第七話:平原の亀裂と、包囲陣
地平線を埋め尽くす鉄の波。
帝国軍ギュンター中将が率いる重装甲兵三万の威容は、遮るもののない大平原において、ただそれだけで対峙する一万五千の王国軍を圧殺するに足る絶望の象徴だった。
だが、その圧倒的な武の津波を正面から見据える王国軍の本陣で、俺は、驚くほど冷静に、冷え切った目で敵陣を睨みつけていた。
(……やるしかない、か)
どれほどヘタレな俺であっても、民を守るために平原に出た以上、ここで敵の三万を倒さなければ、俺のスローライフもオルティジアの未来も永遠に訪れない。
幸い、俺の頭の中には、士官学校時代に学んだ至高の戦術の記憶があった。
数倍の敵を狭隘な地形に誘い込み、三方から包囲殲滅する。
一見ただの真っ平らに見えるこのオルティジア平原には、島の造成期に出来たのであろう亀裂が、平原中央を分断するように深く刻まれている。
アルテが勝手に語った「サジタリアス=レイで背後を遮断する」というハッタリを現実のものにするための、完璧な舞台装置がここには揃っていた。
「……レオン、アルテ。これより、こちらの作戦を伝える」
俺は本陣の天幕の中、作戦机の地図を指でトントンと叩いた。
連日の寝不足と胃痛のせいで、俺の声は恐ろしく低く、地を這うように冷徹に響く。
「え……? 陛下?」
いつもなら「胃が痛い」「誰か代わってくれ」と泣き言を言うはずの俺が、冗談の一つも言わずに真剣な目をしている。その異様な覇気に、レオンもアルテも一瞬で背筋を正した。
「正面からぶつかれば、一万五千の我が軍は数で圧殺される。だから、敵を釣る。……レオン、お前が主力五千を率いて前線に立ち、ギュンターの先鋒と真っ向から激突しろ」
「ハッ! 鉄甲兵の出鼻をくじいて見せます!」
「違う。……ぶつかったフリをして、即座に敗走しろいいか?負けるフリだぞ?決して気取られるなよ?」
「な……っ!?」
レオンが弾かれたように息を呑んだ。騎士の誇りを重んじる彼にとって、「戦う前に敗走を演じる」など、思いもよらない不名誉だったのだろう。
だが、俺はそれを一切容赦のない冷たい目で見据え、言葉を重ねた。
「生半可な敗走では、帝国軍の目は欺けない。敵をギリギリまで引き付け、力負けして押されているかのように演じるんだ。」
「……っ、陛下……」
「逃げる方向は、平原中央の亀裂の向こう側だ。敵が勝利を確信し、レオンの首を獲ろうと、三万の大軍が一塊になってあの狭い谷底へ雪崩れ込んできた瞬間――そこが、帝国の墓場になる」
俺は地図の川底の両脇、深い草むらが広がる丘陵地帯を強く指差した。
「谷の両脇の傾斜、草木の影には、セシリアとレイラが率いる《魔導多連装砲》の部隊を伏せさせておく。敵が谷底に密集し、身動きが取れなくなった瞬間に、左右から面制圧の弾幕を叩き込む」
「な、なるほど……! 左右からの奇襲……! しかし陛下、それでは敵は後方へ退却するのでは!?」
「退路など、最初から与えない」
俺は冷酷に言い放ち、アルテを見た。
「アルテ。お前が言った通り、敵が完全に谷底へハマった瞬間、王都の中央塔へ合図を送れ。サジタリアス=レイの光撃を敵の最後尾へ着弾させ、平原ごと退路を爆砕、灼熱の炎で塞ぐ。……これで敵は、前に進めず、後ろにも引けず、左右からは多連装砲の嵐に晒されることになる」
「……あ」
アルテが、呆然と口を開けたまま、小刻みに身体を震わせ始めた。
いつもの身内の勝手な脳内変換ではない。
ラインは、今、自分の口から、かつて誰も見たことのない完璧で、非道で、美しすぎるほどの『包囲殲滅陣』を具体的に組み上げてみせたのだ。
「籠城という防衛機構を平原へ投射する……。ラインは、私が口にした戦術を、ただのハッタリじゃなく……最初から、この地形を利用して実現するつもりだったんだね……!」
アルテの瞳に、畏怖を超えた、純粋な狂信の光が宿る。
いつもなら「いや、そこまで言ってない!」とツッコミを入れるところだが、今の俺にその余裕はない。
ただまともに勝つことだけを考えていた。
「レオン卿。誇りを捨てて、勝利を拾え。お前の双肩に、オルティジアの民の命が懸かっている」
「……ハッ!!! このレオン、不名誉の極みたる敗走、命に代えて演じ切ってみせます!!」
騎士団長が、これまでにないほど激しい敬礼を捧げ、天幕を飛び出していった。
◇
数刻後。
平原に、地を震わせる咆哮が響き渡った。
「全軍、突撃ぃぃぃーっ! 逆賊ラインの首を獲り、帝国の威光を大陸に知らしめよ!!」
帝国軍指揮官、ギュンター中将の号令とともに、三万の重装甲鉄甲兵が一斉に前進を開始した。
迎え撃つは、騎士団長レオン率いる王国軍の先鋒五千。
両軍は平原の端で激しく激突――したかに見えた、わずか数分後。
「流石の圧力だ!演技じゃなくても戦線の維持は難しいぜ!」
「皆、隊列を乱すな!密集体形を維持し、徐々に下がれ!」
レオンの指揮とともに、王国軍は徐々に後退する。
「はははは! 見たか! これがオルティジアの真実だ!」
城壁の上でそれを見ていたアルベルト男爵が、狂喜乱舞して叫んだ。
「海の戦いはただの偶然! 陸に上がれば、もやしっ子ラインなど帝国の敵ではないわ! そのまま押せ! 一人も生かすな!」
帝国軍の総大将、ギュンター中将もまた、その状況を冷ややかに見つめていた。
「……手応えのない。聖王と崇められた男が、この程度とはな。全軍、速度を上げよ。戦法部隊を蹴散らし、そのままラインの本陣へ突入する!」
勝利を確信した三万の軍勢が、密集した塊となり、王国軍を徐々に平原の中央へと押し出していく。
彼らの眼前に、広大な亀裂が迫っていることなど、追撃の興奮に駆られた彼らの目には入っていなかった。
◇
平原を見下ろす、わずかな高台。
俺は、白馬の背に跨り、冷徹な目でその光景を見下ろしていた。
手には、しっかりと手綱を握りしめている。
いつもなら恐怖で気絶しているはずなのに、今はただ、チェスの盤面を動かすような、奇妙な静寂が俺の心を支配していた。
後退を続けるレオンの部隊が、大亀裂を渡りきる。
その後を追って、ギュンター率いる帝国の主力三万が、すっぽりと深い谷底の中へと雪崩れ込んでいくのが見えた。
――かかった。
俺は、静かに右手を高く掲げた。
その隣で、アルテが、セシリアが、レイラが、息を呑んで俺の合図を待っている。
「……放て」
俺の冷徹な一言が、大平原の静寂を切り裂いた。
それは、オルティジア王国の反撃の狼煙であり、帝国軍三万にとっての、終焉の幕開けであった。




