第83回(家=国家=小宇宙の神話以前・その35)
「んむ、そうさなぁ」
風ちゃんは溜息混じりに言うと、右手をぽんと泣きじゃくる女神様の頭の上に置いたのです。女神様はびくっとして、風ちゃんを見返しました。
「なーんか、どうでもよくなった。子供に泣かれちゃ敵わんしなぁ」
いーやいやいやいや、その理由はどうかと。だって実際の年齢差となったら風ちゃんの歳なんて間違いなく近似的にゼロだよ、それくらい女神様のナイショとはかけ離れて。むむ、そのように指摘してる間にも風ちゃん置いた手をゆっくり動かし始め、丁寧に女神様の頭をなでりなでり。女神様の方は最初は目を白黒させてなすがまま、やがて驚いて・また泣きそうになって・最後は輝く夏空を見渡して思わず快哉を叫んじゃったひまわりみたいに、おっきなおっきな笑顔を見せたのでした。
「赤の他人の寄り合い所帯のはずが家族を思わせる…いや、場合によってはそれ以上の絆を見せてくれるのだからな。いや、他人こそ家族の始まりであったか。やはりこの家は、なかなか面白いなぁ」
女蚊様はしみじみとした様子で急にそんなことを、なんか現代小説のテーマ語りみたいですねぇ、一篇ものする気にでもなりましたか。
「別になんの脈絡もなく言ったつもりはないぞ。お前たち一家、引っ越しで困っていたのではないか?」
おおそうであります、おいらたち卦好家一同、固着生活者故に自力で移動出来ない・顕微鏡レベルの小ささ故に移動出来ても距離が稼げない、そんな連中は元より、そもそもこの大量に過ぎ、しかも交通ルールなど及ばせたくても及ばない人員をどのように新居まで統率行軍・安全に移動せしめるのか、卦好家史編纂委員会メンバーは言うに及ばず、一般家族も注視せざるを得ない非常事態に直面してるのでありますよ。
「そうか。では、私が何とかしてやろう」
えっ、そりゃまたあっさりと。しかし女蚊様がなんとか出来るのなら我らが元祖女神様だって何かしら打てる手はあったはず、もうとっくにサジェスチョンのひとつやふたつ出てたって不思議じゃないと思うのですが。
「神がやる気で俺は死期、っていうのが経験則的生存戦略の第一項なので、そっちは勝手にやってもらって、俺は逃げていいよね?」
風ちゃんがここではない何処かを夢見るように見遣りつつ・口調は一層切実にサジェスチョンすれば、
「風太さんの経験が警鐘を鳴らしましたか…これは、私たちにとっても潮時ですね…」
「今のご時世、非常用持ち出し袋なら常備だけど…出来れば、一生使わずに済んで欲しかったんだな…」
「な、なんだよ。何が始まるんだよ?」
リンちゃんと小動物はいつにない真剣さを言葉の端々に滲ませ目配せし合い、この家に関わり始めてから日の浅い、てか今日から深入りし始めた姐御さんは戸惑います。
「その元祖女神と一緒にするな。私の奇跡に危険などあるはずなかろう」
「あ、奇跡。奇跡とか言い出した。と言うことならば僕、一足先に新居に向かわせてもらうんで」
女蚊様は憮然と反論しますが風ちゃんはどこか上の空です、明後日の方向にしゅたっと右手をあげたかと思うとすたすたすた、大股に台所のドアに歩み寄ります。
「…行為主体が変わろうと何しようと、我が家で神と言えば、そんなものですから」
ドアノブに手をかけた風ちゃんは、しかし直ぐには出て行かなかったのです。一呼吸、二呼吸、居心地悪そうに肩を揺することで逡巡を表現していた風ちゃんは、皆に背を向けたまま、とうとう最後にそんなことを呟きました。おやなんだか不器用な男の捨て台詞っぽい。そしてなにやら万感の思いを込めてノブを捻り、いざ立ち去らんとする。
「失礼な上にせっかちな男だな…ならば、これも体験してみるがよい」
怒ったのと呆れたのとが半々くらい、それ以外はなんの変哲も無い女蚊様の言葉だと思っていたのです。最初に気付いた異変は鳥の声、向こう三軒両隣さんたちの様々な朝の生活音、前の通りを時折過ぎる車やカブ、わたしたちが自分の問題に拘泥している間にも地球は回り世界は動く、陽が高くなればいよいよ増し、丑三つ時でも絶無とはならないはずのそういったありとある屋外の活動の物音が、あれ、女蚊様の言葉が終わるか終わらないかのタイミングだったよね、いつの間にか完全に消失していたことでした。ぬぅ、これなんぞ。あ、あー。ん、別に耳がおかしくなった訳じゃ、っ…!!
「きゃっ…!」リンちゃんが、突如失われた平衡に恐怖を感じ悲鳴を上げたのです、
「なんだな…!」そして、感情起伏常時フラットの小動物ですらこの突発異状には恐慌を顕わにし、
「わわわわっ」姐御さんは狼狽しつつも失われた平衡に合理的な対処をし始めていて、
「ツヨイ奇跡震ヲカンソク。ゼロキョリ湧キ出シ。迎撃・ゲイゲキ」女神様はなんか変、
「ほら、ほらっ…! やっぱり僕の言った通りだったね。奇跡なんてさ。奇跡なぁーんーてぇーさぁーあっあっあぅんぼぼばばばぁっはぁあっんっ」




