第89回(家=国家=小宇宙の神話以前・その41)
「…おい」
ん? なになに、風ちゃん。
「とか言ってるお前らの一部も、ISSへ入り込んだようなんだが」
風ちゃんは横目で開けっ放しになってる玄関を睨んでます、あー行ったか、そりゃおいらたちだって開拓精神の一欠片くらい持ち合わせてるよ、そこに語り得る世界を広げるチャンスがあるのなら涙をこらえて風ちゃんの引力圏を脱出、けどね、おいらたちはそういう大胆さで進化させてもきたわ、あなたへの愛を、それへの盲目に抗うため常に自ら厳しく視点を動かしながら、一層の大所高所から、盲点だった立ち位置から、あなたすら知らないあなたを絡め取り愛し尽くすために。ぐふふ。こ、今度はどんな高次の座標からあなたをあああ愛せるのかしら。ところで風ちゃん、そのISSに行ったって連中、ちゃんと男女ペアになってた?
「なんで俺が貴様らの繁殖に気を遣わなきゃならんのだ」
えーちゃんとチェックしようよ、生息域を広げるだけじゃなく固定化するには大切なことでしょ。
「いやぁ、本当に今まで一緒に仕事をしたことがない子たちばかりですねぇ」
飛行士さんが、塊から一つ取りだしたメル変っ子をためつすがめつしつつちょっと興奮した様子で言います。あ、今ご覧になってるまん丸の鏡みたいなのは複写能力に長けた奴ですよ、無重量下でしか存在できないような構造を持った物質も、そいつにコピーさせれば安全に地球に持ち帰れたりするかも。
「おお、それは素晴らしい。実験のアイディアがどんどん浮かんできます」
「俺の頭痛の種が。頭痛の種が人類に貢献しようというのかっ」
風ちゃん。お客様の前で、そう鋭く眼窩を落ち窪ませてぶつぶつ言うもんじゃないよ。
「地球にお帰りになる頃には、たくさんの成果で逆に大変かも知れませんね…」
「嬉しい悲鳴ですね。さて、ソユーズで全部持ち帰れるかな? はっは」
「きゅぴーん」
リンちゃんが飛行士さんに同調し、話が弾むかに見えた矢先。風ちゃんは仄暗い眼窩の底から、それは異様な光を発したのです。
「ああああのっ! 飛行士さん、お願いがっっ!!」
「えっ。な、なんでしょう」
「そちらのソユーズで自分だけっ。自分だけ帰還させてくださいっ! お願いします!」
えっ、風ちゃん何それ。家長自ら初めての家族一丸旅行に水を差すとかなんのつもり、空気読もうよまじで。
「んー、そうですねぇ」
あら。しかし飛行士さん、なんぞ鉄砲玉!? って迫り方の風ちゃんにそれこそ最初は怯んだものの、用件を知ってみれば両腕に抱えたメル変っ子の一塊をひと揺すりして持ち直し、小首を傾げてなにやら思案する構え。いや飛行士さん、頼まれたら嫌とは言えないお人柄のようですが。当家の問題に立ち入っていただきたくはなく。
「人間の限界まで痩せこけてもらえれば可能か? いや、まだ無理だよな…」
独り言を言ったり逍遥したりはやはり思考力を高めるものか、あらゆる手段に頼って飛行士さんは方策を捻り出そうとするようです。未だ開きっぱなしの玄関ドア、当家とISSとの境界線上に身を置き、半身に1Gを受け半身を無重量に晒し思考を続けるは如何なることか、どんな結論が? 心身への影響は? わたしたちは幾つかの興味を胸に成り行きを見守ります。
「うーん、困ったなぁ。やっぱり重量オーバーだよなぁ」
ぷしゅっ、という鋭い物音にどうやらそのぼやきが断ち切られ、玄関に落ちてころろ・かららと虚しい音を立てたようなのです、それで我に返った時にはもう、我が家の玄関ドアは再び閉じられ、気密も完全に再確保されていたのでした。
「ほわぁっ!?」
場にゆっくりと理解が浸透していく中、真っ先に反応したのは風ちゃんでした。
「にに逃げられた!? なんちゅう自然な引き際、もう一押しする隙もぬぇ!」
飛行士さんの姿はもうとっくに分厚いドアの向こうです、それでも風ちゃんはそうせざるを得なかったのでしょう、玄関に殺到しようとしました。そこに澄んだ警告の声。
「アンドッキング。当家はISSから放出されます。総員、対ショック・対閃光防御」
「なんだとぉ? だから何が必要だっ、とぉぉぉぉ!?」
自ら好んで最も不安定な体勢だった風ちゃんが一番酷い目に遭ったのは言うまでもありません、それにしても乱暴なオペレーションですねぇ、当家は把持されていたロボットアームによってまさに投擲された模様、しかも勢いを得るためか一度反対に大きく振られ・絶妙に意味ありげな間・その後急加速! ああ死んだおばあちゃんじゃなくてアームを操作してる人の真剣な中にも微笑みを禁じ得ない表情がはっきりと見えたわ、どっせーいと金属の大腕はしなりっ! 正味漫画的な一瞬できらーんとお星様、わたしたちは再び地球を巡る自由人となったのです。




