第36回(なんにも穿かずに失礼してます・その3)
「風太さん。そちら、窮屈でしょう…? もっとこちらへ、詰められますよ…」
とか言いながら風ちゃんの右手を抱え込み、より自分の方へ引き寄せようとする魔性少女。ちょーっと待て
「エレちゃんもそっちの修羅場へ混ぜてもらおっかなー」
「角笛が鳴り響こうともそれだけはやめてください」
抑揚は冗談めかしつつもドスのきいただみ声で言い出した姿の見えぬ女神様に、一打即響、風ちゃんはテーブルに額を擦りつけたものです。
「ふんっ」
その音節間の微細な隙間から蔑んだ目を光らせる女神様。同時に、それまでは穏やかな日差しに殆ど眠りかけていた森が、気配と言えばそうですね、ちょっと離れた所からぱちん…ぱちん…と、焚き火かな? と思わせる音がさっきから、勿論森の中は火気厳禁ですから実際は薪がはぜるのに良く似た音でね、種子を周辺にまき散らすためにフジの実が弾ける時の音なんだけど、活動を思わせるものといったらそれくらいだった静かな森が、にわかにざわつき始めます。風が来る。木々のトンネルの、小動物がもそもそと歩いてきた湖畔の方角から、トンネルを駆け抜けんと一陣の風が迫ってくるようです。ざざざざざざ…湖の方から来た風だからでしょうか、思いの外冷たいそれがもっさりと動かずにいる小動物を追い越していきました。一斉に逆立てられる小動物の毛並み。けれど、それは毛足の長い冬毛のようだからこんな冷気なんぞはあっさりと防いで…いや。それでもなお寒いと感じたからなのか、それともそこがたまたま毛皮の切れ目だったからか。長い尻尾まで巻き上げられ哀れ衆目に晒された、まぁそれが獣の自然っちゃ自然なんですけどね、出口がね、一瞬きゅっと
「注目すんのはそ・こ・じゃ・ぬぇーっ!」
気付いてみれば、一筋の光が虚空にきらきらと舞っていたのです。それは小動物の額に生えていたあの1本の金毛でした、強い風に攫われ、これだけは小動物の体から離れたのです。風は当然そのまま微かな荷物を運び去ろうとしますが、金毛は風をいなしてくるくると、支えの無い風車のように回って虚空に留まり続けるのでした。金の羽根の、子供が持つような小さな風車。瞬き一つ。するともうそれの直径は、数十倍にも大きくなっているのです。おや、この光の円盤はかつてどこかで語ったやうな。ほら、風ちゃんのお部屋に物体Xが闖入してきた時の。回転する光の輪はぴょんと空中で跳ねて地面と水平になって、あ、ぱしゃっと傘を閉じたみたいに細長く形を変えたのもおんなじだ、次の瞬間にはそれは回転の名残で体に巻き付く、豊かな金髪となったのです。細身の体に捻られていた光の滝が、しなやかな手でばさっと振り払われました。まさに忽然。そこには枯れ葉の絨毯を両足でしっかりと踏みしめた、女神様の姿があるのでした。
「さて、風太君」
女神様は体重を預ける脚を変えつつ腕組みし、不機嫌な顔を風ちゃんに向けます。
「女神様への不敬罪につき、次は地面に額を擦りつけてもらおーかね」
「仰せのままに、と言いたいところなんですけどね。女神様」
注文した味噌けんちんうどん〔ご飯と漬け物付き〕の最初の一啜りに息を吹きかけながら、風ちゃんは落ち着いた口調で応じます。
「今日はおいらも小動物も仕事で出ちゃうし、済みませんが引っ越しの準備は任せますとこっちは言い、うにゅ分かった、キミたちは後顧の憂いなくエレちゃんの食い扶持確保に邁進してきたまへ、と確かこう、まぁ聞きようによっちゃ格差に憤る人たちに今すぐプチ殺されちゃえこのバカ、ってなお返事でしたけどね、とにかくもご了承くださったのは、一体どちらの有り難い女神様でございましたかね?」
「ん?」
女神様、一瞬不自然な笑顔で固まった。
「ああ、そんならほら。リンちゃんもそこでおさぼりな訳で」
「ふむ。さぼってるって自覚はあるんだ」
「私はさぼってません…午前中ずっとお片付けをして、区切りがついたので図書館へ本を返しに伺って…今も帰ったら、続きをやるつもりでいます。エレ様こそ、風太さんが出掛けるやいなや、森へ遊びに行ってしまわれたんじゃありませんか…」
片や天そばの、中身がちゃんと詰まってる大きなエビに早速かぶりついて頷き、片や山菜そばの山菜をちまちま口に運びながら不満を表明し。姐御さんもリンちゃんも、食事を始めつつ会話に加わります。
「家主が出掛けた後でこそこそとか…小さいよね。それじゃ尊敬されないよね。女神様」
「こそこそじゃないよぉ。アリバイ工作とかしてないもん」
立ち上る温かな湯気の向こうにじっと光る、それはもう冷たい3対の瞳。街のそば屋のテーブルから、森に孤立する女神様を射竦めます。けどねぇ女神様、風ちゃんの嘆きに勇ましく反論したはいいけれど、女神様のは逃げも隠れもしねぇ! とかじゃなくって面倒だったか思い付きもしなかったか、どちらかといえば後者なんでしょ?




