バーガイル伯爵家の騒動
時間はぐるりと遡る―――
グレイとジュネスがマーギスタに旅立ってしまい、心なし伯爵邸は寂しい雰囲気に包まれていた。ライナの事になると過保護を如何なく発揮する二人(特にグレイ)がいないだけで、こんなにも沈んだ空気になってしまうものなのかと驚いてしまうほどの変化だった。
ライナが伯爵邸に身を寄せるようになるまで、グレイは兵舎で寝泊まりしていたし、ジュネスも現在と同じ独身寮にいた。当時はファヴォリーニとミラビリスの仲も、あまり良好ではなく、もともと静かで空虚な邸宅だったのだ。だが、ライナが現れたことにより、グレイは寝床を本宅に移し、ジュネスも毎日顔を出すようになった。夫妻の仲も改善され、使用人たちの空気も穏やかで楽しげなものに変わっていったのだ。
ライナは変わらずここにいるというのに、煩いほど構う人物がいないだけでこんなにも静寂が訪れるとは予想していなかった。
なんとなく、ライナの元気もない。
「お嬢様、奥様がお呼びですよ」
別館のライナの部屋に顔を出したのはニーナだ。ライナ専属の侍女ということになっているが、最近は他にも屋敷の仕事をするようになった。元々一時引退するまでは、バーガイル伯爵家で侍女頭をしていた腕前は、若いメイドたちの憧れでもある。乞われ仕事を教えているうちに、空き時間には屋敷の仕事にまで乗り出してしまうようになったのだった。そして、ライナは平民出身どころか、森に入れば狩りまでこなす森の民だ。世間一般の貴族のお嬢様のように、手のかかる娘ではない。そのため、ニーナの空き時間は否応なく増えてしまうのが現状だった。
ライナは呼びかけに応じて椅子から立ち上がり、いつもの鞄を肩にかけて部屋を出る。声の出せないライナにとって、この鞄の中に入っているものは必須アイテムだ。
ニーナに先導される形で本館のミラビリスの部屋までたどり着くと、樫の扉をノックした。ライナの到着を告げると、内側から扉が開かれる。
「ようこそ、ライナ」
扉を開けて笑みを向けてくれたのは、ミラビリスの侍女をしているリリーだ。以前、孤児院訪問した際に仲良くなってからは、気安く声をかけてくれる人物である。あまり気安くしているとニーナやクレールに怒られるので、リリーは誰もいない時を見計らってライナに構ってくるのだ。
「こちらへいらっしゃい」
奥から聞こえてきた声に顔を上げると、紺色の落ち着いたアフタヌーンドレスに身を包んだミラビリスが待ち構えていた。妖艶な美女という表現がぴったりする麗しさだ。少し前までは夫であるファヴォリーニとの不仲により、部屋に閉じ籠って出てこず、貴族の嗜みである社交を投げ出したり、使用人に無理難題を言いつけたり―――問題はアンヌを婚約者として祭り上げた事が一番の原因だと思われるが―――とにかく二人の仲はギスギスしたものであった。
だがそれも、グレイがライナを連れて戻ってからすべてが好転した。女性に興味が無いのかと噂されるほど女の影が無かったグレイが、ライナにだけは異常なほどの執着を見せたのだ。当時まだ14歳だったライナに対しての執着に、別の意味で戦慄を覚えた家人たちであったが、引き離そうにも離せない。宥めすかしても効果なし。頭を悩ませている間に、いつの間にか家人たちの方がライナを気にいってしまったという……。
最大の案件は、9年間グレイを追い続け『彼の妻になるのはわたくしよ!』と公言していたアンヌなのだが、その彼女もグレイが一途にライナを想っている姿をまざまざと見せつけられ、切ない失恋を受け入れたのだった。
そして今……ライナはこの室内に息苦しさを覚えていた。
「ほら、早くおいでなさい」
「……」
そう言ってライナを手招きしているのは、そのアンヌだったのだ。
ミラビリスの私室は、さすがに伯爵家の女主人に相応しい造りと広さだ。居間の他にも奥に部屋が数部屋あるらしい。広々とした部屋に置かれた豪奢なテーブルとソファーのセット。用意されたスイーツは甘く、口の中でほろりと溶ける食感は幸せな気分にしてくれる。淹れてもらったお茶は少し苦みがあるが、スイーツの甘みと合されると、口の中で絶妙な調和を生み出した。絶品である。幸せである。だが、隣から発せられる空気がとても居心地を悪くしている。
「グレイ様が遠方任務だなんて残念ですわ。ねぇライナ?」
「……」
「わたくしをお振りになったグレイ様が、ライナとどんな生活を送っているのかと気になっていましたが、残念ねぇ〜ライナ?」
「……」
「わたしくの愛と献身の9年間を捨てて―――……グレイ様は悪い病気に掛かっているのではないかと心配しているのですけれど、本当にご病気ではなかったんですの、おばさま」
「ほほほ。面白いことを言う子ね。グレイは正気ですよ、正気でライナに惚れてるようです」
―――ぶはっ!
「ちょっと、なに汚いわね!」
ミラビリスから飛び出した言葉に、お茶を口に含んでいたライナは思い切りそれを吹き出した。慌ててニーナがタオルを持ってきてくれる。視線を感じてふと顔を上げると、リリーがニヤニヤと笑っていた。
「まぁまぁライナ、どうしたの。気管に入っちゃったのかしら」
のんびりと的外れなことを言うミラビリスを無視し、ライナは鞄の中から黒板とチョークを取り出すと大急ぎで文字を書き殴り見せた。
〔惚れたって、なんですか!?〕
「んまぁ鈍感な子がここにいたわ」
「あそこまであからさまなのに、あなた今まで気づいてなかったの!?」
黒板の文字を見て、二人の淑女は声を上げた。グレイの母親であるミラビリスは、なんとも呑気なものだったが、振られたばかりのアンヌは心の底に眠らせていた憤りを思い出したのか、オレンジ色の瞳に涙を浮かべた。
「悔しい……っ」
感情が高ぶったのだろう、ドレスの裾を握りしめ激情に耐えているようだった。そしてミラビリスはその手を優しく包み込む。
「アンヌ、手が傷ついてしまうわ」
「おばさま……わたくし……」
「すぐに忘れるなんて無理は言わないわ。あんなにグレイの事を好きでいてくれたのだもの。わたくしも煽ってしまっていたし―――。少しずつ少しずつ、心の澱を溶かしていきましょう。ゆっくりでいいのよ」
元婚約者であるグレイの実家に来ることは正直苦痛だろう。だが、ミラビリスはあえてアンヌを呼び寄せ続けた。ミラビリス自身がアンヌの事を気にいっているという事実もあるが、このままアンヌを放置してしまうと、彼女は次の恋愛の時期が来ても向き合えなくなると直感したからだ。あまりにも長い9年という月日。その期間想い続けてきた人物を、そう易々と忘れられるはずがない。
「美味しいものを食べて綺麗なものを見て、笑って泣いて……それでいいのよ」
―――そうして積み重ねたものが、悲しい気持ちをいつか覆い隠してくれるから。
泣き出してしまったアンヌと、そんな彼女を慰めているミラビリス。アンヌがグレイを諦めようとするに至った出来事は身をもって知っているのだが……それでもライナはグレイが自分に惚れているだなんて自惚れたことは一度もなかった。
そういった恋愛沙汰に不慣れなこともあるし、グレイとジュネスのことは兄の様に慕っている気分だったので、考えが及ばなかった。おかげで先程のミラビリスの爆弾発言を聞いた後だというのに、それに反応してアンヌも泣いているというのに、ライナは『嘘だよ、きっと』と思っていたのだった。
「ニーナ、そろそろ来ると思うから準備しておいて。リリーも手伝って」
アンヌを慰めつつ、ミラビリスは壁に掛けられた時計を見て二人の侍女に指示を出した。
「はい、奥様」
応えた二人は居間の奥にある部屋に行くと、なにやら大きな箱をたくさん抱えて戻って来た。そしてそれを何往復かする。それから今度は小さな箱をたくさん持ち出して来て、どんどんと積み上げていった。
静かだった室内が慌ただしくなったのに気が付いたのだろう、アンヌが伏せていた顔を上げた。涙の痕の残る頬を確認すると、ミラビリスはリリーに化粧直しの指示を出し、自分は運び出された箱の前に歩いて行った。
「結構あったのね」
「さようでございますね」
意外そうに呟くと、ミラビリスは箱の海をそぞろ歩き、一つの大きな箱を指さした。気づいたニーナがその箱の蓋を開け、中身を取り出した。
それは、優しいレモンイエローのドレスだった。
「あら懐かしい。わたくしが結婚したばかりの頃のものよ」
「虫食いは無いようです」
「やっぱりデザインが古いわね」
「膨らみが足りないのかもしれません」
「全体的に淡い色だから、新緑のような緑を差し込めばいいと思わない?」
「それはようございますね」
「こっちも開けて」
「はい」
次に取り出されたのは瑞々しいパステルピンクのドレスだ。
「懐かしいわぁ、嫁入り前に作ったものよ」
「奥様の時代は、全般的に淡い色が流行っていたのですか」
「そうね、目立つことを良しとしない風潮ではあったわね」
だからなのだろう。淡い色で仕立てられたドレスは、意匠も大人しく全体的にぼんやりとした雰囲気になっていた。
「いまだったら、もっと膨らませて腰に巻くリボンをもっと太いものにするわね。もちろん色は薔薇色よ。薔薇飾りも真っ赤なものを用意して胸元に飾れば素敵ではなくて?」
「それぐらいの手直しでよろしければ、すぐにできますよ」
「あら、そうなの?」
「膨らみはパニエで増やせますし、薔薇色のリボンもございます。薔薇飾りは……ああ、これ。奥様のをお借りできれば」
山積みにされていた小さな箱の中から、ニーナは真っ赤で大振りな薔薇飾りを取り出した。今の歳で使うには少し派手すぎるからと使わなくなっていたものだ。
「いいわね、それ。けどライナには大きすぎないかしら」
「では新しいものを求められますか?」
「そうねぇ。新しいものでもいいんだけど……ドレスと同じように手直しは出来ないかしら」
「では、来たら聞いてみましょう」
ミラビリスとニーナの会話に着いていけず、他人事のように聞き流していたのだが、自分の名前が発せられるに至り、ようやくライナは二人の傍に寄って行った。
「ほら、ライナ当ててみて……うん、やはり若いからこういう色が似合うわね」
「奥様、こちらの花柄ドレスは避暑用でしょうか」
「あらぁ、これわたくしのお気に入りだったのよ。ぜひライナにも着てもらいたいわ」
ライナの事を話しているようだが、ライナ本人は放置で話が進んでいく。どうしたものかとオロオロしていると、その肩を後ろから掴まれた。
「何をしているか教えてあげましょうか」
「……」
後ろにいたのは、化粧直しを済ませたアンヌだった。泣いていた形跡はすっかりなくなっている。
「おばさまの着なくなったドレスを作り直して、あなたに譲り渡すのよ。ちなみにこれは、バーガイル伯爵家に続く『姑から嫁に送るプレゼント』らしいから」
「……!??」
予想外の発言にライナは目を回しそうになった。
―――意味が分からない!何がどうなってどうなったらこんな事態になってるわけ!?
突然発せられた理解不能な状況に、ただ困惑するしかないライナだった。
ロットウェルでは、こんなドタバタが起こってましたの巻。
しばらくこんなノリになりそうです。




