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第一話 天下の隙

# 第一話:天下の隙


慶長五年(一六〇〇年)九月。日ノ本を二分した関ヶ原の戦いは、誰もが予想だにしなかった泥沼の様相を呈していた。


史実であれば、西軍の工作に綻びが生じ、わずか半日で決着がつくはずであった。しかし石田三成が配置した布陣は驚くほどの粘りを見せた。毛利輝元の大坂城固守、小早川秀秋の去就をめぐる迷いが重なり、戦況は膠着。美濃の山々は両軍の血と硝煙にまみれたまま、一ヶ月が経過しようとしていた。


この「天下の隙」を、豊前国・中津城の庵でじっと見つめている男がいた。


黒田如水――かつて豊臣秀吉の軍師として天下を揺るがし、今は家督を息子の長政に譲って隠居の身となった、黒田官兵衛その人である。


「……一ヶ月、か」


如水は、庭に置かれた大きな水鉢を覗き込んでいた。水面には秋の澄んだ空と、自身の老いた顔が映っている。しかしその双眸だけは、まるで獲物を狙う鷹のように鋭く光を放っていた。


中津城に残された兵は、わずか数千。息子の長政は黒田家の主力部隊を率いて徳川家康の東軍に属し、遥か関ヶ原の地で戦っている。普通の大名であれば、領国の守りを固めるだけで精一杯のはずだった。


だが、如水は違った。


「家康め、手こずっておるな。知略に溺れた三成も、今回ばかりは死に物狂いとみえる。双方、存分に噛み合い、互いの牙をへし折るがよい」


如水は低く笑った。彼にとって関ヶ原の膠着は、天が与えてくれた最大の好機であった。


「九兵衛、例のものは集まったか」


影の中から、黒田家の重臣・栗山四郎兵衛(利安)が進み出た。


「はっ。御隠居様の仰せの通り、城内の蔵を開き、蓄えておった金銀を惜しみなく注ぎ込みました。豊前、筑前、果ては肥後の浪人に至るまで、『黒田が仕官を募っておる』との噂を聞きつけ、中津へ怒涛のごとく押し寄せております。その数、すでに一万を超えました」


「結構」


如水は立ち上がった。その足取りには、病を患っているとは思えぬほどの力強さが戻っていた。


「命を惜しまぬ浪人どもだ。金で動く奴原ほど、使い勝手の良いものはない。これより、九州を切り取る」


如水が描いた戦略は、電光石火。狙うは、西軍に与して関ヶ原へと出陣し、主が不在となっている大名たちの領地であった。


「まずは豊後(大分)だ。大友義統が国東半島に上陸し、旧領回復を狙って挙兵したと聞く。これを叩く」


如水は集まった急造の浪人軍を率いて、即座に出陣した。


---


豊後・石垣原。


かつて豊後の主であった大友義統の軍勢と、如水率いる黒田軍が激突した。大友軍は旧臣を集めて執念を見せたが、如水の軍略の前には赤子も同然であった。如水は浪人たちに「一番槍には恩賞を思いのままに執るべし」と叫び、その物欲のエネルギーをそのまま突撃の威力へと変えた。


「黒田の赤壁、突き進め!」


如水みずから采配を振り、大友軍の陣形を鮮やかに切り裂いていく。家康も三成も、遠く中央の泥沼に足を取られている。今この九州で自分を止められる者は誰もいない。その全能感が、如水の頭脳をさらに研ぎ澄ませていた。


激戦の末、大友義統は降伏。如水はこれに寛大な処置を施し、降伏した大友の残党さえも自軍へと組み入れた。雪だるま式に膨れ上がる黒田の軍勢は、豊後をまたたく間に制圧していく。


勢いに乗った如水は休む間もなく軍を動かし、日向(宮崎)の諸勢力を調略、筑後(福岡南部)の城を次々と落としていった。関ヶ原の戦いが一ヶ月続いている間に、九州の半分以上が黒田の赤旗で染め上げられていったのである。


---


中津城を出てからわずか二十日余り。


如水は制圧した豊後の高台から、遥か南の肥後(熊本)、そして薩摩(鹿児島)の空を睨んでいた。


「残るは、肥後の加藤清正。そして薩摩の島津義弘……。この二頭の虎をどう手懐けるか、だな」


如水は顎をさすりながら、不敵に微笑んだ。


中央の関ヶ原がどのような結末を迎えようとも、もはや関係はない。この九州に、徳川でも豊臣でもない、第三の巨大な「嵐」が生まれようとしていた。


如水の胸中で、くすぶっていた天下への野心が、確固たる炎となって燃え上がっていた。


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