ただいまと新しい出会い
ライナは馬車の揺れに身を委ねながら、自分が目指すべき目標ができたことが嬉しかった。ただなんとなく過ごすしかないのだと、漠然と思っていたこの数日。霞がかっていた世界に光が差したような気分だった。
父の残してくれたものは、ライナを護る石の他に、指針となる【魔法士】という道もあったのだ。もしかすれば、父は【魔法士】を望んでいないかもしれない。だが、ファーラルとグレイという二人の先達がいるのに、学ばないなどという選択肢はなかった。
〔わたし、頑張るから〕
黒板に並んだ丸みを帯びた文字と、ライナの期待に満ちた瞳の強さに、グレイは困ったような顔をしていたけど、それでも最後は頷いた。
あのあとファーラルは手早くなにかの書類を作成すると、それをグレイに手渡した。その書類の内容を見てグレイは軽く目を瞠ったようだが、すぐに大切そうに封筒に入れた。ファーラルは特に何も言わず、立ち上がると執務室を出ていくので、ライナたちも慌ててその後を追う。4人は途中まで一緒に通路を進んだ。
「グレイ。窓口にそれを出して、許可証を申請しろ。早い方がいい」
「わかりました。帰りに寄ります」
ファーラルのいう『それ』とは、先程グレイに渡していた書類の事だろう。神妙に頷くグレイは緊張しているようだった。
「今からそんな顔をしていてどうする。腹をくくれ」
「はい」
ライナには二人の会話の意味が分からず、ぽかんと見上げているしかなかった。
「あ、そうだファーラル様」
「ん?」
一番後ろから付いて来ていたジュネスが、少し早足で近づこうとして、ファーラルはその歩みを止めた。
「ガーネットさんが、先に議場に行っていると仰ってました」
「わかった。まぁ時間的にもギリギリだし、仕方ない……か」
何かを含んだ言い回しだったが、それでもすぐに思考を切り替えたらしいファーラルの表情は、すぐに一変した。廊下をダラダラと歩いていた時は、グレイと同い年くらいだと思えた程だったが、いま見せている表情は年相応以上の迫力があった。
「グレイ、ライナの指導を怠るな。ついでに兵の指導も合わせて命ずる。辺境への派遣は暫く見送ってやるから、これぐらいこなせ」
「わかりました」
「ジュネス、おまえはライナを教育をしろ」
「教育、ですか?」
突然振られた内容に、ジュネスは驚きの表情を隠せない。同じく、グレイも意図が分からないのか困惑した顔だ。
「一般教養だ。つまり、勉強。読み書きはもちろん、歴史や地理も教えろ。生きていく上で覚えておいて損はない。」
ファーラルからの予期せぬ言葉に、グレイとジュネスはもちろん、ライナも驚いていた。グレイとジュネスは、ライナに教育など考えてもいなかったのだろう。毎日ぬるま湯の中で囲って過ごしていくつもりだったのかと,ファーラルは内心大いに呆れていた。だが、彼らの隣にいたライナの瞳の色は違った。勉強、読み書き……村では満足に施されなかったものがここで得られるという。それはなんと甘美な響きだろう。
〔わたし、勉強していいの?〕
ライナは鞄から黒板とチョークを取り出すと、慌てて文字を書き殴って見せた。いつもより数段乱れた文字だったが、なんとか解読はできる。
「ライナが学びたいなら、教えるよ」
「――― !」
ジュネスがしゃがみ込み、にっこりと笑いながらそう告げると、ライナは大喜びでジュネスの首に抱き付いた。
「ラ、ライナ、離れなさいっ」
グレイは慌ててジュネスからライナを引き離し、その腕に抱き上げた。そして彼はそれから馬車に乗るまでずっと自分の腕に閉じ込め、離すことはなかったのだった。
ファーラルが議場に向かう通路で、ライナは離してくれないグレイの腕の中から何度も口パクで『ありがとう』を伝えた。ファーラルは最後まで自分の弟子を冷めた目で見ていたが、上機嫌なグレイは気にした様子はない。書類の窓口でなにかの許可証を発行するときも、ずっと離されなかった。グレイの左腕に座らされている状態で抱きかかえられているため、視界がグレイよりも高い。ふと下を見れば、困ったようなジュネスと目が合った。
窓口の女性もぽかんとしていたし、通りすがりの人たちも全員ぽかんとしていた。城勤めのメイドたちの悲鳴と絶叫も聞こえていた。グレイにも届いているはずだが、気にしたそぶりは一切ない。
許可証の発行は少し待たされたが、比較的あっさりと渡された。
「これで俺も【魔法士】師範だ」
見せられた許可証は手のひらほどの大きさで、グレイの名前と【魔法士】師範という文字が並んでいた。
「これがないと、誰かに教えることは許されない。精霊の力というのは強大だからね。師範という位は、師から弟子へと受け継がれていく。万が一、弟子がなにかを仕出かせば、その責任は師にまで及ぶぞっていう脅しも兼ねてるんだ」
許可証を一緒に見ようとすると、自然と二人の顔は近距離まで接近していた。グレイは頬に触れる柔らかい髪にドキリとしたが、ライナは一切気にしておらず、ただ一心に初めて目にする許可証を眺めていた。
再びジュネスに馬車を用意してもらい、3人はバーガイル家に帰り着いた。馬車が玄関ポーチに差し掛かった時、扉が大きな音を立てて開かれる。
「おかえりなさいませ」
クレールは、いつも冷静な彼らしくなく慌ただしく出迎えた。そうして思い出す。ライナが倒れたとジュネスに伝言してあったのだということを……。
「すまなかったクレール。ライナは無事だ」
馬車から下りてすぐに謝ったグレイ。その後ろから姿を見せたライナを見て、クレールは強張っていた肩の力を漸く緩めた。
「それはようございました」
いつも冷静沈着で焦りなど見せない執事が、ライナのことを心配していたのだと分かり、グレイは無性に嬉しかった。
「汗を流していないから、風呂の用意をしてくれ」
「湯殿の用意は済んでおります」
「俺は拭くだけでいい。ライナを頼む」
「かしこまりました」
出迎えたクレールは、集まっていた侍女たちに指示を出していく。その間にライナは黒板に文字を書きつけ、クレールに見せた。
〔ただいま帰りました〕
その文字見たクレールは一瞬驚いた顔を見たが、すぐに嬉しそうに目尻を下げてもう一度目を見て言ってくれた。
「おかえりなさいませ」
屋敷に帰ってきたのは、すでに夕刻近かった。夕飯は揃って食べると言われ、汗を流したライナは気乗りしないままに本館へ足を踏み入れたのだった。
相変わらず大量に並んだ銀食器に、思わずライナの眉が寄る。ミラビリスはライナなど視界にも入っていないのだろう、運ばれてきた食事を鮮やかな手際で口に次々と運んでいく。
「もっと味わって食べたらどうだ」
止まらないミラビリスに、ファヴォリーニは呆れを含ませた声で話しかけた。それを聞いて、やはり明らかに早い食事スピードだったのだと納得したライナだった。
「だってあなた。家族の団欒に家族以外の者が混ざっておりますのよ。がっかりですわ。アンヌを呼ぶはずだったのに、グレイもあなたも許可を出してくださらないし」
ミラビリスの発言に、ライナは耳を疑った。
アンヌの来訪をグレイが喜んでいないようなのは、なんとなく理解できていたが、まさかファヴォリーニも同意見だとは思わなかったのだ。
「今日は紹介したい者がいたからな」
「誰ですの」
「後で顔見せをする。まずは食事を済ませる」
機嫌の悪いらしいミラビリスは、口調荒く前当主に問い直したが、ファヴ
ォリーニはそれをさらりとかわし、何事もなかったかのように平静のまま食事を続けた。ミラビリスは追及を諦め、食事を再開した。さきほどよりは、幾分ゆっくりと。
グレイは父が何を考えているかわからなかった。アンヌへの招待を断ってくれたことは嬉しかったが、だからと言って油断はできない。彼が紹介したいと連れてきているだろう人物が想像できなかったのだ。
母ミラビリスでもあるまいし、とんでもないゲストではないと信じたいところだが、安心できるような確信が持てないのが実情だった。
そしてその頃ライナは、銀食器と格闘していたので、バーガイル伯爵一家の静かすぎる牽制に、まったく気がつかなかった。
食事を終え、相変わらずあまり食べれなかったライナは、戻されていく皿を恨めしく見送った。
「旦那様。紹介したい人物とはどなたですの」
くつろぐ間もなく、ミラビリスは夫をねめつけた。そんな妻の様子を見てから、ファヴォリーニは控えていたクレールに指示を出し、話題の人物を連れて戻ってきた。その隣には、別室で夕飯を食べていたのだろうジュネスの姿もあった。
「まぁ……ニーナ!」
ミラビリスは現れた小柄な女性を見て、満面の笑みをもって出迎えた。ニーナと呼ばれた女性は優雅に礼をすると、顔を上げて柔和に微笑んだ。
「旦那様。またこちらに来られて幸せでございます。奥様、ご無沙汰しております。お変わりなくお美しくいらっしゃいますね」
丸い顔に小さなパーツがバランスよく配置された、可愛らしい顔立ちの女性だった。薄い茶色の髪に、所々白いものが混じっているのを見れば、年の頃は50は過ぎているだろう。だが、愛らしいと表現できる顔と仕草は、幼さもあってもっと若く見えた。優しげなセピア色の瞳がゆっくりとそれぞれの顔を見渡す。
「ニーナ、戻って来てくれたのか……」
グレイは立ち上がるとニーナの傍に駆け寄り、その小さな体を緩く抱きしめ、ふくよかな頬に親愛のキスを贈る。
「ぼっちゃま、ご立派になられましたね。ニーナは嬉しゅうございます」
「ぼっちゃまは勘弁してくれよ」
「あらあら、そうですね。もう伯爵家当主様なのですもの。でも、わたしくにとっては、いつまでも大切なぼっちゃまでございますよ」
小さい目を細めて微笑むニーナは、グレイの乳母だった女性だ。グレイが成人してからも、しばらくは侍女長として屋敷に勤めていたが、ニーナの娘の出産を機に、バーガイル家を退職して家に戻っていたはずの人物だった。
「それにしてもどうしたの、ニーナ。グレイとアンヌの結婚はまだだから、乳母としてはまだ早いわよ、ほほほ」
ミラビリスは心許せる懐かしい人物の登場に喜んでいた。そしていづれ乳母を雇うことになれば、ニーナ本人かその娘に依頼しようと思っていたのだ。計画よりずいぶん早いが、ニーナが再び屋敷勤めをしてくれるのならば、言うことはない。
「……悪い冗談だ」
ミラビリスの高笑いにグレイは渋面を作りつつ、小声で吐き捨てた。その言葉をニーナはしっかり拾っていた。
「ぼっちゃま。ニーナはぼっちゃまの味方でございます」
「ニーナ?」
そう言ってくれるニーナを嬉しく思うが、そもそも何故ニーナが現れたのかわからないグレイは、紹介すると宣言していた父親に視線を向けた。ファヴォリーニはその視線に気が付くと、飲んでいた紅茶のカップをテーブルに戻し、ニーナを手招きして呼び寄せた。素直にファヴォリーニの隣に並んだニーナを確認し、その口を開く。
「ニーナにはライナの侍女をしてもらう。雇い主はグレイ。給金はクレールが管理しろ。わたしは一切関知しない。ミラビリス、ニーナは別館での役目がある。お前の勝手で連れ回すことは許可しない」
先立って聞いていたニーナは笑顔。クレールは了承のため頭を下げた。
そして突然飛び出した言葉に反応できなかったグレイとミラビリスは半ば硬直し、先に聞かされていたのかジュネスは納得顔。ライナはどうすればいいか分からず、視線を彷徨わせていたのだった。
更新が遅くなってすいません。
相変わらず亀の歩みですが、これでも進んでおります!




