第4回(女神様は彼と遊ぶ・その4)
うーん、形容しがたい。まぁさっきの横スクロールもそうだったけど、このお家に暮らしていると、とにかくしょっちゅうこんななんとお伝え申し上げればよいか迷う光景に出くわすのです。今のこれはなんてーか、空間の栓が抜けたって感じかな。栓になってたのがさっき風ちゃんの後ろ頭を襲ったあの缶ね。それを栓と見る通り、それが落ち抜けた後にはきっちりとそれが嵌るくらいの穴が確認できます。穴。そう、虚空に開いた穴。四辺からこちらへ真っ直ぐに伸びてちらちら動いて見える薄い影が、どうしてもそこに幾らか奥行きのある、虚空に開いた小窓の存在を思わせます。けど、小窓って言っても伸びてくる薄影が四角く縁取ってそう形容できるだけなんだから、こんな光が真っ直ぐ進めそうな所で回折とかはきっと無いよね。ってことは、この目に見えない四角な領域から伸びる薄影は、南向きの大きな窓から入ってこのお部屋全体に均質に広がる光に由来する訳じゃなくて、うむむ、何処か余所から差し込んで来るみたいですヨ? んだば何処から? 見えない小窓の向こうからは、薄影がちらちら差し込んでくるだけでなくさっきから微かに衣擦れみたいな音も聞こえてきます。ん、差し込む薄影が突然消えて、明るい風ちゃんのお部屋のその小さな四角な領域だけが、ぱっと真っ暗になりました。続いてごそっごそっ。少し間をあけてまたごそっごそごそっ。くぐもってはいるけれど激しい身動きを想像させる気配が、暗闇の向こうから断続的に伝わってきます。程なくしてその強い気配はやんで、けれどこの沈黙は何処かのっぴきならぬ緊張を孕むもので、四角く嵌め込まれた暗闇からはおどろ~っと線状のものがだだ漏れています。そして突然ずっずっずっずっ…とリズミカルに物どうしが擦れ合う音がし始める。うーん、音がちょっとずつ近付いてきますね。なんか大きなものが狭い穴を這い進んでるみたいなんだけど、とにかくこっちになんか来る。
っぽん。小気味の良い炸裂音がして、それの端っこが現れたのです。ふむ、前面の面積はこちらへ差し込む薄影が限ってた長方形とおんなじ、つまりあの缶の栓になってた面と一致して、20センチちょいかける5,6センチくらいかな、すぱっと切り下ろされたみたいな綺麗な断面をしてる。その面がずっずっずっずってちょっとずつこっちへ迫り出してきてるんだよね。そのゆっくりと露わになりつつある四角柱の側面は、前面に比べたら表面がちょっとでこぼこしてて、その窪みのどれかがこっちへコンニチハした瞬間に、一気に逃げた空気がさっきの“っぽん”になったみたい。よく見ると、ちょっとした凹凸以外にも無数の細い筋がうねるように刻印されてるみたいですねー。ずっずっずっずっ。そう観察してる間にも四角柱は四つの側面をずっくんずっくんずっくんずっくんと大きく脈打たせ、短い周期で寄せてくるその波を終端に当たる前面の膨張/収縮によって繰り返し押し戻しながら、その作用で狭い穴の中を這い進んでくるようです。風ちゃんはこの出来事を前にして、目で捉えた事に心胆寒からしめ、語られた事に思わずしっぽりして身動きを忘れてるみたいですが、実際には理解が追いつかなくて放心してるだけです。風ちゃんの目は迫り出してくるそれの前面にさっきから釘付けです。そこに何が見えるかと言いますと、目が見えるのです。左右どっちかな、風ちゃんから見て右下辺に鼻らしき物が見えるから右目なのかな。もう片方は、迫り出してくる四角柱のここからは見えない底面の方に、多分折り返されてる。要するに左に首を傾げた人の顔の一部が前面に、その面からはみ出した部分は四角柱の他の面にかくっと折り返されてるみたいなんですが、これが一見精巧な2D画のようで、その実たとえば風ちゃんが凝視する右目もちゃんと相手を見返して、時折真っ平らなまぶたで風ちゃんに焦点のあった平らな眼球を覆いますし(腹話術用の人形の口の動きみたいです)、小鼻の辺りをよく見るとカッターで切ったようなスリットが時折ぴくっと、ごく平面的に開閉するのです。でもって、その生きてるっぽい平面顔が例のずっくんずっくんに合わせて凸面に歪み凹面に歪みしてにじり寄ってくる。やあ、どっから来たの物体X。でもね、風ちゃんが逃げ出さないのは、腰が抜けてるからってばかりじゃないと思うんだな。だって風ちゃんが見据えたままのあの目は、風ちゃんもおいらも良く知ってる目だもの。夾雑物を一つも含まないくらいの鋭利な水を深く積み重ねた果ての、本当の透明に宿る青。そんな稀少な青を、おいらたちは毎日あの瞳に見てるのです。
急に出自不明の物体Xが動きを止めました。かと言って、それは平面顔とは反対の端を屈折率の継ぎ目に断ち切られたみたく唐突に見えなくしたまま、虚空になんの支えも必要とせずに浮いていて、事がまだ完全に終わってないのを予感させます。ををっ、平面顔とは反対のその端のぐるりに沿って、一筋の深い溝がぐにっと刻まれましたよ。受精卵が最初に卵割する瞬間を見たかのようです。あ、おいら今この物体Xが何であるかを言ったっぽい。でも実際に発生が始まってるとしてその果てに見出すのはやっぱし物体Xの様な気がするから、結局は何も言い当ててないっぽい。けどまあ、もし卵割のような現象が続けて見られるのなら、一応はこれを何かの卵と仮定し。仮定してもいいかもって思ったのですが、その仮定は直ぐさまひとつの事実により反証されました。まったくもって科学的です。虚空に浮かぶ四角柱状の物体Xは、刻まれた溝によってその大部分を占めるブロックと板切れ程度の厚みとに分かれたようになっていますが、板きれの部分は静止したまま、大きなブロックだけがゆるゆると回転し始めたのです。一体これはどんな仕掛けになっているのでしょう、そうですね、ある種の蜂の異様に細い腰を思い浮かべることは一応出来ます。あの一筋の深溝が刻まれることで、物体Xのブロック部分と板切れ部分とが非常に細い管状の構造で連結されるようになったと。ええ、でもそれはその管を回転軸としてブロック部分が軸周りに回ってるんだって考えることですネ、一方ではこの物体Xも目鼻があったり脈動なんぞしたりして、そうそう、そうですよ、仰る通り生きとし生ける者の一種には違いないので、とどのつまり謎が深まるだけなのです。それにしてもその大きなブロック部分の回転速まること高性能モーターの如く、静かなること高性能モーターなんてお呼びじゃありません、無音です、無音。ただ、周りの空気がはっけーんとばかりにこの突如現れた遊具にこぞってじゃれつくので、小さな子たちの歓声がマクロな耳には丸い風切り音となって響きます。ももももも。それは扇風機が一途に回る物音に似て、なんだか夏の午後の気だるさとそれにまつわる条件反射が身の内に思い。出、さ、ふおっ。がくってなって目が覚めた。今無意識に一瞬触れたことで見通せたのですが、この静かな回転は実はとてもざわめいています。外見上は何も変化が無いようで、いやいや、四角柱だった物体Xの回転し続けるその部分が今は円柱状に変わっていたりはしますよ、それよりも直接は見えない所で著しい圧の上昇がですね、つまりは回転する物体Xの内部で、なんとゆーか子ども特有の贈与論理みたいなものがとどめようもなく意志されてる感じなのです。ももももも。物体Xはなおも回転します、贈与圧がより高まるようです。ももももも。すると突然、回転する物体Xの周囲にさぁっと光の円盤が広がりました。ちょっと待ってください、それに目を奪われた瞬間に物体Xの表面にも劇的な変化が起こってます、ほぼ平坦だったそこに、今は豊かな起伏が見て取れるのです。Xの回転が徐々に緩やかになり、それに連れて広がっていた光の円盤も径を小さく、丁度傘をゆっくりと閉じていくみたいにすぼまっていきます。回転が音も無くやんだ時、内に回転の継続を含み込むその静止によって、今はすっかりすぼまった光の輪がさらさらと、運動があった方へちょっとだけこぼれました。すると、物体Xの両脇から人の腕が左右正しくにょきっと生え、前面だった部分は軽く揺れながらぐっと上に反り返り。それら一連の動きが輪だった光を重力に引かせ、驟雨のように流れ落とさせたのですが、
「ばぁーっ」
結果、その人の得意満面の笑顔は、一層映えるようそれに額装されたのでした。ばぁーっ、じゃねぇ。このバカ女神!




