第20話 藍の線を指に一筋
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――夜の雁の宿。窓の外で、南の風が白い帳をふわりと持ち上げ、机の上の灯だけが丸く息をしていました。
「セレフィーナ様」
ロジオンが、小さな布包みを胸に抱いて戻ってきます。包みの端は、藍でほんのり染めてあって――彼らしい、静かなこだわり。
「式までに、ひとつだけ……大切な寸法を、ふたりで決めたいのです」
「……指輪、ですのね」
口にした瞬間、胸がすこし浮きました。彼は頷いて、椅子をわたくしの正面に引きます。
「工房でも測れますが、今夜ここでお願いしたい理由が三つあります」
「理由?」
「一つ。指は朝と夜で変わります。あなたがいちばん落ち着いている時刻――いまを基準にしたい」
「理にかなっておりますわ」
「二つ。南部には“輪は人目で固めず、ふたりの静けさで固める”というならわしがあるそうで」
「まあ、素敵」
「三つ。街の耳は早いから、採寸だけは今夜ふたりで。意匠と刻みは御用工房に内々で回します。最後の刻みは式の朝、あなたの前で――それまでは、輪の中身はふたりの秘密に」
どれも、ずるいくらいにまっすぐで、頬が熱くなります。
布包みの中身は、細い絹糸と、柔らかな蜜蝋の板、短い鉛筆。それから――藍の細い糸が一筋、絹糸に撚り込んでありました。
「糸まで、藍……?」
「はい。南部の色を、最初から通しておきたくて」
灯の芯を指でつまんで、すこし落とします。
「ひとつ、今夜だけのわがままを――わたくしの光で、輪の幅を映してみても?」
「ええ、喜んで」
わたくしは左の薬指の上に、細い光の輪をそっと浮かべました。息を浅くすれば輪は細く、深くすれば、すこしだけ幅が増す。皮膚の上に淡い月が載っているみたい。
「……このあたりが、いちばん自然に指の骨に沿います」
「観察が細やかですこと」
「いつも、お茶を淹れてくださる手元で覚えました」
「左手を、お借りしても?」
「どうぞ」
彼の手が、わたくしの左手をそっと受け止めました。掌の温度が、皮膚の下の鼓動に重なって、指先まで音になるみたい。左手の薬指の上で親指が止まり、呼吸が自然に同じ速さになります。
絹糸が一周、ふわり。
「きつくありませんか」
「だいじょうぶ……少し、心臓が張り切っているだけですわ」
「張り切り分も、正確に入れておきます」
くす、と笑うわたくしたち。糸の重なりに小さな印がつき、蜜蝋の板へそっと写されます。糸を解かず、彼はそのままわたくしの指の甲に唇を置きました。触れた場所が、ぬくもりで丸く灯る。
「形は……毎日つけて動きに馴染む細さで、でも光が一筋走るくらいの幅を」
蜜蝋の上に、細い帯がすっと引かれます。
「材は金を土台に、外へ藍の線を一筋。南部の色を静かに」
「好きですわ、その案。内側の刻みは?」
「丘と風の印と、上棟の日付を。そして――
あなたが紅茶を淹れるときの指の角度を、刻みの位置の基準に」
「……そんなの、恥ずかしいですわ」
「いつも見ていたいのです。あなたの“日常に在る輪”でありたい」
胸がきゅうっとして、思わずカップを取りました。
「では、淹れる仕草をいたしますわ。見ていてくださいまし」
「はい」
右手を傾ける、左が添える。注ぎ口を確かめる――ゆっくり所作をなぞるたび、彼の視線がやさしく追いかけてくるのが分かります。絹糸がもう一度、二度、確かめるように指を回り、印が増えていきました。
「工房では、この蜜蝋から原型を起こします。……仕上げは式の場でお願いしたい」
「仕上げ?」
「皆の前で初めて、互いの指に。それを完成の瞬間にしたいのです」
「ええ。喜んで」
糸が外れた指が急に心細くなって、思わず彼の袖口をつまんでしまいます。
「……なくなったみたいで」
彼は小指をそっと差し出しました。
「では、完成までの仮です」
わたくしも小指を伸ばして、そっと絡めます。きゅ。
その小さな結び目だけで、胸の鼓動が一段上がってしまうの、ずるい。
「では、今度はあなたの番ですわ」
彼の左手を、両手でそっと包みます。広い掌の厚み、鍛錬で育ったまめ。手綱の跡がうっすら残り、書付を捌く筆圧の硬さも混じっている。その奥で、脈がゆっくり、確かに。わたくしの指先は少し冷たくて、触れているうちに彼のぬくもりへ溶けていきました。
薬指に絹糸を回すと、関節のところで一度、糸が微かに止まります。
「ここは、すこしだけ余裕を。冬には指が痩せると聞きますもの」
「助かります。剣に手をかける日も、執務で手を使う日もありますから」
蜜蝋に印を写し、幅はわたくしのものより気持ち広めに。
「材は同じにしましょう。外側の藍の線も、あなたとわたくしで揃えて。――内側の刻みは、あなたが剣の柄に“握りを起こす”位置に合わせますわ」
親指で薬指の付け根をそっとなぞると、彼の喉仏が小さく動きました。根元で静かな鼓動が指先へ流れていくのが、こちらにも伝わります。
「ありがとうございます」
「こちらこそ。毎日つけて、毎日いっしょに馴染ませましょうね」
「もうひとつ。ささやかな秘密を仕込みたいのです」
彼が蜜蝋に、ごく小さな点を打ちました。
「この点が、あなたの左手の薬指の内側、真下に来るように。……わたくしの輪にも、同じ位置に点を。手を重ねたとき、二つの点がぴたりと揃います」
「合図、ですのね」
「はい。『いま、同じ方角を見ている』という、ふたりだけの合図」
声が、自然と細く甘くなってしまう。
彼の睫毛の影、真剣な横顔、鉛筆の乾いた音。全部が、今夜だけわたくしのもの。
「指は朝と夜で違う、とおっしゃいましたが――心も、朝と夜で違いますのね」
「ええ。夜は、少し大胆になります」
「……誰が?」
「ふたりとも」
返事の熱が、耳たぶまで上がってきてしまい、思わず視線を落としました。
胸の小鳥が、ばさっと一度。
それを誤魔化すみたいに、彼の胸板を指先で「とん」。
「……ずるい言い方ですわ。――礼儀として、半歩だけ離れてくださいまし」
「承知しました」
彼は素直に半歩下がります。けれど、目だけはやさしく外さない。
灯の縁が、ふっと揺れました。頬の熱がさらに増して、逃げ道の代わりに襟の皺をそっと伸ばします。
布をなぞる指先のすぐそばで、彼の息がかすかに触れて――喉に届く前で止まる距離。
「……もう、そういうところが、困りますの」
「直しません」
ふっと笑いがこぼれて、わたくしの睫毛がひとつ震えました。
彼はその瞬間を大事に包むみたいに、低く。
「ありがとう」
彼がわたくしの指先に短く口づけを落とし、低く言います。
「あなたが輪を受け入れてくださること。毎日を共に囲ってくださること」
「こちらこそ。輪の中に、あなたがいてくださること」
蜜蝋の板は布に戻され、絹糸の端が小さく結ばれました。
「この結び、預かります。輪に変えて、お返しします」
「待っていますわ」
ランプの火が少しだけ低くなり、部屋がミルクみたいに温かい静けさに満たされる。わたくしは彼の手を探して、指先だけを合わせました。きゅ。すぐに同じ強さが返って、きゅ。胸の小鳥が、嬉しさで小さく跳ね、やがて落ち着きます。
今夜、余白に書き留めること――絹糸のさらり、蜜蝋の柔らかさ、藍の糸の小さな誇り。
そして、ふたりだけが知っている点が、これから毎日おなじ方角を指すという事実。
……幸せの練習は、もう始まっているのですわね。
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あとがき。
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次話は明日19:10頃に投稿致します。ぜひご覧下さい。
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