1.命がけの政略結婚
わたくしは今日のこの政略結婚で、殺される。
手に持ったブーケに力が入った。
結婚相手はマルクス伯爵家嫡男。近年陞爵したばかりの、わたくしとはあまり接点のない新興貴族の一つだ。
わたくしは由緒ある我がヴァルモン家の血を守り、彼はお金で家を支える。それだけの、実に分かりやすいーー命がけの結婚だ。
***
「レティシアお嬢様。よろしかったらお水をお召し上がりください」
「いただくわ」
彼のことで知っているのは、アドリアン・マルクスという名前と、わたくしより四つ歳が上と言うことだけ。
……あぁ、あと肖像画は拝見したけれど、あれが本当に実物と同じかどうかなんて、これから見なければわからないわ。
ドアの隙間から、廊下でお父様と話されている方が見える。きっとあの方がそうなのだろうけれど。
そんな相手とバージンロードを歩くなんて、いくら淑女教育をされたからとは言え、緊張しないわけがなかった。
「……ふぅ……」
……見覚えのない侍女だった。今日のために臨時で雇われた者かもしれない。
普段側仕えの者とは違う侍女から受け取った水を口に含み、体に流し込んだ。
小さく息を吐いた直後。
「ゴホッ」
最初は、小さな咳だった。おかしい、と思った。
喉が痛いわけではない。でも胸の奥に、じわりと熱いものが広がっていく。
立っていられなくなったのは、次の瞬間だった。
膝が折れる感覚がした。床が近づいてきて、ドレスの裾が視界を白く埋める。
それなのに、痛みがない。
おかしい……おかしいわ。なぜ痛みがないの。
「お嬢様っ!? どうされましたっ!?」
「だ、誰か医者をっ!!」
誰かが叫んでいる。遠い。声の主が誰なのか、もう判別できなかった。
ただ、一つだけわかることがある。
……これはきっと、死ぬときの感覚だわ。
……ああ。この結婚を、面白く思わない者がいるのね。
古い家と新しい家が交わるのだもの。
波風くらい立つに決まっているわ。
わかっていた。わかっていたけれど。
式当日の、待機中に。……怖い、と思った。思ってしまった。
いけない。
レティシア・アウローラ・ヴァルモンともあろう者が、死に際に怯えるなんて。
でもーー
まだ、何も始まっていないのに。
会ったこともない殿方と、バージンロードを歩くことすら、まだなのに。
どこのどなたか存じませんが。
せめてこの婚姻が成立してからにしていただきたかった。夫となる人の顔を、きちんと見てからでも遅くはなかったのではなくて?
……それだけを、祈りながら、音も、光も、すべて遠のいていった。
「レティシアお嬢様。よろしかったらお水をお召し上がりください」
その声に、意識を引き戻された。
……今、わたくしは何をしていたのかしら。
確かわたくしは、床に倒れてしまったのではなくて?
でも今は椅子に座っているわ。
豪奢な真っ白いウエディングドレスを着て。
ドアに目をやると、廊下にはお父様と話していらっしゃる方が見える。
恐らくあの方が、今日これから、わたくしの夫となる方。
でも……。
手が、震えている。
なぜかしら……。
わたくしは今、何を怖がっているの……?
「お嬢様……?」
もう一度名を呼ばれ、そちらを向く。
そこに立っていたのは、水差しを持った侍女。
どこか落ち着きがない。
……先ほど、わたくしに水を差し出した者と同じ顔だった。
……これは、どういうこと?
幻覚にしては、胸の奥に鈍い痛みが残っている。
「気が利くのね」
……哀れに思った女神ウルキスが、もう一度だけ機会をくれたーーなどと言ったら、出来すぎかしら。でも今はそうとしか考えられないのは、まだどこか動揺しているのかしら。
「でも今は要らないから、あなたが飲んでちょうだい」
けれど、あれが夢かどうか確かめる術はある。
「わ、私が、ですか?」
「ええ。もともとわたくしのための物でしょう? せっかくだもの、あなたに差し上げるわ。花嫁からのお裾分けよ」
侍女の喉が、小さく動いた。
「どうしたのかしら? わたくしの幸せのお裾分けを貰ってくださらないの?」
「……い、いえ、そんな畏れ多くて、」
「遠慮はいらないわ。これは“命令”よ。……まさか、飲めない理由があるのではないでしょうね?」
侍女の顔から、目に見えて血の気が引いていく。唇が震え、指先も小刻みに揺れ出した。
「ギルバート! 不審者よ!」
わたくしの声と同時に、護衛騎士の一人が侍女に飛びかかり、部屋に鈍い音が響いた。
目を向ける間もなく、侍女が床に押さえつけられている。手から離れた水差しが、絨毯の上を転がって止まった。
「レティシア様! こちらへ!」
わたくしの専属侍女のルミナが、わたくしの前に滑り込み、庇うように立つ。
その肩越しに、ギルバートが侍女の腕をねじ上げていた。
「……それを、わたくしに?」
侍女は答えない。ただ怯えたように首を振るばかり。
「念のため、その水差しは下げて。後で調べさせましょう」
「かしこまりました。すぐにーー」
「いいえ」
護衛騎士の一人、フェリックスの言葉を遮る。
「今は式を滞りなく終えることが先よ。ここで騒ぎを大きくするわけにはいかないわ」
「レティシア様……!」
「終わり次第、必ず調べさせます。だから今は、何事もなかったことに」
ルミナは唇を引き結び、やがて深く頭を下げた。
ギルバートは一言も発さず侍女の腕を掴み、荷物でも運ぶように廊下へ引きずっていく。
フェリックスがその後に続いた。
入れ替わるように、扉がノックされた。
「レティシア様。お時間でございます」
わたくしは一度だけ目を閉じ、息を整える。まだ喉の奥に、熱い残滓が張りついているような感覚。けれど……。
ーーすべては、ヴァルモンのため。
「……参りましょう」
そして、肖像画でしか見たことのない花婿を迎え入れるためにーー
扉を開け、自分の足で一歩、式場へ踏み出した。




