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ここは地獄の一丁目  作者: 川合 佑樹


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第36話

 数日が過ぎ、街の空気は再び日常の重さを取り戻していた。

 酒場から漏れる笑い声も、朝の市場の喧騒も、以前と変わらぬ調子で響き渡る。

 パンズパニックも冒険者狩りも、もう遠い記憶のように薄れ、時折誰かが酒を飲んで肘を突きながら「あの時は死ぬかと思ったぜ」と笑い飛ばす程度の話題に成り下がっていた。

 冒険者たちは朝が来れば鎧を鳴らし、剣を腰に吊るし、石畳の靴音を響かせながらダンジョンへと吸い込まれていく。

 誰かが死のうと、誰かが泣こうと、この街は止まらない。

 それがヘイル王国の、冒険者たちの、生きるための流儀だった。

 マモギルドは表向き、静かに息を潜めていた。

 巨大な建物は以前と変わらぬ威容を保ち、門番の鎧は磨き上げられ、掲げられた旗は風を受けて力強く翻る。

 だが内部は大きく変わった。

 優秀なメンバーの多くが離脱し、残った者たちは不満と不安を胸に抱えたまま、強引に補充された新人を鍛え上げる日々を送っている。

 資金力だけは依然として圧倒的だった。

 金で雇った傭兵、金で買い付けた装備、金で塗り固めた表の顔。

 だからこそ、表面だけは崩れていなかった。

 だが誰もが知っていた。

 あの巨人が一度膝をついた事実は、二度と消えない。

 レヴィギルドは静かに、しかし確実に版図を広げていた。

 マモギルドから流れてきた三十人、四十人と増え続ける移籍希望者たちを、淡々と受け入れ、振り分け、鍛え直す。

 書類の山は日に日に高くなり、深夜まで灯りが消えることはなかった。

 冷徹な瞳の奥で、マモは確実に次の手を進めている。

 七大ギルドの均衡は、もう完全に崩れていた。

 エルギルドは表面上、賠償を「辞退」した。

 扇子を振る仕草ひとつで「冒険者狩りの被害者たちへ寄付しますわ」と笑って見せた。

 だが裏では、ニクスギルドへの技術提供と引き換えに、莫大な金と新たな実験素材を手に入れていた。

 地下の工房では、すでに次の設計図が広がり、新しい炉の火が静かに灯り始めている。

 失敗は失敗として記録され、次の成功のためにだけ使われる。

 それがエルギルドのやり方だった。

 工房の奥、鉄の扉の向こう。

 薄闇の中、黒髪の少女が一人、エルの横に静かに立っていた。

 長い髪は腰まで流れ、瞳は感情を欠いた深い赤色。

 エルがそっと近づき、少女の頬に指を這わせる。

「ふふふ……世界書がまた一ページ進んだわ。次はあなたの出番よ?」

 少女は微かに頷いた。

 ニクスギルドは闘技場の再建に全力を注いでいた。

 巨大な鉄の箱は三重の結界で固められ、もはやモンスターが暴走する余地は残されていない。

 工房の職人たちは寝る間も惜しんでハンマーを振るう。

 ニクスは毎日その現場に立ち、闘技場を睨みつけていた。

 次こそ、世界一の祭りにする。

 その執念だけが、ニクスを突き動かしていた。

 フェルギルドは華やかに変わった。

 玄関には「剣姫アラ迎入記念」の巨大な看板が掲げられ、街の子どもたちが毎日その下で走り回っている。

 アラの移籍は単なる戦力補充ではなく、明確な宣伝だった。

 塔登頂イベントの予告はすでに街中に貼り出されており、予約券は即日完売。

 フェルは満足げに笑いながら、次の「広告塔」の候補をすでに物色し始めている。

 ルゼギルドの前には、いつもより長い行列ができていた。

 配られた菓子は山のように積まれ、子供たちの笑顔が溢れる。

 慰謝料と称して受け取った金は、ほぼ全てが甘いものに変わった。

 ルゼはそれを一つ一つ丁寧に包み、笑顔で手渡す。

 悲しみを甘さで塗り潰す。

 たまに自分の口に運んでいた。

 そしてベルギルドは、静かに、しかし確実に成長していた。

 新たなる宝剣『ヴァーテ』はエイリの腰に収まり、黒い鞘が朝陽を吸い込むように鈍く光る。

 そして新たな盟約としてマモギルドからの「報復不可」が決定された。

 ベルギルドが一方的に制圧できる権利を、誰にも文句を言わせぬ形で手に入れたことを意味していた。

 ベル本人は「めんどくさい」と言いながら酒を飲んでいるだけだったが、その一言が、残る五ギルド全てに緊張の糸を張り巡らせた。

 誰かが動けば、ベルが動く。

 動かなければ、この均衡は永遠に続く。

 誰もがそれを理解し、息を潜めて次の機会を窺っている。

 街のどこかで、誰かが呟いた。

 この世界は地獄だ。

 だが、それでも勝手に回っている。

 誰かが死んでも、また誰かが頂点を目指す。

 だからこそ、この世界は美しい。

 朝陽が塔を照らし、風が旗を鳴らし、冒険者たちは今日も――

 地獄の階段を、一歩、また一歩と登っていく。


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