消される冬灯
「西街道の避難小屋から、冬灯石を六基外せ」
北境伯ルーファスの言葉を聞いた瞬間、アーデルは手元の点検簿へ指を置いた。
外では、まだ雪は降っていない。けれど灰色の空は低く、窓枠に置いた水皿には薄い氷が張っている。初雪は三日以内。北境で生まれ育った者なら、子どもでも分かる空だった。
「用途をお尋ねしても?」
「聞かずとも知っているだろう。セラフィナ嬢の冬季演奏会だ。王都随一の歌姫を我が城へ招くのに、枯れ枝の庭を見せられるか。硝子温室へ春の薔薇を咲かせる」
執務室の机には、金箔を散らした招待状の見本と、温室の完成図が広げられていた。硝子の屋根、噴水、季節外れの薔薇。その床下に描かれた熱源の丸印が、ちょうど六つ。
アーデルは点検簿を開いた。西街道の一号小屋から六号小屋まで、一基ずつ設置されている冬灯石。吹雪で足止めされた旅人や、薪を買えない集落の者が、命をつなぐための火だ。
夏の光を蓄えて冬に熱を放つその石は、アーデルの母が率いていたリース商会の技術だった。六年前、彼女が北境伯家へ契約妻として嫁いだとき、二十四基を持参した。ただの持参金ではない。雪深い街道に避難小屋を整備し、伯爵家は通行税を得る。その共同事業の核として運び込んだものだ。
最初の冬、一号小屋で産気づいた商人妻がいた。道が閉じる二日間、冬灯が小屋を温め、母子は無事に城下の診療所へ着いた。翌春、赤子を抱いて礼に来た夫婦が「この火があるからまた北へ商いに来られる」と言ったとき、ルーファスも隣で満足そうに頷いていた。
彼は、その火が人を生かすから領地の誉れになるのだという順番を、いつから忘れたのだろう。
「外せません」
ルーファスが笑いかけた顔のまま固まった。
「何だと?」
「初雪から雪解けまで、街道暖房の維持は領主の義務です。西街道は今週だけで薬商隊三組と巡礼隊一組の通行届けがあります。六基を抜けば、小屋の間隔が馬車一日分空きます」
「毛布を増やせ。薪も置けばいい」
「吹雪の最中に濡れた薪へ火を点ける方法を、伯爵様が実演してくださるのなら検討いたします」
夫の頬が赤くなった。恋をして結ばれた仲ではない。ルーファスは街道事業の資金と技術を欲し、アーデルは亡き母の仕組みを北境へ根づかせたかった。婚姻契約に愛情を約束する文言はなく、それでも互いの仕事には敬意があると、彼女は思ってきた。
「お前の石だという顔をするな。伯爵家へ嫁いだ女の物は伯爵家の物だ」
その言葉で、思い違いだったと分かった。
アーデルは静かに点検簿を閉じた。
「冬灯石は共同運用財です。婚姻契約第十二条をご確認ください。公共暖房から無断で転用された場合、設置者である私には全基の即時回収権と、契約婚の解消請求権があります」
「条文遊びで夫を脅すのか」
「人が凍死しないための条文です」
ルーファスは椅子を蹴るように立ち上がった。
「命令はもう出した。今夜には温室へ運び込ませる。お前は妻らしく客室の支度でもしていろ。セラフィナ嬢が王家へ私を推薦すれば、北境はもっと豊かになる」
推薦。華やかな王都の席。そんなもののために、道端の小屋から火を抜く。
アーデルは礼をして執務室を出た。廊下では、弟子のミナが青い顔で待っていた。十九歳の彼女の手には、西街道一号小屋の管理札がある。
「奥様……伯爵様の兵が、もう台車を出しています」
「石に触れた?」
「刻印封蝋を壊して、一本目の留め具を」
それで十分だった。無断転用は、命令だけではなく実行に入った。
アーデルは腰の鍵束から、銀色の鍵を一本外した。母から受け継いだ、冬灯倉庫の主鍵である。
「ミナ、点検班を集めて。全二十四基の回収に入ります。避難小屋の利用登録者には、王領北中継所で暖を取れると通知を」
「ぜ、全部ですか?」
「契約どおりに。六基だけを奪われ、残りで夫の失策を補う妻にはなりません」
城の北側には、冬季になると閉じられる古い門がある。その先は王領へ続く旧街道だ。整備を怠ったルーファスは使わなくなったが、アーデルは毎年、雪解けのたびに路面を点検させていた。
彼女は守衛長へ回収令の封筒を渡した。
「北門を開けてください」
遠くで金属の鎖が巻き上がる音がした。温室へ運ばれるはずだった火を取り戻すための、最初の音だった。




