第5話 弱く儚い者達へ
5.
夜が来る。
陽光は沈みただ暗いだけの世界が訪れる。陽光の代わりに天上に輝くのは月。だが、それは世界全てを、この大陸全てを照らすには不十分だった。だから人は火を産み出したのだ。恐れから逃れるために。だが、白い光の代わりに得られたのは赤い炎。赤が黒い世界を染める。その色が私は嫌いではなかった。真っ暗の洞穴の中、炎に照らされる世界は嫌いではなかった。
だからだろうか。部屋の中、小さく揺れる炎が私の視線を奪う。
窓から差し込む月明かりと蝋の作り出す炎がそこにいる女性を照らし出す。物憂げな表情が酷く印象深い。だが、やはり目立つのは瞳の下を飾る泣き黒子。
ディアナ様だ。
豪奢な椅子に体を預け、呆と天井を見ながら手慰み包丁を触る。手慰みに包丁を持つ女というのは狂気の沙汰に思える、という自己批判に通じる事を思いながら相対する。
直接面と向かったのは前に残り金額は?などと聞きに行った時だ。素気無く追い返されたのも記憶に新しい。
「それで、貴女何が聞きたいのかしら?前みたいな阿呆な質問をするようなら……分かっているわね?」
視線は天井を見つめたまま。それに釣られるように天井を見ても何もない。しいてあった事と言えばそんな私に先輩が苦笑したぐらいだ。部屋へ入る時だけは前にいたが、今は私の後ろに控えていた。
「ディアナ様。どうか、この大陸について教えてください」
「世界ではなく、大陸……ね。良いでしょう」
言葉と共にディアナ様が天井から私に視線を向ける。炎の中に映るのは人とは幾分か異なる瞳。炎に照らされ、光を反射し輝くそれはいつかの時よりもさらに私に違和を与えてくる。ここに至り、人のそれと何違うか分からないなどという事はない。それはガラテアさんと同じだ。ドラゴンのそれ。爬虫類のそれ。人間ではあり得ぬ瞳の形。
だが、ガラテアさんと違いこの人を見ていても殺したいとは思わない。今すぐにその首に包丁を突き立てたいとは思わない。であればこの方は人間で、その瞳は私の髪や先輩の瞳と変わらないただの特徴に過ぎない。
「聞きたいことは一杯あるのですが、まずは……ディアナ様はこの大陸が出来た時から洞穴があると仰ったかと記憶しております。それはどうしてでしょう?」
その私の発言が、当たり前に問いかける事が予想外だったのかディアナ様は一瞬呆とし、次の瞬間苦笑していた。苦笑し、包丁を机に投げればカランと音が鳴る。まるで、今この時この場において身を守る物はいらないと、そう言っているかのようだった。
空いた手に顎を乗せ、肘を豪奢な椅子の肘掛けに。そしてため息一つ。
「……後ろの貴女。笑い過ぎよ」
だが、ディアナ様が言うように先輩の笑い声は聞こえない。後ろを振り返り、先輩がどんな表情をしているのか見てみたい。が、今はディアナ様から視線を逸らすわけにはいかなかった。
「逆に問うわ。洞穴が第七層まで存在すると言われているのはなぜか分かるかしら?」
しばしの沈黙の後にディアナ様告げた言葉は私への質問であった。
「調べた事はありますが分かりませんでした」
そもそも、人類が第二階層までしかたどり着いていないというのにその階層まで存在すると分かるわけがない。
「そうでしょうね。つまりは同じ事なのです。誰かがそれを言い始めただけです。そしてそれが実しやかに囁かれているのです。人間の認識など甘いものです。何人もから同じ噂話を聞けばそれが真実であるかのように思います。そして真実を語るように別の誰かに伝える。そしてそれが伝搬していく。いつしか真実となる。そのような話、他にもあるでしょう?」
「えっとオブシディアンとかですか?」
「そう。悪魔により作られる故に元々はあまり良い謂れはありませんでした。皇剣が作られた当初、皇族もあれが余り物以外の意味を持つ物だとは思っていなかったのです。それがいつしか希望を意味するようになり、秘められた想いを意味するようになった」
ドラゴン師匠が遊びで作ったアレである。しドラゴン師匠は最初からオブシディアンがどういう意図で作られたのかを知っていたのだろうか?今度聞いてみるのも良いだろう。今更だけれど。
「それの良し悪しを議論するつもりはありません。ただ、皇剣オブシディアンは当時、何の意味もないものでした。それが意味を持ち、独り歩きしていった。オブシディアンの少女は存在し、臣民の希望に成ると。人はそう信じた。飽くなき希望はやがて希望を叶えぬ者への憎悪を産み出した。……いえ。そこから先は別に良いでしょう」
苦虫を噛潰すように一度そこで区切る。ディアナ様もオブシディアンが絡んだ不幸を目にしてきたのだろうか。不幸の象徴であるかのようなあの黒い宝石を。私に似た色をした宝石が作り出した悲劇を。
「人間の記憶など都合の良いように作り変えられるのです。かもしれない、がいつのまにかそうであるとなるように。言葉や記憶などは曖昧なものなのです。それが自分自身のことでさえ、人は忘れてしまうのです」
「それは分かりますけど」
「それは結構。洞穴が第七階層まで存在するというのもまた、まことしやかに囁かれているだけです。そして自殺洞穴と呼ばれるあの洞穴が大陸と同時に出来たというのもまた、まことしやかに囁かれているだけです」
「あの……ディアナ様が世界を、大陸と呼ぶ理由はあるのですか?」
「それを聞きたいのでしょう?」
皮肉気に口角を上げる。まるでこの会話を楽しんでいるように見えた。
その問いに頷けば、ディアナ様が少し長くなる、と口にし、部屋に備え付けられた対面ソファに座るよう指示してくる。
言われるがままに先輩と二人で座り、ディアナ様を待てば暫くして対面にディアナ様が座る。座り、口を開こうとして止まる。代わりに出て来たのは小さな舌。ちろりと出てきた小さな舌で唇を舐める。なんだろう世間のドラゴンアイを持つ方は唇を舐めるのが好きなのだろうか。ドラゴン師匠もそんな仕草をしていたし。
「そこの貴女、飲み物でも取ってきなさい」
「そういう事言うなら座る前に言えよ」
「黙りなさい。そしてさっさと行きなさい。でも……そうね。特別にあれを持ってくる事を許します」
「あれって……奴隷相手に年代物の酒を振る舞うとか何考えてんのこの馬鹿」
「黙りなさい。リヒテンシュタインの名を持たずに二つ名を与えられた将来ある奴隷に、その奴隷の功績に報いるのもまた飼い主の務めでしょう。皇族の覚えも良く、それ以外にも色々とやっているようですしね。少しぐらい飴を与えるのも悪くはないでしょう」
褒められているのか貶されているのかは分からない。どうせ飴をくれるならそんなお高いお酒とかは良いのでお金下さい、と切実に思う私は現金なのだろう。だが、そんな私の思いなど通じるわけもなく。
「……はんっ。言ってろよ、リヒテンシュタイン公」
「あら、じあなと呼んではくれないの?あの頃の貴女はとっても可愛かったのにねぇ」
「黙れよ、変態マゾ女」
「あらあらこれはご挨拶ね、この不感症」
双方言葉は汚いが、けれど仲の良さが滲み出ているようなそんな会話。それが私にはまるで仲の良い姉妹のように思えた。こんな関係であれば、部屋に入るのにノック一つなく入っても怒られないだろう。人に歴史あり。奴隷と飼い主であるこの二人の間にどんな歴史があるのだろうか。少し、気になった。
しかし、そうか、先輩は不感症なのか……と、口では文句を言っているが素直に立ち上がり部屋を出ていこうとした先輩の上から下までを見ていれば、振り返った先輩に鼻で笑われた。
「なんだよ。カルミー。熱い視線を送ってきて。そんなに私が不感症かどうか気になるのかよ?……それともあれか。鎖骨を見せてやらなかったのが悪かったのか?」
「約束を破るなんて酷い先輩ですよね」
「言ってろ」
肩を竦め部屋を出ていく。
「くすっ。貴女達、仲が良いのね」
そんな先輩と私を、ディアナ様が楽しそうに口元を手で隠しながら笑っていた。嘲りではない。真実、楽しそうに、いや……嬉しそうにだろうか。その瞳を爛々と輝かせていた。
「どうでしょう。御二人の方が仲良く見えましたけれど」
「あら、嫉妬?それはまた面白い反応をするのね」
「違います」
言い返した。が、ディアナ様は変わらず面白そうに笑っていた。
「あら、大丈夫よ。ここにはあの子はいないし私は口が堅いから安心なさい?」
指を立て、刺すのは唇。
ぞくり、と背筋に走るのは怖気だろうか。いいや、それとは逆の代物だ。やはりドラゴンアイをお持ちの方は艶のある仕草が似合うのだろうか。指先の細さ。触れれば折れてしまいそうな華奢な指先。紅の刺した唇にその白さが映える。あぁ、駄目だ。思考がぶれる。それを見続けていては魅入られてしまう。それは精神操作と呼ばれる類の技術なのだろうか。その指先から、唇から視線を少しずらし、息を吐く。
「だから、違います……ディアナ様、少しお戯れが過ぎるのでは」
「貴女が奴隷だからそのように扱えと、そう言いたいのかしら」
くすり、と笑みを浮かべる。が、それは今先ほどの笑みとは違う。冷酷な、冷徹なものだった。ぞくりと再び背に走ったのは今度こそ怖気であり、寒気だった。武器もなければその作り出された肉体も華奢にしか見えない。にも拘らず、だ。それこそ先程のナイフを持って襲ってきた輩よりの何倍も何十倍も恐ろしい。まるで、そうあの時とは逆の立場にあるかのような……火の光に輝く爬虫類の瞳、その奥に見える狂気に私は恐れを覚えたのだろか。
「構わないわよ?今すぐその服を剥いで全身のありとあらゆる箇所を帯皮で拘束し、締め付け、その肌に紅色の跡を付けてあげるわ。貴女の華奢な体でどこまで耐えられるかしら?でも、そうね。私は優しいから締め付けて骨を砕くのは止めてあげる。そういう風に鳴かせるのは趣味じゃないの」
舐めるようなディアナ様の視線が全身を這い回る。それこそ爬虫類が獲物を見つめるように。そして舐める都度にディアナ様が掻き毟るように手を、その指先を喉に宛てる。欲しいと。そこが乾く、と。そこを潤したいとそう言わんばかりに。否、事実乾いているのか。再び舌が唇を舐める。そして対象的に潤ったのは彼女の瞳。
自分の想像に昂りを覚えたのだろうか。今のディアナ様は傍から見ても淫靡さを覚える程だった。けれど、確かに彼女は、そんな彼女が奇麗だと、私は思ってしまった。夜の帳沈んだこの世界で、火の光に照らされる彼女が私には奇麗な人なのだと、そう思えてしまった。
「締めあげられた二の腕、足、鎖骨から乳房を通り腰へと至るライン。そういえば鎖骨が好きなの?奇麗に彩ってあげますわよ?……私の好みは皮だけれど、縄が良いかしら?」
手の動きで縄の形を表しながら、ソファを離れ、射竦められたように動くことのできぬ私の隣に座り、黒い髪を撫でる。柔らかい手だった。冷たい手だった。その冷たさに自然、体が身震いを起こす。そうしていれば、もう片方の手が、その白く華奢な指先が私の顎に触れ、すぅと音もなく私の首を通り、服の上から鎖骨に触れ、次いで乳房をなぞり、腰へと向かう。思うがままに、ディアナ様の指先が私に触れる。
逃げる事など、出来はしない。どのような力が掛っているのだろうか。仰け反るように動こうとしてもソファに深く沈んだままの体は動かない。
「ディ……」
「黙りなさい」
あげようとした声もまた、唇に立てた指が止める。
「……瞳を隠し、口には轡を入れ、身動きの取れぬよう部屋の壁に吊るしてあげましょう。じっくり観察してあげるわよ」
髪を撫でていた手が目を覆う。次いで、もう片方の手で顎を抑えつけられ、指先が唇を割り、中指が口の中へと入ろうとする。唇から伝わる指の冷たさ。それが更に奥へ奥へと入ってこようとするのを、歯を閉じて拒絶する。今の私に出来る事など、それぐらいしかなかった。だが、
「あら、奴隷の癖に反抗するなんて……な・ま・い・き・ね」
顔を私の耳寄せ、吐息が掛る距離から紡がれるディアナ様の御声に力が抜ける。甘い声だった。何故私を拒むの?そんな縋るような甘い声だった。ディアナ様の物とは思えないぐらい弱々しく、誘うような声。その言葉に誘われ、閉じていた歯が開いていくにつれ、指が口腔に入ってくる。閉ざされた闇の中で口腔を侵食される恐怖はしかし長くはなかった。
「貴女の中、暖かいわね?火傷しそう」
指先が舌先にたどり着いた直後、その感覚は即座に去った。代わりに笑みを零し、耳元には再び甘い囁きが訪れる。もっと聞いていたと懇願するように。身には震えが訪れる。もう聞きたくないと拒絶するように。
そんな私の心に興味は無いと、抜かされた指が再び私の体を這っていく。
「そして暗がりを蝋燭の火で照らしましょう。その熱で貴女の肌を焼きながら、貴女に付けた貞操帯がその役割をしっかりと担っているのか確認させて頂きましょうか」
その言葉に指先がどこへ向かうのかが分かり、身を竦め、体がディアナ様の指先を拒絶する。だが、そう。そこは守られているのだ。魔法が掛けられた貞操帯。付けられた当時は魔法などないと、あんなのただの脅しの文句だと思っていたが、魔法を付与された貞操帯。それが私のそこを守っているのだから……だが、それを付けた者にまでそれが機能する謂れは無い。
「結構。守っているようね」
手の平が私の黒い短めのスカートに置かれ、その感触に身を硬くした瞬間、一転して、ほっとしたような言葉と共にディアナ様が私から離れていく。
「そんな風に奴隷を虐げながら堪能する美酒というのもまたおつな物でしょう。貴女に悲鳴と涙と嬌声を流させながら、談笑するのも楽しいかもしれません」
言いながら、私から離れて、対面に座る。
「けれど、今宵は結構よ。……何よ、貴女。ただの冗談よ?まさか本当に襲われるとでも思ったのかしら?」
「……いえ、その。ディアナ様は女奴隷を大量に囲っているみたいですから」
今しがた自分がやったことを既に忘れたようにきょとんとしているディアナ様に、破裂しそうな程の心臓の律動を抑えながら、漏れる吐息を抑えながらどうにか伝えられた。領主様が婚姻関係も結ばずに女奴隷を侍らせていればその気があると思われても仕方ないと思う。
「なるほど。そういう事か。……城に行った時や領地を視察している時の女共の反応の理由が分かったわ。嫌な実例もあったものね。けれど、やはり人は勝手に噂を作り、勝手にそれが真実であるように考えるのよ」
巧くない締めくくりであった。全然格好良くない締め方だった。説得力も……ない。
「ともかく、端金とはいえ処女である事を理由に買ったのだから確認したくなったのよ。許しなさい」
「それは、構わないのですけれど……」
やり方というものがあると思う。
しかし……ふいに思ったのだが。この貞操帯。魔法が付与されているという事はもしかしてガラテアさんが作ったのだろうか。防具は苦手だと言っていたが、けれど面白ければ何でも良さそうな彼女である。作ったのかもしれない。いやはやしかし、こんな装備を掃いて捨てる程作って渡すというのはディアナ様もこれまた奮発していると、そう思う。これ一つで私を買った金ぐらいするんじゃないのだろうか。これも今度ドラゴン師匠に聞いてみるとしよう。
「何かしら?」
「いえ。ディアナ様は御金持ちだなぁと」
「何を言うのかしらこの子は」
夜は始まったばかりだった。
―――
話は先輩が戻ってきてから再開した。
先輩が戻ってくるまではディアナ様に御金の稼ぎ方を教わっていた。はぁというため息と共にではあるが……ともあれ、意外と言うと失礼だがディアナ様は教え方が巧い。まるで私が分からない所が先に分かっているかのように教えてくれるのだ。私が把握している事はそれを前提として、知らない事には注釈を入れてくれる。だからだろうか。ディアナ様を見ていてふいに教会の女性を思い浮かべたのは。フードを被り、控えめで、けれど神の言葉は強く伝えるあの女性。それとどうしてディアナ様が被ったのか、私には分からない……。ディアナ様が言うように人の記憶は曖昧だから、だろうか。
そうこうしている内に先輩が戻って来た。
大き目のグラスが1つと果実酒のボトルが3本。どれだけ飲む気なのだろうこの人達。もしやノルマは1人1本なのだろうかと思えば、先輩が慣れた手付きで果実酒の蓋を開け、1本はそのまま放置する。聞いてみればどうやら開けてから暫く空気に晒していると味が良くなるらしい。それを置いて次いでもう1本を開けて皆のグラスに注ぎ、それを待ってディアナ様が口を開いた。
「洞穴が七階層あるのか、この大陸の発生と同時に洞穴が産まれたのか。これを誰が最初に言ったのか。それには諸説ありますが……」
グラスを指先で廻しながらくいと喉を鳴らす。次第、ディアナ様の唇の中に紫色の液体が流れ込んでいく。
習うように、私もそれを真似する。初めて飲む酒だった。飲む前から酒精に頭をやられてしまいそうな程その香りは強い。だが、舌触りはそれこそ果実のようで嫌みもなく爽やかささえ覚えるほどに。その割に喉を通る時は喉を焼くかのような、そんなのが感想だった。その喉を焼いていく感覚に慣れず、しかして頂いた物を粗末にするわけにもいかず、ちびちびと鳥のように啄ばむように飲むばかり。先輩に値段どれぐらいなんですか?と聞くとなんともいえない表情をして肩をぽんぽんと叩かれた後、天井を指差された。どう言う意味だったのだろう。
「最初に言ったのは万能の天才と称されたミケーネ氏だと私は考えております。より正確にいうならば彼あるいは彼女……性別は不明ゆえに彼と呼びましょう。彼が書いた『トラヴァント帝国の成り立ち』なる書物にこう書かれております。『トラヴァントが有する洞窟は世界の中心であり、この世界はその洞窟から産まれた』と」
それは流石に単なるパトロン向けの文章だろうと思う。我が国は世界の中心にあるというのはやはり気分が良いだろう。それを、それだけの記述で世界の発生と同時に洞穴が産まれたと人々は信じているのだろうか。それではあまりにも滑稽ではないだろうか。
「もっとも、彼はその後に世界の中心に国を立てた事を愚かだと称していますから、それはただの御世辞ではないようにも思います」
「あ、そうなんですね」
「えぇ。斯様な死者を出す洞窟を攻略せんとして国を作る事に何の意義があるのかとも問うております。建国当時の情勢は流石に私にも分かりません。書物にも曖昧にしか書かれておりません。私は、自殺洞穴がただの洞穴だと、洞窟だと言われていた頃に冒険者たちが集まり、それがコミュニティ成し、いつしか村となり、街となり次第に国の形を成してきたのではないかと考えております。そうでもなければ、ミケーネ氏の言うように斯様な洞窟を中心に国を作る必要はありません」
農業国というのであれば、洞窟を囲うように国を作る必要など本来はない。寧ろ、もっと安全な場所に国を、都市を作れば良い。それは当然だろう。自殺洞穴などそれこそ国の離れた場所に放置していれば良かったのだ。拠点だけは設けておき、冒険者たちが勝手にそこを利用すれば良かっただけだ。だが、そうはしなかった。ならばこの国の成り立ちはそちらが先だというディアナ様の主張に間違いは無いと思う。それは納得が出来た。
「ミケーネ氏がこれを書いた頃はいつだったのでしょうかね。農業国としても力を付けて来たトラヴァントにとって自殺洞穴というのはそれこそ国を殺す病原体のようでもあったのです。天候だけでなく天災の如き洞穴由来の化物に農地を荒らされる事を良しとして、それでも他国への牽制のために洞穴由来の物を売買した。それは結果的に他国にも自殺洞穴というものの旨みを伝える事と同意であり、結果、自殺志願者が他国から集まった。次から次へと死者を産み出し、けれどそれを上回る利益を与える洞穴に皆が皆、魅入られたのです」
最初はそれでも良かったのかもしれない。けれど、皇族が途絶える可能性のある今となっては、それは他国の者達に国を奪われるだけだろう。それに意味があるとは思えなかった。
「他国へ力を見せるためというのならば本来、洞窟を攻略する必要はありません。もっとも、現代となってはそれをせねばこの国は持ちません。ですが、有象無象は集まり、ギルドなるものを作りました。それが団結し国を打倒する可能性もなくはない。そうでなくても自殺志願者達とトラヴァントの者が婚姻を結び、子を成せばトラヴァントという血が薄れていくのは間違いありません。故に、奴隷を使うのが一番だと私は判断しました。道具として洞穴を攻略してもらえば国への影響は小さいと判断したわけです。もっとも……使い物ならぬ者ばかりですがね」
故に、多数の奴隷を買う。他の貴族に忌避の目で見られたとしても、人に非ずと称されようともきっとディアナ様は奴隷を使い洞穴の攻略を目指すのだろうか。藁を掴むような、行為だと思う。
「その点でいえば貴女は優秀だと言って良いでしょう。約束の日数、約束の金額を違える事はありませんが、しかし、今までの功績は高く見積もりましょう。元より貴女は安いですからね……ですからそうですね。あと一つ。何か功績を残せばリヒテンシュタインの名を与えましょう」
見れば、指を1本立てていた。
「あ……え?えっと…私の御金とか日数の制限とかがなくなるって話ですか?」
「その通りです。もっともその後は我が家の者として変わらず洞穴に行って貰いますがね」
それでも期限がない、迫るものがないというのは心が楽になる。否。楽になどなるものか。汝気を抜く事なかれ、だ。結局、あの自殺洞穴に潜らなければならないのならば、大して変わらない。数値目標がなくなるだけで……大して違いはないのだ……でも。少し、嬉しくは思う。評価されていたという事も含め、私の行った結果が実を結んだのだと思えば、嬉しさもある。
「あまりにも金銭換算のし辛い評価ばかり受けておりますが、先にも言いましたように帝国のために行っているのですから、皇族に対する貢献は高い評価を受けて当然でしょう。ですが、どれもこれも表に出せないような評価ばかりなのが問題ではあります。ですから、期限内に自分の功績というものをあと一つ挙げてみなさい……あの二つ名を功績と言いたいのならばそれで納得しても結構ですがね」
「それは勘弁してください。がんばって何か見つけたりしてきます……ちゃんと報告できるような奴を」
「そう。その言葉、期待します」
「あ……期待して頂けるのですね」
「えぇ。私は貴女の活躍に期待致します。我が家の名を名乗り活躍する事を期待します。ドラグノイア=リヒテンシュタインの名を持って貴女が活躍していくことを期待します」
「ディアナっ!」
瞬間、先輩が吠えた。何に対して、怒ったのか、私には見当もつかない。むしろ、何故この流れで怒ったような表情をしているのかが分からない。
「黙りなさい。私の決定です。ドラグノイア、リヒテンシュタインの決定です。貴女には意見を挟む余地などありません」
その言い方に違和感を覚えた。言葉だけでは分からぬ違和を。ドラグノイア、そしてリヒテンシュタインと言っているかのような、そんな風な違和感を覚えた。だが、その違和感の持つ意味が私には分からない。
「っ……それで良いんだな?」
「構いません。だからそれで納得しておきなさい。さて……話がずいぶんそれてしまいましたね。話を戻しましょう」
先輩とディアナ様が訳知り顔で語り合い。言い様、ディアナ様がグラスの中身を飲みほし、グラスを先輩へと向ける。はいはい分かったよと言わんばかりに態度で先輩は、先程放置していた方の果実酒をグラスに注ぐ。良く分からないが、多少なりとグラスに残っているのに、混ぜて良いものなのだろうか?
「この年代の果実酒は……いえ。話がまた逸れますので止めましょう。彼は『トラヴァントの成り立ち』で世界の中心、そこから世界が広がっていったのだと語り、だからこそ彼は『オケアーノス』で世界の果てを想像したのです。元々小さかった世界が広がって行ったと」
「ミケネーコさんのオケアーノス……『大地の胎動は世界を壊していく。』とか」
「あら知っているの?って……どこの御猫様よ、ミケネーコって」
呆れたような表情でディアナ様が私を見ていた。
「先程図書館の方でその方の写本とやらをお借りしてきたのでつい」
持っているそれをディアナ様に手渡す。
「……オケアーノスの写本?あぁ。私が幼いころに文字の勉強がてらに書いた奴か」
軽い笑いと共にディアナ様が頁をめくる。
「ディアナ様が!?」
「えぇ。私です。そういえば図書館に寄贈したわね。これ、かなり間違いがあったはずよ。こんな昔の手慰みを態々私に見せつけるために持ってくるなんて酷い子達ね。……でも、子供騙しの文章でも写本と言ってありがたがってくれるのはやはり貴族の特権ね」
いや、きっとそうじゃない。例え書いたのが子供だとてその想いが強かったから、だからオフィーリアさんはあんなにも嫉妬していたのだ。
「……曰く、この大陸には果てがある?」
「世界の間違いね。あの頃はその区別がつかなかったといって良いわ。いえ、それよりも大陸という響きが好きだったのね。それが私が大陸と呼ぶ理由といえばそうなのでしょう。ごめんなさいね。勿体ぶった割りに、大したことのない理由で」
くすり、と笑う。子供染みた感情だと自分を笑っているかのようで、けれど……まるで今のディアナ様は憧れの何かを思う少女のようだった。
「この世界は箱庭の如くであり、それを超えて海がある。世界は一人漂うのよ。広い、広い海中を一人で漂うのよ。神様が泣くのも分かると言う物でしょう。いいえ、違うわ。神様の涙が作り出したのがその海なのよ。自ら作り出した泪に溺れ、世界は、大陸は奈落へと至る」
酒に酔ってきたのか。それとも単に気分が乗って来たのか、謳うように。それこそ寝物語を語り聞かせるようにディアナ様が朗々と語る。
そこに口を挟む余地は無い。
「人の神様は悲しみ泣き、絶望こそが神様すらも死に至らせる。例えどれだけ世界を、人を愛していたとしても神様の絶望は消えない。神様は泣き続けるの。延々と。いいえ、永遠に。そして至るのは奈落。世界は、大陸はその奈落へと落ちていく」
世界の果てのさらに向こう側。そこに大陸が落ちていく。
「カルミナ、貴女は知っていたかしら?この世界は、この大陸は自殺するのよ」
「私は最近、知りました」
答えられる言葉はそれだけだった。
「そう、それは結構。教えてくれた人に感謝するのね。神様は抗った。人の神様は、ドラゴンや悪魔や天使や他の神……邪神達に抗ったのよ。けれど……ドラゴンが、悪魔が、天使が、エルフが、他の神様の作り出した存在……いえ、エルフは人に近いのだったかしら。人の神様を壊そうとそれらはこの大陸へ送り込んだの。7つの神様がそれぞれに作り出した者達をね。人、ドラゴン、天使、悪魔、エルフ……他は何だったかしら。記憶にはないわね。獣やクリ―チャーの神様もいるかもしれないわね。それぞれの神が思うがままに人の神様の大陸へと送り込んだ。神様を壊すためにね」
「どうせ自殺するのに壊すのですか?そこに何の意味が」
「そこは順序が逆ね。人の神様は他の神達の攻勢に絶望したのです。それゆえに死に至る。そんな神様を、ほっておけば死んでいく神様をそれでも殺そうとする事は、きっと泣いている子を追い詰めてさっさと殺したいだけ……神様達は残酷なのです」
何が他の神様をそこまでさせるというのだろう。無視すればそれで良いのではないだろうか。どうせ死んで行くのだから。それとも、人間という弱く儚い者達を産み出した人の神様に、他の神様達は嫉妬でもしたのだろうか。
「人の神様を殺すために他の神様はこぞってこの大陸に自らの作ったものを送り出した。だから、あんな洞穴がある。あんな何もかもが存在している場所がある。ドラゴン、悪魔、獣や化け物達。神様の下へ至るための洞穴だからこそ、そこにいる。世界の中心。大陸の中心であるそこに、その最下層に人の神様がいるの。残り6つの神様そのすべてがたどり着く事のできない最下層に人の神様がいる。泣いているのよ。一人きりで、嘆きながらそれでも人を愛し、悲しみに泣くのよ。そして、その悲しみは世界を揺らし、世界を割るの。神様と大陸は一心一体なのよ」
こくり、と再びグラスを空け、ディアナ様が口を閉ざす。それでこの物語は終わりだ、と。
聞き終わり、最初に思ったのは馬鹿だ、ということ。
そんな神様は馬鹿だと思う。愛している者を、大事な者を残して死に急ぐなんて馬鹿のやる事だ。
「という感じね。世に伝わる人の神様の神話と、ミケーネ氏の解釈をまとめるとそういう物語になります。もっともミケーネ氏の書物を全て読みでもしない限りそんな解釈には至りません。もちろんそれを真面目に真実だと考える人などいるはずもない。それこそ誇大妄想です。ですからこのような話は本来、噂にも昇らない。けれど、洞穴が七階層あるという事だけは残った。大陸の創生から既に洞穴があった事だけは残った。何故?」
「中途半端に誰かが広めているのですか?御世辞みたいな文章だけでそこまでどうにかなるほどじゃないと思いますし……」
「そう。それが正解よ。教会がそれを担っています。神話だろうと物語であろうと出典や事の真実など彼らにとってはどうでも良いのです。都合良く自分たちの主張を、天使の物語を語れれば良い。天使を神と崇め、天使が人々の希望を担えばそれで良いのです。彼らの崇める聖なる書物とやらを読んでみると良いでしょう。曰く、『神がこの大陸を御造りになった』『神が全ての罪悪を一つ箇所にまとめ、地の深くに押し込めた』『それを守る様に世界が出来ている』『洞穴の階層は七つ。大罪と同じ数が存在し、最下層には地獄が待つ』故に触れてはならない、と。そして最後の時には神が、天使が、我らを救ってくれる、と。いわゆる、終末思想です」
「盗作にも程がある気がしますね……しかも都合が良い」
この世全ての悪は人の神様へと。あの奇怪な形状の天使がその全てから救ってくれる。なんともはや……都合が良い。否、都合が良いからこその神なのだろうか。
「そしてこれをどちらが先に言いだしたかと言えば、最初に言ったように私はミケーネ氏だと思っております。故に諸説あり、なのです。他にも何人か候補はいますが、出典を探っていけばミケーネ氏か教会にたどり着きます。……ともあれ、彼らにとって人の神は不要でした。そしてそれを語る物語はいらないのです。天使さえいればそれで構わないのですから。ですから、教会は寝物語に作られた神話は物語だと断じ、ミケーネ氏の書物はその全てを創作であると断定しております。中には聖書からの引用を婉曲したものだと言っております」
「卵が先か鶏が先か論争をしたくなる理由も分かりますね。……しかし、なるほどですね。七階層っていうのも元々は神様の数だったんですか……大陸が出来た時から洞穴があるというのも……全部ただの」
「えぇ。神話や物語から産まれたものに過ぎません」
知れば何て馬鹿馬鹿しい事だと思う。こんなにもあやふやで曖昧な物で人の世界は出来ている。けれど、知らない物が、分からない物が怖いように、知らずにいれば取り込まれ騙されるのだろう。そうして騙された者達が作り上げ、いつしかそれが真実であるかのようになり、そうと認識している人達が集まっているのが教会なのかもしれない。
「それが勝手に広まっただけ。どちらも証明できないのですからどうでも良いといえば、どうでも良い事なのでしょう。ですから、知っていたとしても、話のネタとして使える程度にしか意味を持ちません。それに意味があると考える者の方がおかしいと言われるでしょう。今の……貴女のように」
そういってディアナ様は笑った。
「聞かせなさい。何故、貴女はこんな事を聞いてくるのかしら?ただの寝物語を聞くには、ただの神話を聞くには少し……真面目が過ぎるわね」
それはそうだろう。もはや私はそれが物語だと思えないのだから。
「ディアナ様は、神話やミケネーコさんの書物が真実を描いていると思っていらっしゃいますか?」
「いいえ。その全てを是とする程私は夢見がちではありません。全てを組み合わせる事で斯様な解釈ができるとはいえ、やはり寝物語程度と思っております。ですが、たとえば先に貴女が言った世界が鳴動し壊れていく様は昨今の状況と似通ってはいます。それ以外にもそういう所が随所に見受けられます。ゆえに、その全てが創作ではないと考えています。ですが、私には世界の果てに行くことも洞穴の最下層まで行くこともできません。証明が出来ない事を真実だと言い張る程、厚顔無恥でもないの。……それに、今こうしてこの世界はある。大陸は死んではいません……ですから、物語と判断するしかありません」
「人の神様は一人の人間に殺されて自殺する事はできなかったのです。そしてドラゴンの神様は、人の神様を壊せなかった、らしいのです」
「……続けて」
「天使もいました。悪魔もいました。天使について良く知っていた人は捕まりました。ご存知ですよね?」
「えぇ。あの場には私もいましたからね」
「……リオンさんはこの大陸の自殺を止めてほしいと言ったのです。彼は殺す事しかできなかったから、だから……あの子を泣き止ませてほしいと。その義理の娘である人は……いいえ、ドラゴンである彼の娘が言ったのです。ドラゴンの神様はけれど人の神様を壊せなかったと。人の神様が強かったわけではないのに、壊せなかったといったのです。一方で、その父が神様を殺したとそう言うのです……ディアナ様。この世界は何なのでしょう?あの人は、捕まる事さえ想定して、死ぬかもしれない想定をしてそれでも、私に後を託した。彼は何を私に託したのでしょう?何を言いたかったのでしょう?……私は、何をすれば良いのでしょう」
酒の所為だろうか。まとまらない考えが延々と流れ出していく。
言われた事を反芻しながら娘と話した事、図書館にいって先輩と話をした事、そして神話ならばとディアナ様の所へ連れてこられた事。ひとつ、ひとつ馬鹿馬鹿しくもけれど自分の考えを交えて語っていく。
その間、ディアナ様も、先輩も二人とも一言も口を挟まず頷き、時に果実酒を嚥下しながら聞いてくれた。私の思いを。私の吐露を聞いてくれた。
「全てが真実だというのならば、恐ろしい話です。ですが、その全てをそのまま信じる事はしがたい。ミケーネ氏と神話から得られる考えを当て嵌めれば……そしてリオンといったかしら。彼の言葉が正しいと仮定すれば、殺されている神様を、壊せなかった神様を探して今も洞穴を這い回る化け物達を超えて、貴女は到達しなければならない。第七階層に貴女は向かわなくてはならない事になる。どんな神様だとて到達できなかった場所へ。泣いている神様の下へと。そうしなければ世界はなくなってしまう。……それが出来るのは貴女だけ。貴女だけが泣いた神様を慰める事ができると彼はそう信じたのかもしれません。ですが……」
「できるわけがないです。でも、そうしなければ世界は救われないのでしょうか。神様なんてどうやって慰めるのでしょう?救えばまたドラゴンが、天使が、悪魔が襲ってくるのではないでしょうか?いえ、そもそもどうやってそんな場所に?……今もいるんですよね?そんな中に私なんかが……リオンさんはどうして行けたのでしょうか?ガラテアさんがいたから行けたのでしょうか?でも他の神様が作り出したものでもたどり着けないなら……いえ、もう分かりません。何が何だか……分からないのです。私は……何をすれば良いのでしょう?ただの奴隷としてただただ洞穴に潜っていれば良いんじゃないんですか?……私は……どうすれば……誰か、教えてください」
思考はまとまらず言いたい放題の言葉しか出てこない。意味を要さないただの戯言。そんな事を延々口にしていれば、激に眠気が襲ってくる。
酒精によるものなのは間違いない。それに今日は朝からずっと考えっぱなしだから疲れているのだ。奴隷に絡まれて、先輩に慰められて、そしてこうして管を撒いて……まったく、らしくないと思う。そして更にらしくない事に、このままこの人達に見守られて眠りたいと思ってしまう。
「もう呂律も回ってないんだし、眠いなら寝ても良いわよ。…………ねぇ、これ少し強かったかしら?」
「いいや。ま、でも丁度良いんじゃないのか?休ませるには、さ。……カルミー、先輩が見張っていてやるからさ。今日はもうゆっくり休めばいいよ」
優しい人達の声が聞こえる。
誰かに見守られて寝る事が心地よかった。何かに怯える事なく眠られる事がとても心地よかった。誰の事を気にする事もなく、自分の事すら気にすることなく、ただ熱に侵されたようにふわふわとしながら眠りにつく事がこんなにも心穏やかになるなんて……知らなかった。
「おやすみなさいませ、黒い皇女様。願わくば良き夢を見られんことを」
それは誰の声だったのだろう。
私にはもう、分からなかった。
―――
頭痛と共に目覚め、宛ら蠢く死体の如く。『酒弱いのな』という先輩の無慈悲な一言と共に水を貰い、もう二度と酒を飲むことは無いと誓った。ちびちび飲んでいただけで何故ここまで頭が痛くならねばならないのだ。頭を割れるような痛みを覚えながら冷水で汗を流した後、吐き気を抑えながら馬車に揺られゆられて家となったお店へと帰り、スツールに座りカウンターに体を横たえる。ちなみに先輩はゲルトルード様の下へいくためにお城へ向かったので一旦御別れである。
「うへぇ……」
気力だけで歩いてきたように思う。
家には誰もいなかった。テレサ様までおられないとは一体どういう事なのだろうか。確かこの場所に捕らわれているはずなのだが。
「どうしようっか」
一人、カウンターに座りながら呟く。色々分かったし、色々整理できたと思う。けれど、結局最後はリオンさんかガラテアさんから聞かねば分からぬ事ばかりだ。ならばその時が来るまではいつも通りでいよう。
「依頼……こなさないと」
この家にあるものは好きに使って良いとガラテアさんから言われているが、そうは言っても先立つものがなければ始まらない。それに、ディアナ様があと一つ功績を挙げれば、と言ってくれたのだ。依頼をこなす必要がある。
しかし……冷静に考えて洞穴で得る功績とは何なのか?と言われると良く分からない。宝石とかお金でも良いのだろうか、と今更ながらにディアナ様が言っていた事が何なのか分からない事に気付いた。
「安請け合いしたかもしれない……」
でも、期待してくれた。期待してくれたのならば、少し……がんばろうと思う。思ったが、けれど頭の痛みには耐えきれず寝て、気付けばテレサ様が帰って来ていた。
「どこいってたんですか?」
眠い目を擦りながら問いかければふふーんといつもの仕返しとばかりにテレサ様が楽しそうにしていた。
「カルミナには教えないわよ」
本当に楽しそうだった。それこそ未練を一切なくしたかのような晴れやかな笑顔のようにも見えた。
「酷い幽霊もいたものですね」
「幽霊だもの。酷いのは当たり前でしょう。でも、その幽霊に未練を残させた人の台詞ではないけれどね?」
「それは道理ですね。えーっと、ドラゴン師匠と妖精さんはどこに?」
「さぁ?そっちは本当に知らないわね。でも、そうね。洞穴にでも行っているんじゃないの?前も墓参りと称して洞穴に行っていたわけだし」
「だったら自分で材料集めて来いって話だと思うんですけどね……」
「あぁ、武器の話ね」
言い様、世界を自由に飛ぶ。楽しそうだった。体がない分自分の意思で好き勝手に飛ぶことができるようだった。誰もいない場所をあちらへ、こちらへと動いている。メイド姿でそれははしたないとは思うものの幽霊の価値基準では構わないのだろうか。元貴族のなのに。
「テレサ様、はしたないですよ。そんな事していたらお里が知れてしまいますよ」
「あら。それはそうよ。でなければ私はここにはいませんからね。はしたない親の子ですものね、私。蛙の子はオタマジャクシというじゃない」
今度は自虐的だった。何だろうこの幽霊。私が何かしただろうか。いや、大概しているけれども。
「別にカルミナを馬鹿にする気も誘惑する気はないのよ。ようやく幽霊の体に慣れてきたから色々試しているだけ」
「慣れるとかあるんですねやっぱり」
「それはそうよ。人と違って二本の足で立つ必要がないのだからね。地面という感覚もないのよ?気を抜くと足元が分からなくてくるくる回っちゃいそうだから気が抜けないのが玉に疵ね」
確かに地に足をつく必要はない。そもそも物に触れられるのか?という話だがメイド服を着たりできる以上大丈夫だろう。えぇ。
「暗殺者向きですよねテレサ様」
「ちょっと、失礼よカルミナ。一応だけれど元貴族に対して暗殺者風情と一緒にするなんて」
と言いながらも何だか嬉しそうだった。暗殺者が主人公の戯曲でもあるのかもしれない。女暗殺者と暗殺対象である王子様との愛欲の物語だと、勝手に想像しておこう。
「あぁ、蛙で思い出しました。なんか不思議な蛙を探して来いとか言われていたんでした。どこにいるんでしょう……いや、きっと洞穴だとは思いますけど」
「何?蛙なら湖に大量にいるでしょう?げこげこげこげこ夜中でも煩いわよ?出来れば一掃してくれると嬉しいのだけれど。ほらお得意の火炙り」
「蛙の内臓って小さいけど焼いたら結構美味しいんですよね」
「……貴女のその変な食べ物趣味はどこからきているのかしら?私、不思議でならないわ」
「それはもう元々ただの村娘ですからね。野山を駆け巡り、といった所です」
「普通の村娘は野山を駆け巡っても内臓は食べないと思うのだけれど」
「それもそうかもしれませんね」
「それで?どんな蛙なのかしら?」
「脳みそ蛙とかいうらしいです。名前からしてあれなんですが……しかも武器の材料だというのだから良く分かりません。何故生物を武器に使うんでしょう……」
「さぁ……無機物を食べさせる親の子だからじゃないのかしら」
「確かに、それもそうですね。諦めが肝心という奴でしょうか……蛙の子がオタマジャクシなら、人の子はドラゴン、と」
「何が言いたいのよ貴女」
「現実を直視しただけです。なんでもかんでも起こる世の中だなぁと。そういえば、ガラテアさんが言っていましたね……この世界で起こり得ない事なんて何もないって」
それさえ分かっていれば、すぐに分かると言った。
「魔法があることも幽霊がいることも悪魔も、天使もいることもだったら……神様もいて、一度殺されてそこから生き返る事があっても良いかもしれない。神様が再び死にたがっているのを、それを止める事もできると思えば、出来るのかなぁ。そんなこと、私に出来るの?」
また、思考がそちらに向かう。託された願いが私を責めているかのように、そんな風にさえ思える程に。こんなちっぽけな私に何ができるのだろう。こんな不幸だけを振りまく私に何ができるのだろうか、と。何度悩めば気が済むというのか。先輩相手にあれだけ吐き出した。ディアナ様の前で醜態を晒した。だけれど、でも……それでもまだ私はこんなにも弱気で、気弱な考えしか浮かばない。だって仕方ないだろう。私は……
「何を言っているのか私には分からないけれどね、カルミナ」
押し黙る私に天地逆に立ち、けれど髪も服も落ちる事なく天井を向いたまま、腕を組むテレサ様が馬鹿にするような、いや、呆れたと言わんばかりの表情で見つめていた。
「なんでしょう?」
「貴女は私を泣かせたのよ?そして私は今もここに居る。それを忘れないで頂戴ね。貴女がいなかったら私はあの世で怨みと辛みに苛まれていたでしょう。そんな私を、世の理を無視して止めたのは貴女。それだけは事実よ。だから、そんな馬鹿な事ができる貴女に出来ない事なんて、ないと私は思うわけよね」
「買い被りますね」
「そうね。買被りかもしれない。けれど、貴女はそれこそ、こんな私の為に泣いてくれたのよ?だったら、それは掛替えのない宝石以上の価値があるというものでしょう。高値を付けても悪くはないでしょ。貴女がどう思おうと、そのような者に出会えた私は幸せなのですからね」
幸せだと、そう言った彼女は笑っていた。
……嬉しかった。それは夜の帳の中かもしれない。けれど、その中でもそんな風景の中でも笑えるということなのだろうか。それが、嬉しかった。思えば、エリザも笑っていた。誰も自分が不幸だなんて、そんな事は言っていない。私だけが勝手にそう言っていただけのように思う。
「……なんですか?別れの言葉みたいですけど」
「何言っているのよ。大丈夫よ。私の未練はあの時から増えるばかりだから。寧ろ貴女が弱々しくしているのが気に食わないだけ。私に未練を残させた貴女が何を迷っているのよ。誰に何を言われたかは分からないけれど、生きているんだから楽しみなさいよ。いつもみたいに笑いなさいよ。うちの店長みたいに馬鹿みたいにニコニコしてなさいよ」
「それも、そうですね」
苦笑が零れる。幽霊に諭されるようじゃまだまだだ。私はまだまだだけれどもっとまだまだだった。
「笑っていれば、神様も笑ってくれるらしいんですよ」
「じゃあ、笑ってなさいな」
幽霊が慈悲深く笑みを浮かべる。神は嘆き、悪魔は死肉を喰らい、天使は人を陥れる。エルフはその身を焼き、ドラゴンは人々を壊し、世界を壊す。そんな中、幽霊が笑みを浮かべていた。滑稽だった。笑える程に滑稽だった。こんな馬鹿馬鹿しい世界、笑っていなければ死ぬことすらできない。まして、笑っていなければ生きていけるわけがない。
そうだよ。
育ての親は死に際に言った。教会の人だという人から聞いた教えを。それは人の作り出した物語の言葉だったのかもしれない。物語の全てが真実であるとは言えない。嘘ばかりの物語なのかもしれない。けれど、でも、そう。それだけは真実に思える。
笑っていれば、神様も笑い返してくれると。
そんな物凄く滑稽で馬鹿馬鹿しい夢のような言葉は……逆に真実なんじゃないかって、そんな風に思えてくる。だって、この世界で起こらない事はないらしいのだから。そんな馬鹿げた事が真実だと言う事もあるんじゃないだろうか?
「あは、あははははっ!」
だから、リオンさんはいつも笑みを浮かべていたのだろうか。馬鹿馬鹿しいまでに真面目に馬鹿な事をやっていたのだろうか。
殺す事しかできなかったと語った彼も出来れば笑いかけたかったのかもしれない。泣く子がいるのなら笑いかけて、それを泣きやませる。そんな誰にでもできる事ができなくて、彼は私に託したのだろうか。
そんな馬鹿馬鹿しい事のために、あんな事をしたのだろうか?
「あははははははは」
そんな事なら……言われなくても、
「笑うだけならさ!私にだってやれるよ」
私は不幸を振りまいたかもしれない。自分だけが幸せだったかもしれない。きっとこれから先もその考えには引き摺られる事はあるだろう。けれど、皆が笑ってくれている。だから。だったらさ……そうさ。先輩も言っていた。先輩がいるんだから明けないわけがないのだ。私は暗い風景を産み出すかもしれない。けれど、
「テレサ様、知っていましたか?明けない夜はないらしいですよ」
「そんなの子供のころから知っています。もっともそれでも私みたいに馬鹿な道を歩む者もいますけど」
「私は今、理解しました」
「馬鹿な子ね。まったく、お互い、揃いも揃って馬鹿ね」
「えぇ。馬鹿な神様の作った人間ですからね」
全てが理解できたわけではない。けれど、親が馬鹿な事をしているなら、それを止めるのは子供の役目だろう。それが分かれば、十分だ。さんざん迷った挙句、出てきた答えが最初の、何の気なしにリオンさんに言った言葉と変わらないのは、私がやっぱり馬鹿だからなのだろう。
「御礼に一発殴ってあげますから覚悟してください。神様」