第2回(女神様は彼と遊ぶ・その2)
さて、今後も作業を続け得るスペースがめでたく確保できたところで、風ちゃんも押し入れの中から物を引っ張り出すのを再開です。何かの書類の束。ぱらららっとめくって要らない物。コンサートチケットの半券の束。要るんだ? 今は使ってない鞄幾つか。一応要る物っと。お菓子の空き缶。ああ、古い手紙の束入れなんだね。これは要るも…
「ん?」
手紙の入った空き缶を何の気無しに要る物の方へ加えようとした風ちゃんの手が、ぴたっと止まりました。ううん、止まったんじゃなくて止められたって感じかなぁ。風ちゃんの右腕は、床の上の何も無い空間で中途半端に伸びかけています。その何も無い所で何かに突き当たるようにして腕の動きを止められたのです。何これどういう事って感じで風ちゃんはちょっと苛立たしげに再び腕に力を込めました。空き缶は先へ、進む素振りだけを見せて澄ましています。風ちゃんの眉がきりきりきりきりって釣り上がりましたよ。直後、表記不能な物音が風ちゃんの口から短く吐き出されたんだけど、多分裂帛の気合いが前歯に躓いてこけたんだろうなー。もう片方の手も添えて、風ちゃんは最早全身全霊の力一杯です。それでも押す先の空気柱はシリンダーに密閉された液体の如く振る舞って、僅かな後退は柔らかく認めつつ、最終的な突破には頑として抗います。風ちゃんはガチです。何この人空気とガチで押し合いっこしてるのきしょーい。くすくす。メル変な、あまりにもメル変な。だよね♪
「うにゅ。そうだよ、風ちゃん」
風ちゃんがただ一人で空間と力比べを続けているはずのこのお部屋に、そんな声だけが響きます。うら若い女性の美しい声です。ああこの表現、もうまったくなんの捻りも無い陳腐っぷーなものだけど、これは本を全然読まない子が素でいいこと言ったとか思ってるんじゃないからね、過去・現在・未来に存在し得た/し得る人類の全言語において、美しさ・瑞々しさ・心地よさ・神々しさ、そんな感じの諸概念にまつわるぜーんぶの表現を検分し尽くして、それでもなおどの言い回しもこの声を的確に形容し得ないって絶望した挙げ句の、本来は言語化不能であることを含み込む敗北的表現なんだから。そんな声に耳朶を打たれたものだから、力みすぎて裏返ってた風ちゃんの両目も我に返って、ころんと黒目が戻りました。
「メル変っ子と遊ぶ時は、相手がどんな子か見極めてからじゃないと危ないでしょー」
首を寝かせて見てみれば今や右肩のみで天を担ぐ格好のアトラス=風ちゃんは、目だけを動かして声の主を探ってるみたいです。
「つかぬ事を伺いますが」
うん、風ちゃんはその怒りの初期段階としてむしろ落ち着いた、かつ丁寧な物言いをすることが多いけれども、ずっと力んでて体全部が哄笑的に痙攣してる今は一音言う毎にすぽぽぽと余計な空気が肺から漏れてしまい言葉を激しく揺すぶるので、元々はそこに感得されたはずの威厳や重みといったものは糊がとれて振り落とされてしまっています。けどまあその糊付け自体、普段からあんまししっかりしてないんですけどね-。
「女神様は、い今、御自分の部屋を片っ付けられているのでっはっぁ」
風ちゃん頑張って言い切ったけど、最中は色々意地張っておきながら結局最後は抜かれちゃった、みたいな感じの言い方です。くふん。
「ちゃんとやってるよぉ。エレちゃん自分のお部屋にいるもん」
風ちゃんの背後で壁がこつこつと鳴りました。その壁の向こうは女神様のお部屋です。そう言えば微かに人の動く気配もしますね。
「え?」
風ちゃんは虚を衝かれた様子です。力は入れたままちょっとずつ体をずらして、正面が見えるよう苦労して顔を上げました。空き缶は未だ風ちゃん渾身の押す力と見えざる抗力の間に挟まれたまま、なんの支えも無い空中で静止するばかりですが、だからと言って風ちゃんの見る先に女神様の姿がある訳ではありません。けどそうだよねぇ、女神様の声は確かにその辺り、女神様が居るらしい隣のお部屋からではなくて、位置的には正反対の缶を押そうとしてる方から、実際はっきりと聞こえてくるよね。要するに風ちゃんは女神様がいつの間にか音も無く風ちゃんのお部屋に忍び込み、悪戯してやがったのかと思ったのでしょうが、予想に反してそこに女神様の姿が見えないので、きょとんとしたという訳です。




