第85回(家=国家=小宇宙の神話以前・その37)
「ここ、本当に新しいお家なんでしょうか…」
リンちゃんは不安げに首を巡らしながら、そっと風ちゃんの傍らに寄り添いま…げふんげふん、なに自然を装ってわたしたちに事実化させようとしてんの、小娘。
「げへ★…こほん。だって、なんだか静かすぎます…」
「はっはっは。こぉんな惨状を招く騒ぎがあってもまだ足りないのかい? いやぁ困ったお嬢さんだ、ほんとーに困ったお嬢さんどぅぁ」
「風太、今は新居との思い出に浸ってたいってのも分かるが耳を澄ませてみろよ。表から全然音が入ってこないだろ」
「そりゃあ殻に閉じこもった僕にはなぁんにも聞こえないさ」
そう言って姐御さんを突き放し、風ちゃんは壁に向かって膝を抱えようとするものの、どちらに向かっても固着生活者たちの器官あれこれがそっと風ちゃんのあれこれ目掛けて伸びてくる、ついには両膝・額の3点にて技ありの安定、床に向かって悄然と膝を抱え込み。風ちゃん、そこまで。けどなんかヨガのポーズを決めてるようで健康的に見えなくもない。
「ふぅむ。王は抉られるほうが好みか?」
「はい?」
「いや。その様に、尻を高く上げて待ち構えるようだからな」
佳きかな。それもまた快楽の万華鏡なり、我が口吻にてお相手、とか女蚊様がまだなんか言ってたようですが、風ちゃんは両のふくらはぎを尻に引き付ける本能が示したガードポジションにて女蚊様の側から緊急転がり離脱、そのまま壁にぶつかって実は固着生活者の器官あれこれにとうとうあれこれをまさぐられちゃってるんだけど、女蚊様ショックの方が余程鮮烈だったのか〔微弱な刺激=現在〕に無意識に掻き抱かれていく体、されどいよいよその目は〔女蚊様に何をされかけたか=過去〕に向かって理知的に開かれるよう、ちょっとダメ風ちゃん。その仕草はむしろその。この場にいる全員があなたを今すぐ抉りたく。お慕い申し屹っ!立っ! でありますほどに。
「お? っおーそうだ、ここが新居かどうかは、外を見れば一目瞭然」
風ちゃんは妙に反り返った直立姿勢で立ち上がるとべりべりべり、その不自然にしゃちほこばった体勢を死守せんとばかりに足首から先の動きのみを駆使して固着生活者どもの器官あれこれからゆっくりと体を引き剥がす、そして束縛から自由になればうわっなんか気持ち悪い足の指先だけちょこちょこわしゃわしゃ動かして走ってる、そのままこの部屋の一方にある窓辺に近付き、外もいい加減明るいだろうに引かれたままになっていた、真新しい遮光カーテンに取り付いたのでした。
「新居はな、前の家に比べて庭が広いんだぞぉ。その庭はこの窓から一望されて」
風ちゃんはちょっと誇らしげに、摑んだ遮光カーテンを一気に引いたのでした。が。
「あー…月が見えてしまったかー」
女神様が一見するなりげんなりした様子で呟いた通り、窓枠に切り取られた一幅の光景の奥の方、黒々とした空を背にころんと正座するようにして、ほぼ満月と思われるお月様がわたしたちを出迎えてくれたのでした。え、そりゃ変でしょ。月が見えるのは一向構わないのですがもうとっくに陽も高い時間帯、あんな上がってぇーっ⤴ 昇ってぇーっ⤴ 思わず目指したくなるよな良い夜空が背景にあるというのは。しかしお月様は厳然と夜空に浮かび、あ、またまたなんか変。と言うのも、真円に近いお月様の端正だった輪郭の下端が、にわかにぐにゅっと歪んだからです。あらー、なんか水の中に沈んでいくみたい、下端を蝕み始めた歪みは徐々にお月様を這い上り、蝕まれた部分の月は歪むだけでなく矮小にもなるようで、正常な部分とのスケールバランスが明らかに狂っています。と、見る間にもお月様は歪みに没し。上端だった部分が、水面に流れそのまま固まった灰白色の絵の具のように見えていたのも束の間、完全に姿を隠してしまいました。一連の現象を観察出来ていた者は皆、月が沈んでいった辺りを呆然と眺め続けています。そこには墨よりも黒い空を思い切りよく画するものがあったのです、それは巨大な氷塊に見られるような涼しげな水の青に輝き、緩い弧を描きながらわたしたちの視野を超えてなお伸びる、長大な光の帯でした。この光の弧は、目眩がしそうな程の長さを持ってはいますが厚みはそんなでもない、少なくともさっき隠れた月の直径よりは薄そうでした。それつまり。さっきのように完全に月を隠すには、別の何者かが。ねぇ、風ちゃん?
「…あのさー、エレ様」
「んー、なんだい」
「眼下に眩しく広がるアレ、ま・さ・か・地球じゃあないよね?」
「いんやー、地球だお?」




