、前方の二人が耳を塞いでいるのに気が付く。「僕、変なこと言ったかな?」
「今は毛むくじゃら男(月経に苦しむ女)の話なんか聞きたくなーいっ!」ダニエルとキアラが口を揃えて苦言を呈す。
「えぇっ! 僕そんな話したぁ!?」そのときばかりは彼の話題選びが、逆の意味で的確すぎた。
<エリスの課題④ 言えない苦しみ>
その日の放課後、珍しくダニエルが遊びに誘ってくれたので、エリスは初めて彼の家にお邪魔することになった。どんな家かな? どんな部屋かな? そうワクワクしながら駐輪場まで歩いていると、ふとダニエルがポツンと呟いた。「エリス、君もしかして自分の性同一性のことで悩んでる?」突然のことだったので、エリスは呆気に取られて、ただ「う、うん……」と正直に答えるしかなかった。
「だったらね、悪いことは言わない。女を選びなよ」ダニエルは決然とした態度で言った。「キアラとか他の女子たちはいろいろ文句言ってるだろうけど、綺麗ごと抜きにしてさ、男として生きるのって、サイアクだと思うよ」
「どうして、そう思うの?」エリスはそこでやっと気づいた。ダニエルの様子がいつもと違っていることに。すごく心配で、不安になった。
「僕はただ……そう思うんだ……そうだって、知ってるんだ……」ダニエルは言葉を嚙み殺しているようだった。このとき彼は明かさなかったが、実はダニエルの父親は酒癖が悪く、ときどき酔って家族に暴言を吐いたり、暴力を振るったりしていたのだ。その経験が彼の観念を歪めてしまっていたのである。「だから……どうか女の子になってエリス……君は外見もそんなだし、きっと差別とか受けないと思うよ――」震える彼の左手を暖かな何かが包み込んだ。
「でも僕は知ってるよ?」エリスが彼の手を握って微笑んでいた。「ダニエルが素敵な男の子だってことっ」その言葉を聞いて、彼は思わず泣き出してしまった。こんなの……反則だ……僕の方が君を救ってあげたかったのに……たったひと言で君は、僕の心をこんなにも軽くしちゃうなんて――。
「そんな君にだから――えっく――真面目に助言してるんだ……」ダニエルは涙を拭いながら必死に訴えかける。「僕、君に後悔したり苦しんでほしくないんだ……でもできることなら――ぐすんっ――君には今のままでいてほしい。僕たちみたいな『普通の人』になって、ワンサイドな見方しかできなくなってほしくないんだ」
「ありがとう、たくさん心配してくれて。僕、きっと後悔しない道を見つけるね? だから――」エリスは彼の手を引いて、再び前に進みだす。「さぁ行こっ! 僕、ダニエルのお家に行くの待ちきれないよ!」
<エリスの課題⑤ 男の娘って何ですか?>
「ただいま」ダニエルが玄関戸を開けると、ちょうど彼の母親が廊下で掃除機をかけているところだった。母親は息子の帰宅に気づくと掃除機を止め、静かに「おかえりなさい」と笑った。「ママ。今日は学校の友達を連れてきたんだ――さぁ、入って」ダニエルが後ろにいる誰かを招き入れると、彼女の目の前に光が飛び込んできた。
「こんにちは」光が揺れ動きながら、澄んだ音を発している。「はじめまして。僕ダニエルの友達のエリスといいます。あの……もしお邪魔じゃなければ、少し遊んでいっても構いませんか?」そこまで来てようやく、彼女はそこにいるのが人であると認識できた。
「まぁ、まぁまぁ!」彼女は全てを悟った――今日ついに、息子がガールフレンドを連れてきたのだと! それも相手は、超一級の国宝級美少女なのだと――。「どうぞ、いらっしゃいエリス。もちろん大歓迎よ!」彼女は掃除機をほったらかして玄関まで駆けつけると、その眩い光をムギューっと抱きしめた。それから戸惑うエリスの顔を両手で包み込んで、しばらく見つめて涙ぐむ。
「ママやめてよ! エリスが困ってるよ?」ダニエルが忠告すると、母親はやっと我に返って、「そうね、ごめんなさい」と手を離した。エリスは『優しそうなお母さんだな~』と思うばかりで、彼女の腕まくりした右肘の側面に、大きな青痣ができているのには気づかなかった。
「ダニエルと仲良くしてくれてありがとう。今日はどうか楽しんでいってね」そう言うと母親は奥のキッチンに消えていく。「ちょうどクッキーを焼いているところなの~。あとでミルクと一緒に持っていくわね~」
*
それからエリスはダニエルに連れられ、二階にある彼の部屋を訪れた。一歩足を踏み入れるなり、エリスが感嘆の声をもらす。「うわぁ~、綺麗な絵がいっぱい!」彼の部屋はそれほど広くはないが、落ち着いた雰囲気で整頓されており、ベッドと学習机とPCデスクがあるだけの、大人っぽい部屋だった。ただ壁には彼の個性が反映されており、いろんなアニメや漫画のキャラクターの絵が飾られていた。それらはカラー印刷されたものではなく、全て鉛筆と色鉛筆で手描きされたものに見受けられる。「これ全部、君が描いたの?」
「う、うん……」ダニエルが照れくさそう笑い、ベッドの脇に鞄を下す。「僕、漫画イラストレーターになるのが夢だから」そう、彼はいつもスケッチブックでデッサンの練習をしており、特にいい出来だった力作を、こうして額縁に入れて飾っていたのである。それらはどれも、中学生が描いたとは思えないほどの秀作であった。
「素敵な夢だね? きっと叶うよ!」そうエリスに励まされると、本当に叶うような気がしてきて、ダニエルは自信と羞恥心が入り混じった、くすぐったい気持ちになった。
「そ、それで……」彼は照れ隠しするために本題に入った。「今日君を誘ったのはね、これを見てほしかったからなんだ」彼が一枚の絵を壁から取り上げる。そこには栗色の長髪に白のワンピースドレスを着た、清楚なキャラクターが描かれていた。「彼の名前はミズホ・ミヤノコウジといって、アニメ界を代表する『男の娘(Otokonoko)』キャラクターなんだ」
「オトコノコ?」エリスがキョトンとしながら復唱する。
「つまり、彼は『男性』なんだよ!」ダニエルが力説する。「ファンタジーの世界にはね、彼みたいな女性顔負けの美しさを持った男性がごく普通にいるんだ! そういう子たちのことを男の娘っていうんだ。特にこのミズホは君そっくりなんだ。髪色を少し暗くしてロングヘアにした君に瓜二つだよ!」
「男の娘……彼は男の子……」エリスはその明晰な頭脳を使って、必死に何かを理解しようとしている。そして最も論理的かつ合理的な結論を導き出した。「もしかしてダニエルは、ミズホのことが好きなの?」
「えっ、いやっ、そのっ、違くて――」不意打ちすぎる質問に、彼はどもりながら、茹でだこのように顔を赤くする。「こ、こういう選択肢もあるって、いい、言いたかったんだっ。女性でも男性でもない、だ、第三の性があるってことをっ」
「うんっ! よーく覚えておくね?」エリスは全く何も理解できていないようだったが、この経験は確実に、後の彼の選択に影響を与えることとなる。
「う、うん。ぜひそうして」彼はエリスがミズホとは違い、ちょっぴり鈍感でいてくれたことに感謝するのだった。「そ、それで、もし君さえよければなんだけど……君をモデルにして絵を描かせてもらっても……いいかな?」それこそがダニエルにとっての、本日のメインイベントだった。
「もちろん! うわぁ僕、モデルって初めて!」快諾するエリス。
「それじゃあ、ここに座って――あっ、鞄はその辺に置いておいて!」ダニエルは学習机の椅子を部屋の真ん中に移動させてから、急いで画材の準備に取り掛かる。
「分かった! えぇっと、服はこのままでいい?」
どこからか美麗な讃美歌が聞こえてくるほどの、魅惑的な響きがその言葉にはあった。あ、ア~メン……。ダニエルはたくさんの誘惑と心のなかで格闘し、辛くも打ち勝って、煩悩を唾とともに飲み込んだ。「うん、そのままで……今の君自身を描きたいんだ」ちなみに、今日のエリスの服装は白のセイラー服で、上が半袖青リボン、下がショートパンツと膝下丈ソックスだった。そう、そのままでも充分エロかったのだ。ヴィヴァ! 夏の暑さよ!
「それじゃあスリッパだけ脱いで、ここに座るね」エリスが椅子に腰かける(補足として、スイスでは多くの家庭で外履き靴を脱ぐ習慣があり、ダニエルの家庭でもスリッパを採用していた)。「ポーズはどうすればいいかな? ただ座っていればいい?」
「そ、そうだな~」ダニエルは頭をフル回転させ、できるだけ自然に彼の魅力を引き出しつつ、それでいて長時間の姿勢維持も苦ではなさそうなポーズを考え出した。「それじゃあね、右足を椅子の上に置いて、その膝の上に右肘を置いて、そう! それから左手を右内肘に載せて、右腕を曲げて左手を挟み込んで、そうそう! そしたら左腕は楽にして、そのまま右手で頭を抱えるようにして、顔を少し斜めに倒してみて」
「こ、こうかな?」エリスは懸命に指示に従いながら、ただただ、ポーズを的確に言葉で伝えられるダニエルに感心していた。
「か、完璧だ……」彼は今や、宇宙が生み出した至上の芸術作品と対峙していた。いつも遠くから瞥見することしかできない友の姿を、間近でじっくりと観察し、それを絵画に描き写す栄光を賜ったのである。彼の友人として、そして芸術家の卵として、ただひたすらに感無量だった。「じゃあ、しばらくそのままにしてて。できるだけ早く終わらせるから――」ダニエルは深呼吸すると、意を決して、スケッチブックに筆を走らせ始めた。
静寂のなか、紙と芯が擦れ合う音だけが空間を支配する。画家はモデルの全身にくまなく目を走らせ、その全体像や各パーツの比率など、だいたいのアタリを取っていく――その際、一瞬だけ二人の目が合った。そこでエリスは初めて知った。大好きなことと向き合っているときの彼が、こんなにも真剣な眼差しをしていることを。あれっ、何だろう? この気持ち――。エリスは自分の胸の鼓動が、少しだけ早くなったのを感じた。
ラフ画が完成するかというとき、部屋のドアがノックされた。「コンッ、コンッ」二人とも返事はしなかった。三秒後、ドアが開く。「ダニエル、エリス。クッキーが焼けたわ――あらっ、お邪魔だったかしら?」母親は入ってくるなり、部屋を包み込む神聖な空気を感じ取って、声色を緩めた。「クッキー、ここに置いておくわね」彼女はおやつの載ったトレーを机に置くと。去り際にこんな言葉を残して消えた。「ふふっ、そうしてると二人は、まるでタイタニックの『ジャック』と『ローズ』ね」そうして部屋のドアは閉じられた。
はたからすれば、彼らは事前のまま何一つ変わっていないよう見えたが、今や二人とも心臓が早鐘を打っていた。互いが自分のドキドキが表に出ていないかと心配していた。そんななか絵は細部の描き込み段階に移っており、二人の目が10回、15回、20回と合っていく。エリスにはトクンッ、トクンッという自分の心音が明瞭に聞こえていた。そして相手の目線が次第に下に流れていくと、そのたび身体が熱くなっていくようだった。どうしたんだろう? 僕、風邪でも引いちゃったのかな――。
30分ほど経過したところで、ダニエルが筆を置き、「完成したよ」と静かに告げた。エリスはゆっくりポーズを解くと、スッと血の気が引いていき、頭が冷たくなっていくのを感じた。立ち上がり際、力が抜けてよろける彼――。「だ、大丈夫エリス!?」すぐさま支えに行くダニエル。「ごめん、長時間無理させちゃったね。一回深呼吸して」彼に言われるまま、深く息を吸って吐くと、心身の緊張が徐々に解けていくのが分かった。
「ううん、ありがとう。ちょっぴり疲れちゃって」言いながらエリスは、手足をブラブラ運動させ、滞った末端の血流を促進していく。「それより僕、どんな絵になったのか、気になるな~」
「はい、どうぞ」ダニエルが手渡してくれたスケッチブックを見ると、そこには見たことのない自分自身の姿が描かれていた。濃さの違う黒鉛筆のみで描かれたその絵は、写真とはまた別の存在感と質感を持って、涼し気な目をした少年の姿を表現していた。自分ではもっと強張った、情けない表情をしていた自覚があったエリスは、きっとダニエルが気を使ってくれたんだろうと、画家の配慮に感謝していた。
「すっごいね! 君こんな絵も描けるんだ? 陰影の使い方がすごく上手!」そのタッチやぼかし、細かな線一本いっぽんから、作者が込めた思いが伝わってきて、まるで魔法のようだと彼は思った。「でも、やっぱり僕、ミズホとは全然似てないね?」可笑しそうに首を傾げるエリス。
「そんなことないよ! 画法が違うだけで……君はミズホみたいに可愛いよ! あっ――」思わず口を押えるダニエル。彼があまりにも的外れなことを言ったので、つい訂正して本音をもらしてしまったのだ。「と、とにかくね――」慌てたダニエルは、スケッチブックからその絵の描かれた画用紙を引きはがし、それをエリスに差し出して続ける。「これっ、君にプレゼントするよ! き、今日の記念に!」
「ありがとう」エリスは受け取った絵をもう一度見てから、彼に微笑みと「大切にするね?」という言葉をお返しした。
*
それから一階のリビングに移り、ビデオゲームをしたりして遊んだ二人は、何事もなく楽しい時間を過ごし、午後6時に解散することになった。その日はエリス、ダニエル、そしてダニエルの母親にとって、とても幸せで、充実した日になったし、言わずもがな、プレゼントされた絵は、エリスの一生の宝物となった。
<エリスの選択① 決定!これが僕の歩む道>
15歳の誕生日を控えた前日、今度は彼が両親をリビングに呼びつけた。父サミュエルと母エリーズは『ついに来たか』と思いながら、神妙な面持ちでソファーに腰かける。それでもずっと息子が黙ったままなので、彼らはどっちが対話をリードするのかと互いに目配して、やがて根負けした父親が話を切り出た。「え~エリス? 例の件について答えが出たんだね?」息子がコックリと頷く。
「お父さん、お母さん。僕……男の娘になるよ」そう言われた両親はポカーンと口を開けたまま動かない。「えぇっとね、つまり……僕は男の子にも女の子にもならないっていうか……どっちにもなりたいっていうか……とにかく、そういう結論になりました!」まだ両親は口をあんぐり開けているだけだ。
あれっきりエリスは、誰かにインタビューしたりすることはなかった。ただ自分自身の課題について、そっと胸のなかに秘めながら、毎日を一生懸命に過ごしていた。男か女か、どっちにすべきか……そんなときいつも、ダニエルの言葉が思い出された。『君のままでいて』『第三の性別があるってこと』そのたった一度伝えてもらった言葉がいつも、他の二つの鐘よりも大きな音色で心に響いていたのだ。彼がどれほど悩んでいたのかは、両親が一番理解していた。だから開いた口が塞がらない、何てことはなかった。
「すると、手術したり戸籍を更新したりは……しなくていいのかい?」父親が恐るおそる告げる。「それが君の、ファイナル・アンサーなんだね?」それに対しはっきりと、息子は首を縦に振った。「なら、私は……それを尊重するよ。約束したからね」
「でもホルモン治療はどうするの?」母親が心配そうに疑問を呈する。
「それは明日、お医者様に相談してみよう。それでいいかい? エリス?」
「うんっ! ありがとう、お父さん!」
こうしてエリスの向かうべき道の一つが定まった。来週から始まる夏休みでは、イギリスへのサマー・スクール(語学留学キャンプ)に参加する予定の彼。そして夏休み明けの来月からは、いよいよ新しい学年として高校生活がスタートする!




