月の庭に花は咲く
その夜、ダラム神聖国の大司祭ヴォルクスの命により、新たな命令が静かに下された。
「まずは試せ。」
その言葉は、蛇のように静かに、そして確実にグラナディオン王国へと忍び寄っていた。
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翌日。
ルアナは窓から差し込む柔らかな朝の光を眺めながら、小さく息を吐いていた。
昨夜の出来事から一夜が明けたというのに、心の中に残った不安は消えない。
自分の胸元に浮かび上がった光。
月から聞こえた懐かしい声。
そして、突然与えられた護衛。
何かが確実に起きている。
それだけは、ルアナにもわかっていた。
「………少し、外の空気を吸いに行きたいわ…。」
室内にいると、考えれば考えるほど、息が詰まりそうになってしまう。
ルアナは扉へと近づき、扉の外にいる2人に声をかける。
するとすぐに返事が返ってきた。
「承知いたしました。」
「もちろんすっよ~!」
扉を開けると、ロイドはいつものようにまっすぐと綺麗な姿勢で立っていた。
一方のレヴィは、どこか嬉しそうな顔をしている。
「お庭っすか?今日はいい天気ですし、ちょうどいいと思いますっ!」
「レヴィ、護衛中だぞ。もう少し気を引き締めたらどうなんだ。」
「えぇ~?ちゃんと引き締めてますって~。それに、そんな堅苦しいとルアナ様も窮屈に感じちゃいますよ~?」
2人のやり取りに、ルアナは思わず小さく笑った。
昨日までなら、護衛を付けられることなど考えもしなかった。
けれど、この2人がいてくれることで、ほんの少しだけ緊張が和らぐ気がした。
「それでは参りましょうか、ルアナ様。」
「えぇ、行きましょうか!」
3人はゆっくりと城の庭園へと足を運んで行った。
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グラナディオン王国の王城にある庭園は、城下の者たちにも「月の庭」と呼ばれるほどの美しい場所であった。
白いユリやバラや丁寧に整えられた木々。
中央には澄んだ水を湛えた噴水があり、その周囲には白い石畳が広がっている。
「……綺麗…。」
ルアナは思わず足を止めた。
風がふわりと銀色の髪を攫っていった。
「ルアナ様は花がお好きなのですか?」
レヴィが尋ねる。
「そうね、孤児院にいたときはこんな素敵なものがなかったから……。それに、こうして見ていると、お花の香りと、鮮やかな色に囲まれていると……なんだか心が落ち着くの。」
「わかりますっす!俺も花を見るのは好きっすよ!」
「お前の場合は、花よりも食べ物だろう。」
「な!なんでロイドさんが知ってるんすか!?」
「ここに来るときに、菓子を厨房から持ち出していただろう。」
「見てたんすか~?もー、せっかくルアナ様にサプライズをしようとしてたのに、台無しっすね。」
それを聞いたロイドは気まずそうに視線をそらした。
ルアナは思わず笑ってしまった。
「ふふっ、せっかく持ってきてくれたのなら、みんなで一緒にお茶にするのはどうかしら?」
「そうしましょうっす!」
「ルアナ様がそう仰るのであれば……。」
レヴィが手際よくお茶の準備をしていく。
「はいっ!今日は特別に、厨房の人に頼んで甘い焼き菓子も用意してもらったんすよ~!」
ロイドはため息をつきながら口を開く。
「頼んだ、ではなく勝手に持ち出そうとしていただろう。」
「それはもういいじゃないっすか~!」
ルアナは思わずくすくすと笑った。
こんなふうに、誰かと他愛もない話をしながら笑うのはいつぶりだろう。
以前の自分なら、こんな時間が訪れることさえ想像できなかった。
「……なんだか不思議ね…。」
「何がでしょうか…?」
ロイドが尋ねる。
ルアナは目の前に広がる庭園を見つめながら、小さく微笑んだ。
「少し前までは、私は自分のことを誰かに守ってもらえるだなんて、思ってもいなかったもの。」
ロイドとレヴィが黙る。
「だから……今、こうして皆さんとお茶をしていることが、なんだか夢みたいで。」
その言葉にレヴィが少しだけ困ったように笑った。
「じゃぁ、夢じゃないって証明しないとっすね!」
「どうやって?」
「俺が毎日うるさく話しかけに行くっす!」
「……それは、確かに夢ではなさそうですね。」
「ロイドさんまで!?」
再び笑い声が庭園に響いた。
そのときだった。
——ふわり。
風がふわりと吹き抜ける。
ルアナの銀色の髪が月の光を思わせるように揺れる。
昼間だというのに、彼女の胸元がかすかに温かくなった。
「え……?」
昨夜と同じ感覚が走る。
けれど、苦しくはない。
むしろ、”何か”が、自分の中からあふれ出そうとしていた。
「ルアナ様?」
ロイドがすぐにルアナの異変に気付いた。
その瞬間、ルアナの足元にあった、小さなつぼみが震えた。
「……っ?」
するり。
まるで見えない手に導かれるように、蕾がゆっくりと開いていく。
1つ、また1つ……次々と。
本来ならまだ咲く時期ではないはずの花々が、一斉に花弁を開き始めた。
「な、なんだ……!?」
レヴィがすぐさま立ち上がり、周囲を警戒する。
ロイドも即座にルアナの前へ出た。
しかし———。
「待って…!!!」
ルアナは思わず声を上げた。
庭園の花々が彼女を中心にして咲き広がっていく。
白い薔薇、百合、紫色のアイリス。
そして、まだ蕾だった、はずのデルフィニウムまでもがゆっくりと花開いた。
「私……何もしていないわ…。」
ルアナの声が震える。
怖い……。
自分の力なのだろうか?
けれど、その光景を見た瞬間——。
頭の奥に、あの夢の中で聞いた声が響いた。
『豊穣の力とは、命をはぐくむ力なのよ。』
「———っ!」
夢では何度も見た女性。
『ルアナ、落ち着いて。大丈夫。お母様がいつまでもそばにいるからね。』
頬を撫でられているわけではないのに、触れられた箇所からじんわりと母親のぬくもりが伝っていく。
「お母様……。」
ルアナの金色の瞳から、ほろほろと涙で零れ落ちていく。
そのとき——。
誰も気づかぬまま、庭園の中央にある噴水の水面が、ゆらりと揺れた。
まるで何者かがこちらの様子を覗き見ているような、不気味な気配をまとって。
昼の鮮やかな光が庭園を照らしているにも関わらず、水面に映っていたのは青空ではなかった。
——そこには、夜空に浮かぶはずの満月が映り込んでいた。




