第一話:英雄の朝に、胃痛と修羅場を添えて
『一千五百の決死隊を率い、十万の帝国軍を一夜にして撃退せしめた聖王ライン。――マルマラの奇跡。後世の歴史家たちはそう呼ぶ。その神算鬼謀と、敵の首魁を討ち取る決断力は、大陸全土に『新星の登場』を深く印象づけた――』
歴史書には、きっとそんな大層な文言が躍るのだろう。
戦いから数日後のある朝
「……うぷっ……胃が……胃が破裂する……」
豪華な天蓋付きベッドの上で、俺――ライン=オルティジアは目覚めた瞬間に絶望の表情で天井を見上げていた。
歴史的偉業? 神算鬼謀? 冗談じゃない。
俺は無能のフリを決め込むつもりだった。しかし潜在一隅の好機を前に、身体が勝手に動いていたのだ。そこに運良く猛烈な暴風雨に巻き込まれ、激しい船酔いで白目を剥きながら全自動で突撃させられただけなのだ。
敵将ガルシアを討ち取ったのもレオンだし、火を放ったのも風を読んだ騎士団だ。俺がやったことと言えば、甲板の手すりにしがみついてゲロと死闘を繰り広げていただけである。
「はぁ……もう嫌だ……家に帰りたい……」
———もちろん、ここが家である。
連日の極度の緊張と胃痛、そして戦勝以来周囲からの留まることを知らぬ神格化。
だが、俺に与えられた試練は、単なる胃痛だけではなかったのだ。
◇
「……あ、あの……お兄ちゃん。おかゆと……いつもの胃薬持ってきたよ……」
朝食の食堂。プルプルと手元を震わせながら、義理の妹のニナが重々しい足取りでお盆を運んできた。
ニナの顔はどこか憔悴しきっており、目の下にはうっすらと隈ができている。前夜、祝勝会で起きた『大惨事』のショックから、まだ完全には立ち直れていないらしい。
そして――食卓の空気は、凍りついていた。
「「…………」」
長テーブルの右側に座るセシリアと、左側に座るアルテ。
ふたりの間には、目に見えるほどのバチバチとした火花が散っていた。
前夜の祝勝会。酒の勢いに呑まれたセシリアは、大勢の兵士や貴族の目の前で俺をソファに押し倒し、一瞬のハプニングどころではない――十数秒にも及ぶ濃厚なディープキスをしてきたのだ。
「ふん……なに? 文句があるなら口で言ったらどうかしら、アルテ様?」
セシリアは頬を真っ赤に染めつつも、開き直ったように顎を上げてサラダにドレッシングをドバドバとかけている。
それに対し、アルテは――完璧な笑みを浮かべていた。
瞳の光が完全に消え去った、暗黒の笑顔である。
「いいえ? 文句だなんて滅相もございませんわ、セシリア様。ただ……居候の身分でありながら、公衆の面前で君主を押し倒し、卑俗な欲望をぶつけた無礼者を、我が国の法に照らしてどのような刑罰に処すべきか、法典を再確認していただけでございます」
「なっ……! べ、べつに卑俗な欲望なんかじゃ……! あんたがラインにベタベタついて回るから、私が釘を刺してあげただけでしょ! そもそもあんたこそ、前夜に部屋に押しかけて『誰にも渡さない』とか重すぎる愛を語ってたそうじゃない!」
「なっ、なぜそれを……ッ!? どこで聞きつけたこの害虫め……!!」
「だ、誰が害虫よッ!?」
朝から大惨事である。
俺は胃を押さえ、震える手でニナが淹れてくれた温かいお茶を口に含んだ。
「……ふたりとも、朝から騒ぐな。特にセシリア、いくら酒が入っていたとはいえ、昨夜の挙動は…その、やりすぎだ。」
俺が少し厳しめのトーンで諭すと、セシリアはビクッと肩を揺らした。
そして、さっきまでの強気な態度が嘘のようにすんと静まり返り、耳まで真っ赤にして俯いてしまった。
「ちょっとそれだけ!?私だって…その…初めて…だったんだから……もう少し…」
蚊の泣くような声で、モジモジとフォークを弄ぶセシリア。
さっきまでの暴走が嘘のような態度に、俺の毒気も完全に抜けてしまった。
(……俺だって気まずくて目を見て話せねえっての!)
「はぁ……と、とにかく、気をつけるように……それと、アルテも魔導兵の起動コードを解除しておけ。朝食の席に全自動殺戮兵器が待機しているのは精神衛生上よろしくない」
「ちっ……わかったよ、ライン」
アルテが舌打ち(※ラインには聞こえない声で)しながらセシリアを睨みつける。
こうして、爆発寸前だった朝食の雰囲気は、俺の胃痛と引き換えにどうにか回避されたのだった。
◇
「さて……朝食が終わったら、戦後処理と政の話を始めよう」
俺は気を取り直し、机の上に羊皮紙を広げた。
十万の帝国軍を追い払ったとはいえ、王国が抱える問題は山積みだ。戦死した兵士への遺族手当、荒れた港の修繕、そして何より――兵糧の物流改革である。
今回の戦いで、俺は「食料と物流」の重要性を痛感した。戦に兵站確保は不可欠。どこにどれだけの食料が保管され、どう運ばれているかには人一倍敏感なのだ。
「東方の男爵領を経由する流通ルートを見直し、王都へ直接穀物が集積されるシステムを作りたい。アルテ、計算を頼めるか?」
「やってみるね。ラインの描く流通ネットワークは、有事の際の補給線としても使えるものだね。……ふふ、さすがはライン、すでに次の戦争を見据えていらっしゃるのですね」
「いや、ただ俺が美味いパンをいつでも安く食べたいだけなんだが……」
俺の言葉は、またしても「謙虚すぎる王のジョーク」としてスルーされた。
まあいい。これでしばらくは平和な内政の日々が続くはずだ。俺はふかふかのベッドで昼寝をする未来を思い描き、小さく笑みを浮かべた。
――だが、世界は俺に休日を許してはくれなかった。
バンッ!!
「な、報告です! 陛下、一刻を争う緊急事態です!!」
執務室の重厚な扉が叩き割らんばかりの勢いで開かれ、青ざめた顔の重臣が転がり込んできた。
「あのさ」
「はっ!?」
「君たちは慌ててドアを開けて入ってくる事しかできないのかな?」
「それはどういう…」
「いや、せっかく仕切り直したんだからさぁ…もっとこう…ねぇ?」
重臣が困惑の表情を浮かべる。
「まぁ、とにかく何があった?」
「は、はい! 実は……東方のアルベルト男爵領が、我が国からの兵糧の徴発および査察を拒否し、領地を完全に閉鎖! ――さらに!」
重臣は喉を乾いた音で鳴らし、絶望に満ちた声を張り上げた。
「――マルマラ湖から敗走した帝国軍の残党を、アルベルト男爵が領内へ引き入れている様子! アルベルト男爵領は、我が国から離反したようです!!」
「「「なに……ッ!?」」」
アルテとセシリアが、弾かれたように立ち上がる。
勝利の歓喜も束の間。
十万を破った直後の、もっとも気が緩んでいるこのタイミングでの、身内の裏切りと敵軍の再上陸。
(……は?)
俺は、思考が完全にフリーズした。
裏切り? 帝国軍がもう上陸してる?
嘘だろ? 俺、奇襲成功させて十万破ったんだぞ? 普通、少しは平和な期間(消化試合)があるもんじゃないの? なんで勝利した途端に次のピンチが来てるの??
絶望と、怒りと、何より耐えがたい胃の激痛。
俺は言葉を失い、ただただ白目を剥いて、遠い目をしたまま固まってしまった。
「……っ! 見なさい、あのライン様の御顔を……!」
しかし、その絶望の表情を見た皆が、震える声で息を呑んだ。
「動揺が……一切ない……!? それどころか、『やはり来たか』と言わんばかりの冷酷な眼光……! ライン様は、アルベルト男爵の離反すら、最初から織り込み済みだったのか……!」
「な、なんですって……!? じゃあ、さっきの『東方ルートの物流改革』の話も……!?」
「ええ! 男爵領の兵糧を遮断し、あえて孤立させるための布石だったのです! ……どこまで先を読めば気が済むのですか、このお方は……ッ!」
ちがう。俺はただ美味いパンが食べたかっただけだ。
声が出ない。胃が痛すぎて「ちがう」とすら言えない。
「全軍へ通達! 聖王ライン陛下の御名において、裏切りのアルベルト男爵領を封鎖! 帝国軍残党ごと叩き潰します!」
「「「おおおーーーッ!!!」」」
アルテの宣言に、重臣たちが歓声を上げる。
(頼むから……頼むから誰か俺に胃薬をくれぇぇぇーーーッ!!!)
歴史に名を残す聖王ラインの、新たなる戦い(と胃痛)の火蓋が、いま静かに落とされたのだった。
お読みいただきありがとうございました!
ここから新章『第2部:独立戦争・完結編』のスタートです!
冒頭の歴史書風の絶賛と、実際の胃痛白目男の落差、そして朝食でのセシリアとアルテのバチバチした空気感をお楽しみいただけたでしょうか。
十万の帝国軍を破ったのも束の間、男爵領のまさかの離反と帝国軍の再上陸!
絶望で白目を剥いているだけのライン陛下ですが、またしてもアルテによって「すべて織り込み済みの神軍略」として勘違い神格化されてしまいました(笑)。
「第2部開幕おめでとう!」「アルテの暗黒笑顔とセシリアのツンデレが最高」「ライン陛下、第2部も胃お大事に……!」と思ってくださった方は、ぜひページ下部の【★★★★★】評価やブックマークで応援していただけると、執筆の凄まじい活力になります!
次回もどうぞお楽しみに!




