序章-12. 牙の生えた獣
朝靄が石畳の隙間をじわじわと濡らしていた。
自由交易都市の武具街――
《刃の骨通り》と呼ばれる一角は、まだ目を覚ましていない。
昨日までの戦いが嘘のように、静かで冷たい朝だった。
俺は、足元をふらつかせながら歩いていた。
血と泥の混じった臭気が、自分の身体から漂っているのがわかる。
鼻が麻痺するほどの獣臭。
ラットマンチャンピオンの骸を漁り、百体の屍を踏み越えてきた末路だ。
通りの角を曲がったところで、一人の男と目が合った。
茶色の革エプロン。無精ひげ。ギラついた眼光。
……武具屋の職人、だろう。
「……朝っぱらから野良犬でも迷い込んだのかと思ったぜ」
俺は何も言わず、小さな革袋を差し出す。
中身は、ラットマンの牙と爪、それにチャンピオンの頭骨。
男――ダルクという名が看板に刻まれていた――は、袋を開けるなり、眉をひそめた。
「……こりゃ……」
袋の中身を指先でつまみ、何度も角度を変えて観察する。
「……随分、上等な“個体”だな」
そう呟いた彼の目が、鋭くなった。
しばし沈黙が落ちる。
俺の姿と、袋の中身とを何度も見比べていた。
「……裏の井戸で身体を洗ってこい。鼻が曲がりそうだ」
それだけ言って、男は店の中に引っ込んだ。
*
井戸の冷たい水が、皮膚を焼くように感じた。
チャンピオンの返り血、泥、そしてこの数日の死臭――すべてが、肌にこびりついていた。
それを削ぎ落としながら、ふと思った。
(……まともな言葉をかけられたの、いつ以来だろうな)
異世界に来て、誰かが「対等な人」として接してくれたことが、これまでに何度あっただろうか。
アメリアを除けば、俺を“見下さない目”でいる人間はほとんどいなかった。
*
井戸の縁に腰を下ろしていたとき、足音と共にダルクが現れた。
「……乾かしてる間に、これでも着とけ」
そう言って差し出されたのは、乾いた外套、新品の胸当て、防具の小物類。
そして――黒革の鞘に収められた両手剣。
「食いもんは干し肉と黒パン。剣は錆びついていたからな、研磨もしてある」
思わず、言葉が詰まる。
「……これ、全部……?」
「対価じゃねぇ。投資だ」
俺が何か言いかけたのを、ダルクは鼻で笑って遮った。
「お前が持ち帰ったモノが、ただの牙じゃなかったってだけの話だ。
……素材の価値もあるがな、それ以上に、“どうやってそれを手に入れたか”が重要なんだよ」
視線が合う。
「お前は、自力で上位個体を落とした。選定式からたった一日で、だ」
その一言に、心臓がドクンと鳴った。
誰にも届いていないと思っていた事実が、言葉として形になった。
「次に何か狩ったときゃ、また持ってこい。損はさせねぇ。」
一拍、間を置いて。
「死ぬなよ」
ダルクはそれだけ言い残し、店の中へ戻っていった。
その背に向かって、絞り出すように声をかける。
「……ありがとう、ございます」
風が吹き抜けた。
*
ダルクは答えず、そのまま店に戻っていった。
ただ、心の中ではひとつだけ、言葉にならない言葉を思っていた。
(──貴族のお偉いさん方が見落とした逸材かもしれねぇな)
驚きは、もう薄れていた。
残ったのは、じわじわと胸に灯る、期待のような熱。
「…貴族の坊ちゃん嬢ちゃんが、どれだけ稽古したって、真似できるもんじゃねぇ」
唇が吊り上がる。
「面白れぇのが現れたな……」
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