歌姫の退去
セラフィナが北境伯の城へ到着した朝、温室に薔薇は一輪も咲いていなかった。
硝子張りの建物は美しかったが、床は冷たく、鉢の土は凍りついている。案内役の侍従は「設備の到着が遅れておりまして」と汗を拭き、ルーファスは笑顔のまま楽団へ暖炉の多い音楽室で待つよう命じた。
「設備とは、冬灯石のことですか?」
歌姫の問いに、侍従の手が止まった。
セラフィナは王都で育ったが、飾りとして囲われてきたわけではない。冬の慈善演奏会で、凍傷を負った行商人から街道の灯について聞いたことがあった。北境伯の妻が維持する乳白色の石。その安全な道があるから、王都へ薬草も毛皮も届くのだと。
彼女自身、仕立屋の娘として寒い屋根裏で育った。喉を傷めれば歌えず、歌えなければ薪を買えない冬を知っている。暖かな部屋で歌うことは好きだが、誰かの暖房を奪った舞台で拍手を浴びたいとは一度も願わなかった。
「それを温室へ使うのですか」
「一時的な転用だ」ルーファスが答えた。「妻が些細な契約文言に拘り、石を持ち出しただけでね。気性の激しい女なのだよ。客人のための歓待さえ理解しない」
「街道の火を外すことを、夫人が拒んだのではなく?」
「私の領地だ。どこへ置こうが領主の裁量だろう」
その答えで十分だった。
セラフィナは、外套を脱がずに微笑んだ。
「では演奏会は辞退いたします」
「何?」
「私の歌を聴くお客様が、帰路の小屋で凍えるかもしれない温室に、春を祝う歌は似合いません」
ルーファスの顔から愛想が落ちた。
「王都の歌姫ともあろう者が、夫婦喧嘩に口を挟むのか」
「命を暖める火を巡る件を、寝室の言い争いに縮める方とは契約できません」
セラフィナは楽団へ引き返しを告げた。そのとき、音楽室へ運び込まれかけていた書類箱の上から、一枚の紙が落ちた。楽譜かと思って拾い上げると、表題には「冬灯石臨時移設命令」とある。
移設先、温室。移設元、西街道避難小屋一号から六号。承認者、北境伯ルーファス・ノルデン。設置責任者署名欄には、アーデルの名を真似た不格好な文字が書かれていた。
「これは夫人の署名ですか」
書類箱を運んでいた若い書記の唇が震えた。
「わ、私は、伯爵様に清書を命じられただけで……署名は旦那様が、奥様はあとで承知すると」
セラフィナは紙を畳まなかった。楽団長と書記を証人に、書類の内容をその場で読み上げ、二人の署名を裏面へもらった。
「馬車を北中継所へ。帰京はその後です」
昼過ぎ、中継所ではアーデルが配給用の薪束を数えていた。夜から雪が強くなるとの報せで、避難者はさらに増えている。そこへ豪華な紋章入りの馬車が止まり、深緑の外套をまとった女性が雪を踏んで降りてきた。
アーデルは一瞬身構えた。夫のために温室へ招かれた人を、恨む気はなかった。それでも、自分の設備を奪う理由にされた相手に笑顔を向けられるほど器用でもない。
セラフィナは距離を置いて礼をした。
「アーデル・ノルデン夫人でいらっしゃいますか。私の歓待を口実に、あなたと皆様の火が奪われようとしたことをお詫びします」
「あなたが命じたことではありません」
「それでも、知った後に黙れば加担です。こちらをお納めください」
差し出された移設命令書を見て、アーデルの息が止まった。転用の実行だけでも契約違反は立証できる。だが、彼女の署名まで偽った書面があれば、ルーファスが後から「妻も承知していた」と逃げる道は閉じる。
レオンが閲覧用手袋を着けて書面を確認した。
「監察局で原本として封印します。セラフィナ殿、証言をお願いできますか」
「喜んで。歌で人を慰めるのが仕事ですが、今日は言葉で役に立てそうです」
アーデルは初めて彼女へきちんと礼をした。
その夕刻、伯領からもう一通の報せが届いた。
北境伯は、城へ至る正街道の城門を閉鎖した。理由は「妻に煽動された暴徒の侵入防止」。門内にはまだ、移送に間に合わなかった市民と、雪を知らずに向かっている旅人がいる。
中継所の窓を、風が激しく叩いた。
レオンが地図を広げる。
「今夜、吹雪になります。正門が閉じたままなら、街道上の者が危ない」
アーデルは、夫が使わないと笑った旧街道へ指を置いた。
「北門へ戻れる道があります。整備記録は私が持っています」
婚姻を終えるだけでは足りない。彼女の火を必要とする者が、まだ雪の中にいる。




