第1話
「うおおおおおおおお!? 誰か、いねぇかああああ!?」
パーム・エイリは息を切らして叫びながら、ダンジョンを全力で駆け抜けていた。
足元は湿った石畳で、滑りやすい苔が靴底を裏切り、時折体勢を崩しかける。
背後から響く重い足音が、地響きのように心臓を震わせる。
金髪が揺れ、汗が目に入って、視界をぼやけさせるが、振り向く余裕などない。
ここはダンジョンの第三層。
エイリは追われていた。
「がああああ!」
二本の角を持つ赤鬼が棍棒を振り回し追いかけていた。
その棍棒は、太い木の幹を削り出したような凶悪なもので、振り下ろされるたびに空気を裂く鋭い風切り音が、エイリの耳に突き刺さる。
エイリは必死に壁際を這うように進み、わずかな隙間を縫うが、鬼の巨体は容赦なく迫ってくる。
その巨体がエイリの前に棍棒を突き刺し、地面に大穴があく。
「うおっと!?」
エイリは体を翻して避けるが、衝撃で地面を転がった。
転がる勢いで背中が石壁にぶつかり、息が詰まる痛みが走る。
咳き込みながら体を起こそうとするが、足がもつれて立ち上がれない。
「グオオオオオオ!」
鬼が棍棒を引き抜き大きく振りかぶる。
「終わってたまるかよ!」
エイリは立ち上がろうとするが、体が硬直して力が入らない。
膝がガクガクと鳴り、指先まで冷たくなっていく。
棍棒の重みが空気を歪め、エイリの髪を逆立てる。
エイリの心に絶望という二文字が浮かぶ。
「あぁ、くそ……まだやりてぇことがあったのに」
その瞬間、鬼の体が不自然に浮き上がり、目に見えない巨手で掴まれたように後方へ引きずられる。
棍棒が手から滑り落ち、鈍い音を立てて転がる。
刹那、鬼が吹き飛んだ。
壁に叩きつけられ、肉体が四散する。
壁に激突した衝撃で石屑が飛び散り、鬼の体は内臓を撒き散らしながら崩れ落ちた。
エイリは呆然とその光景を見つめた。
その奥に、鬼のような逞しさと優しさを併せ持つ人影が立っていた。
ミケ・トリエだった。
「エイリ! 大丈夫か!?」
トリエはエイリに手を差し伸べる。
「ほら、立てよ。まだやれるだろ?」
差し伸べられた手は、ゴツゴツとした指先に戦いの痕跡が刻まれていたが、掌の温かさがエイリの冷えた肌に染み渡る。
エイリはそれを掴み、力を借りて体を引き起こす。
足元がまだふらつくが、トリエの力がしっかり支えてくれる。
「あぁ……次はぜってー勝つ」
エイリは固く手を握りしめ、頷く。
「ははっ、期待してるぜ」
トリエは軽く笑い、エイリの背中を叩いて埃を払う。
「それにしても、倒せないなら突っ走るなよな」
「だってトリエが来るって信じてたし」
「だからって……無茶して良いわけじゃないだろ?」
「それは……俺だって一人でやれると思ったんだよ」
「……まぁ、次は見てるところで戦えよ!」
「……おっす」
二人で歩みを進め始めると、遠くに聞こえる他の冒険者の叫び声が、今日の勝利を嘲笑うように響いていた。
ダンジョンの外。
ヘイル王国・トウ区画一丁目・ベルギルド
エイリはベッドに座り傷の手当てを受けていた。
「これくらい、自分でやれるよ、トリエ」
「いいから……やらせろよ」
トリエはエイリの前に片膝をつき、顔を近づけてじっと見つめながら、指先に取った軟膏を丁寧に塗りこんでいく。
「痛っ……ちょっと冷たいって」
「我慢しろ。これで明日には腫れが引く」
清涼な香りがふわりと立ち、エイリはくすぐったさに眉を寄せるが、トリエの真剣な瞳に射抜かれて、結局身動きもせずに任せてしまう。
「……動くなよ」
トリエの大きな手が、エイリの顎をそっと掴み、逃がさないように固定した。
赤髪を長く伸ばした、ほぼ二メートルの巨躯がしゃがみ込み、エイリのことを心配そうな顔で覗き込む。
「これが終わったらロダンに顔出すぞ、エイリ」
「あぁ……分かった」
トリエは満足げに頷くと、立ち上がりながらベッドのシーツを整える。
エイリはベッドから降り、足を床に着地させるが、膝の痛みにわずかに顔を歪める。
ヘイル王国・ムケ区画一丁目・冒険者統括ギルド『ロダン』
王国は八つの区画に分かれており、ロダンのあるムケ区画を中心に、北から時計回りにトウ、コク、ゴウ、キョウ、ダイ、ショウ、ネツ区画が配置されている。
それぞれにギルドが存在し、俗に「七大ギルド」と呼ばれていた。
ロダンはその全てのギルドに仕事を斡旋する、いわゆる元締めだった。
出血の手当てを終えたエイリは、軽装の皮鎧に着替え、腰に剣を差す。
剣の重みが腰に馴染む感触に、エイリは肩から力を抜く。
そしてトリエは金属製の鎧を身に着ける。
「エイリ、頼む」
「おう」
エイリはトリエの前に跪き、まず胸当ての留め具に手をかける。
エイリは紐を一本一本丁寧に引き締め、トリエの胸郭にぴったりとフィットさせるよう調整する。
「きつくないか?」
「もうちょい締めてくれ。緩いとズレる」
「わかった……ほら、息止めろよ」
「ん……ふぅ。いいぞ、それで」
次に肩当てを嵌め、腕の可動域を確かめながらボルトを回す。
トリエは腕を軽く振って試し、満足げに頷く。
最後に脚当てを装着し、膝の曲がりを妨げないよう細かく締め上げる。
「今日は斧槍も持つんだろ? 重くなるけど大丈夫か?」
「ああ。ロダンに行くんだ。エイリも備えとけ」
兜は被らず、赤髪を後ろで高く結び上げる。
エイリは櫛代わりの指で髪を梳き、革紐でしっかりと束ねる。
トリエの首筋が露わになり、汗の匂いがふわりと漂う。
「これでいいか? きつくないか?」
トリエは肩を回し、満足げに笑う。
「完璧だ、エイリ。いつもありがとう」
エイリは照れくさそうに頭を掻き、作業を終える。
トリエは長剣を腰に差し、背中に斧槍を背負うと準備が完了した。
「それじゃ報告に向かうか」
「はぁ……憂鬱だな」
「ほらっ! 気合入れろっ」
トリエはエイリの肩を軽く叩き、部屋の扉を勢いよく開ける。
エイリは後を追い、足音を響かせて廊下を進む。




